15
目が覚めて窓の外を見ると、もう夕方だった。
ぼんやりと寝すぎてふらつく頭を起こす。
見慣れた自室だ。広いほうの。
そういえば、戻って傷の手当などをして、眠る頃にはもう明け方が近かったか。夏の盛りであればうっすらと空が明るくなるような時間だった。
だからといって半日も眠っていいわけがない。
細かい説明なども起きてからにしようと言っていたのに。
こんなことになるとわかっていれば、あの会話のない、長い帰り道の間に話しておけばよかった。
互いに夜中で疲れていたというのが災いしたのだろう。
王都から少し離れた貴族の別荘地跡。
そんな場所からの帰り道ならずいぶんと時間の余裕もあっただろうに。
……いや、過ぎたことだ。
諦めて体を動かし、簡単に身支度をする。
服、は……どうすればいいのだろう。
作業着は今手元にない。いつもの帽子もない。
その時点でこの部屋に常備されている服しかあり得ない状態だ。
主は仕事でまだ帰っていないことだろう。
ご迷惑をおかけしたのでレメネシア様にまずお会いしなければならないのは、わかる。
そのあとフェムル様にも謝罪に行かねばならない。
フェムル様の元へ作業着以外で行くのは躊躇われるが、仕方ないだろう。
クローゼットにいろいろと用意された服を眺め、比較的ゆったりとして、腕が隠れるものを選ぶ。
包帯はまだ外されていない。当たり前だ。
少々植物と相性がよくて成長に関与できることが判明しても、肉体的には人間と変わらない。
治癒力が高かったら今まで怪我など気にせず生きていられただろう。
残念ながら、植物を育てていると切り傷だって何度も経験して、他の人と同じように時間をかけて治癒している。
痛む傷に気をつけながらひとまず着替え、帽子もかぶり、そろりと部屋から顔を出す。
「ルシアータ様、お目覚めになられましたか」
ひゃあ、と悲鳴が出そうになったのを辛うじて飲み込み、顔を向ける。
ここに勤めている侍女の方だと理解して、頭を下げる。
「もうお体はよろしいのですか?」
「はい。すっかり」
「それはようございました。レメネシア様がお目覚めを待っていらっしゃいました」
「……はい。今から伺います」
「では、ご案内いたしますので、こちらへどうぞ」
さすがに一人では行かせてもらえないらしい。
確かに、いつも食事をするところならともかく、私室のほうは簡単に行けるわけがない。
案内されるままについていき、奥へと通される。
「レメネシア様、ルシアータ様をお連れいたしました」
「入って」
いつもどおりの声がして、扉が開く。
案内をしてくれた侍女の方の足はぴたりと張り付いたように動かないので、一緒に入るわけではないようだ。
びくびくしながら帽子を取って部屋に入ると、整えられた部屋の窓辺。
静かに刺繍をしている姿があった。
ぎゅ、と帽子を握り締める手に力が入る。
「……レメネシア様」
「ルシアータ、もう起きて大丈夫なの?」
「はい。ご心配おかけして申し訳ありません」
深く頭を下げると、やわらかな笑い声がした。
こんなところも、変わらない。
そこまで考えて、いつもの様子を知っているという事実に行き着いた。
覚えるほど、何度もお会いしているというのは、気恥ずかしく恐れ多い。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫よ。あなたは、私の娘になるのでしょう?」
「……え」
「あら、まだ違うの?
