16
「ルシアータ」
声が、明るい。
夕食の席では、ずいぶんと疲れた顔をしてらっしゃったので、少し不安だったのだが。
ざわざわと涼しい風が吹く秋の庭。夜の中であっても、花々の美しさは損なわれていない。
そんな中で一人で立っていたところを、しっかり見つかってしまったらしい。
「ここにいて大丈夫かい?」
「構いません。庭師として、計画を立てていたところです」
「君は、もう少し休んだほうがいい」
「……ユギル様こそ、お休みください。
昨日は私のせいでほとんど休んでいらっしゃらないでしょう?」
「大丈夫だよ。忙しい時期はこれくらい、よくあることだ」
少しばかり楽しそうに言いながら、隣に並ぶ。
よくあること、なんて、簡単に言ってしまっていいのだろうか。
思わず顔色を見ようと思って、帽子に手をかけようとしてしまった。
慌ててその手を引っ込める。
それだけ主の前で帽子を外すことに抵抗がなくなったということか。
……あぁ、それは、よくないことだ。
自分の変化がとても恐ろしくなる。一層、気を引き締めなければ。
決意を新たにしていることなど、隣の主は気付かないだろうけれど。
「ルシアータ、この場所は君が攫われた場所だけど、怖くはない?」
「怖くはありません。ここは、私のとても大切な場所ですから」
「そうか。なら、少し散歩をしよう。
秘密基地、と言いたいところだが、今の君を地面に座らせるわけにはいかないからね。
向こうの東屋まで」
「はい」
……確かに、こんな綺麗な服では、抵抗がある。
夕食の帰りだったので仕方がないのだが。
差し出された手もまた、抵抗がある。
けれど、これも多分、諦めるしかないことだ。
そっと、重ねると、しっかりと握られた。
「君の手、少し冷たいね。長い間ここにいた?」
「いえ、そんなに長くはないと思われますが」
確かに、主の手のほうがあたたかい。
安らぐけれど、落ち着かない。
腕を引かれたので歩くけれど、とても、緊張する。
「体調は?眠り薬の影響は残ってない?」
「問題ありません」
むしろ眠りすぎたと思っている。それくらいに、調子がいい。
今夜眠れるのか心配になるほどに。
昨日からほとんど眠れていないであろう主には、言えるはずもないことだ。
申し訳ない。
「傷の具合は?」
「特に痛むこともありません。大丈夫です」
「そうか……すまなかった。ルシアータ。
助けに行ったつもりが助けられるなんて、情けないな」
「いいえ。助けていただいたのは、私のほうです」
ぐ、と思わず握った手に力を入れてしまい、慌てて緩める。
痛かったりしていないだろうか。
気にしていると、少しだけ、強く握られた。
顔を上げるが、もちろん、帽子に遮られてどんな様子なのか、わからない。
「けれど、君を危ない目に合わせ、庇われた。
僕が、それを許せないんだよ」
声は、いつものように優しい。
けれど、大きな後悔があるのだろう、とは思う。
それは、お互い様、というものなのだが。
攫われて、忙しい中わざわざ探していただいて。
それは、庭師にするような行動ではない。
大切に思ってくださるのは非常に有難いが、そこまでされる身分ではないのだ。
どうも最近そのあたりの線引きが曖昧になっている気がする。
そんなことをぐるぐる考えているうちに東屋にたどり着き、席を勧められた。
「……ユギル様が先にお座りください」
「君のほうが先だよ。ルシアータ」
「もう少し主らしくなさるべきです」
「女性に譲るのが男の務めだよ?」
やはり、平行線か。
諦めて、手を離し先に座った。
空っぽの手は、少し冷える。
主は、テーブルを挟んだ向かい側の席へ。
「帽子、取ってくれるかい?」
「はい」
言われたとおりに従う。
真っ直ぐ、目元を細めて見つめてくる姿は夜でも眩い。
あまり疲れた様子は見えないことに、安堵した。
「君は受け入れないだろうけれど、まずは、謝らせてくれ。
すまなかった。ルシアータ」
「……ユギル様」
まだ言うのか、と、言いたくなる。
けれど、続きがあるようなので、飲み込んだ。
「アーゼナルに仕えるものを守ることは当主の役割だ。
もちろん、身の安全だけではなく、生活も含めて、全部だ。その義務を怠ったのは、僕の責任になる。
まずは、それを理解してほしい」
「……はい」
「だから、アーゼナル家として君への対応をどうするか、なんだけど。
もちろん、治療は全てこちらが手配するし、仕事を休んでくれて構わない。ちゃんと、休んでいる間の給料は出すよ。
その上で君が望むことはあるかい?」
「いえ……これ以上望むことはありません。
……あの、そんな待遇をよくしていいんですか?」
「他の家は知らないけれど、アーゼナルではこれくらいは当たり前だよ、ルシアータ」
そういえば、前にここの待遇がよすぎて驚いたという話を聞いた、ような。庭師の誰かだったと思う。
本当に、そんな感じなのだろう。
いいのだろうか、と逆に不安になってしまう。
「本当に、何もいらないのかい?」
「はい。私は、ここに戻れたことが何より嬉しいのです」
「そうか。君は、無欲だね」
「……そんなことは、ないと思われますが」
「そうか……うん。わかった。
なら、また要望があればいつでも言ってくれ。
さすがにここを出て行くのは困るけどね」
茶化したように笑う。
ここを出て行くことがないことを、わかっているのだろう。
それは事実であり、この家の庭師をやめたいとは思わない。
むしろここに残して欲しいと嘆願するほうだ。
「では、謝罪は終わりにしよう。ここからは、個人的なことだ。
ルシアータ、助けてくれて、ありがとう。
僕の命がなければ、こうして話すことも出来なくなっていたね」
「いえ、私があのようなことをしなくても、誰かが気付いていたかもしれません。
余計な事を、したのではないでしょうか」
「でも、助けてくれたのは、君だ。結果が全てだよ。
助けてくれたときの君は、かっこよかった」
かっこいい。
そんなことを言われたのは初めてだ。
むずむずする言葉。けれど、あまり当てはまらない言葉。
当てはまるのは、どう考えても違う人。
「……剣を抜いているときのユギル様のほうがかっこよかったと思われますが」
「え?」
「とても、似合っておりました。
ずっと冬の庭で訓練なさっていたので、当然なのかもしれませんが」
「え、ちょ、なんで特訓のことを知っているんだい!?」
珍しい。慌てている。
ついぽかんと眺めてしまい、しまった、と気付いた。
隠れていたのだ、向こうも、こっちも。
見つからないようにしていたのに。
けれど、もう言ってしまったのでどうしようもない。
「……ずっと、見ておりましたから」
「そ、そうなんだ……そうか」
「努力なさるユギル様を見て、幼い私は、この方の努力に見合うだけの庭師になろうと、決意を新たにしていたのです」
見かけたのは、偶然だった。
庭師の見習いになったばかりの頃、部屋にいなかった祖父を探して歩き回っていたときに、見かけたのだ。
一人汗だくになって剣を振り回す少し年上の少年。
少し後に主だと知ったのだが、最初に見たときは、気付いていなかった。
ただ、その真っ直ぐな様子に、同じように子供が頑張っている姿に、元気付けられていたのだ。
それ以降、主とわかってからも時折様子を見に行って、勝手に勇気をもらっていた。
がんばろう、と、思うようになっていた。
「……なんというか……剣の才はないからあれだけのことをしていたわけで。
かっこわるいところを見せてすまなかったね。ルシアータ」
「かっこよかったのです。私には」
幼い努力家を思い出し、つい頬が緩む。
いつの間にか訓練はなくなり、主は忙しくなった。
そうしているうちに、有能さを称える声と、女性関係の噂がよく聞こえるようになってきたが。
それでも、日々の様子を見ると努力家の面は変わっていないのだろう。
それが、とても嬉しい。
「君が笑うところは、本当に珍しいね」
「そうですか?」
「うん」
帽子で見えていないだけではないだろうか。
逆に主はよく笑っている気がする。
帽子で見えなくても、声が、とても優しく暖かく、笑っている。
「ルシアータ、聞きたいことが、あるんだ」
「はい」
「君は、僕の側にいたいと言ったことを覚えている?」
そういえば、言った気がする。
確かあのエブレスの方々に向けて。
他にも感情が高ぶっていろいろ言ってしまった気もするが、断片的にしか覚えていない。
それでも、一応言った記憶はあるということで、頷いておく。
「ならルシアータ、そろそろ聞いてもいいのかな。
君は、庭師として僕の側にいたいのかい?それとも、結婚相手として?」
「それは……」
正直に言ったほうがいいのだろうか。
けれど、ただの庭師でいたほうが、いいのではないだろうか。
ユギル様がいいと、決めた。
大切で特別な人だという感情を、もう否定することは出来ない。
それは本当で、けれど、この期に及んで、また意気地の無い自分がいる。
断られることはないだろう。結論を、受け入れてくれるだろう。わかっている。怖いのは、そこではない。
何が恐ろしいのかがわからないのが、怖い。
あまりに漠然としていて、形容できない不安だ。
「ルシアータ」
その笑顔は、ずるいと思う。
品評会のときも、攫われた時も、そうして笑ってくれるだけで、安心したのだ。
この人の側で生きていたいと、力をくれた。
もちろんそれは、今もだ。
「……ユギル様、私は、庭師です」
ぐ、と手を握る。
何を言っても、この優しい環境は姿を変える。
同じではいられない。
「たとえ血筋が優れていようと、滅びた国のものです。
たとえ品評会で認められようと、結局は庭師です。
私は、どう足掻いても、ただの使用人です」
「うん」
「……だから、求婚の申し込みは受け入れるべきではないと、思っています」
ちくちくと、胸が痛む。
事実だからこそ、痛む。
主のほうを見ていられなくて、俯く。
「ですが……私は……っ、ユギル様と一緒に、いたい、です。
私、は……ただの庭師で……」
「もういいよ。ルシアータ。顔を上げて」
言われた通り、顔を上げる。
変わらない笑顔……に見えて、いつもより嬉しそう、なのか。
「最後まで聞いてあげたいけど、君は自分を下に見すぎているからね。
一つ、質問に答えてくれればいいよ。
君は、僕と結婚したいと思ってくれている。そうだね?」
「……はい」
「うん。それでいい。なら君は願えばいい。
アーゼナル家が君を守れなかった詫びを。僕を守ってくれた礼を。
願えば僕が、叶えてあげよう」
「そんなこと、出来ません!」
「なら、命令してあげようか?アーゼナル家に迷惑をかけた罰として、僕と結婚すること。
……君は、そのほうが気が休まるかな」
それは、そうなのだが。
だけど、そんなこと。そんな我が侭のために。
しかもそれは罰ではない。
「僕はね、君が欲しいんだよ。ルシアータ。出来れば、君にもそれを望んでほしい。
多分ね、僕は君以上に我が侭だよ。そろそろ、諦めたほうがいい」
……ユギル様は、庭師とは違い、何を望んでもいい立場だ。
そう言いたかった。
けれど、何を言っても聞いてはくれないだろう。
「……望んでも、いいのですか?ご迷惑にはなりませんか?後悔、なさいませんか?」
「多分、ここで君を引き止めないほうが後悔する」
あぁもう、この人は。
どうしてこう、いつだって言いくるめてくるのか。
口では勝てないのは、心底理解しているが。
「ルシアータ、受け入れてくれるかい?」
「……はい」
「それはよかった」
多分それは、一番嬉しそうな笑顔だったように思う。
見たことがないほどの、笑顔だ。
これ以上、何を言っても無駄なのだ。
もうすでに、事態は諦めるべきところに来ている。
嬉しくないわけではないけれど、本当にこれでいいのだろうかという不安もある。
けれど、やっぱりその不安も、主の笑顔にかかれば吹き飛んでしまうのだから、本当に不思議でならない。