ユギエレムストの様子からてっきりそうなのかと思ったわ」
「いえ……あの、それは……」
一体、どんな様子だったのだろう。
聞きたいが、聞くのが怖い。
「あなたにとってあの子は、ただの主?」
「……ち、違い、ます」
小首を傾げる仕草に、しどろもどろになって返答をする。
熱が上がったように、熱い。
困った。こうして、はっきりと口にするとなると、難しい。
主、では、ないのだろう。もう。
あの方がいい、と、決めてしまった。
それは多分、従者の線引きを超えてしまったということだ。
はっきりとはわからない。
けれど、そういうこと、というやつだろう。
「なら、やっぱり娘でいいのね。嬉しいわ」
言葉が出ない。
もうわかりきっているのだ。
この人に何を言っても通用しないと。
「じゃあ娘には言っておかないといけない言葉があるわね」
「……言葉、ですか?」
「えぇ」
にっこりと笑って、手招きをされた。
いいのだろうかと不安に思いながら近づくと、そっと、帽子を握ったままの両手が握られる。
それはとても暖かく、心地いい。
思わず顔を上げると、ふふ、と小さく笑い声がした。
「ルシアータ、おかえりなさい」
ここで、そんな母親のような顔は、反則だ。
居心地が悪くて、目を逸らす。そんな顔をしていただくような身分ではない。
けれど、返事をしなければ、この方は納得しない。
幸い、口に出すのは憚られるだけで、答えと言うものは決まっている。
「た…………ただいま、戻りました」
搾り出すように、言った。
けれど、多分、それだけで十分だった。
「思ったより元気そうだな」
フェムル様の元に挨拶に行くと、いつもと変わらない声で出迎えられた。
もう今日の作業は終わり、全員帰ったあとだというのに。
相変わらず、この人はいつ休んでいるのかわからない。
「ご心配おかけしました」
「災難だったなぁ。
まぁ、たまにはお前も少し休め。いっつも働いてるからな」
「……ちゃんとお休みはいただいておりますが」
「でも奥の庭にずっといるだろ」
それは、趣味のようなものなので。
そう言いそうになって、飲み込む。
これ以上は不毛になりそうだ。それに、フェムル様も人のことは言えない。
「ちゃんと秋の庭も奥の庭も水は撒いてあるから安心しろ。
傷もあるんだろ?無理すんな。
あと手袋。落ちてたやつは回収してあるから今度俺のところに取りに来い」
「はい」
過不足なくこなされていた仕事が少し寂しい。
何故かはわからないが、そう感じる。
「ルシアータ、秋の庭はお前を必要としている。早く完治させろよ」
「……はい」
「要望があるなら俺に言え。ちゃんと手伝ってやるよ」
「はい」
……ずるい、と、つい思った。
長年世話になっているので問いかける暇もなくほしい言葉が返ってくる。
それはもう、完璧に。
けれど、それは不愉快などではなく、とても嬉しいことだ。
「フェムル様、いろいろと、ありがとうございます」
多分、この方の配慮なくしてはこうして生活など出来なかっただろう。
改めて思い知らされた。
なので、素直に頭を下げる。
すると、がし、と頭上に重み。
帽子の上からわしわしと、撫でられている。
もちろん、正しくは揺すられているのだが。
「先代はただのガキだった俺を一人前の庭師に育ててくれた親父みたいなもんだ。
だから、お前のことは娘か妹みたいに思ってんだ。気にする必要はねぇよ」
「……はい」
ぐらぐらと揺れる世界から解放され、軽く目を回しながらひとまず頷く。
「というわけで、ルシアータ、お前しばらく休みなわけだが」
もちろん、こちらとしては納得していないが。
ただ、確かに手や腕を怪我した状態で庭の手入れは無理がある。
それはわかっているので、反論は出来ない。
「庭の手入れでやってほしいこととかあるか?」
「……そう、ですね」
考える。
いろいろ植えたりはしたいが、治ってからでも大丈夫な気がしないでもない。
急いで剪定するものは特にないし、夏の終わりなので雑草の増え方も少しは落ち着くだろう。
もちろん、秋の庭はこれからが盛りなので、状況を見て手を入れる部分はあるだろうけれど。
それでも、手のかからない庭なので、そこまでの仕事はないはずだ。
「水遣りだけで大丈夫だとは思いますが……。
あ、バラは大丈夫でしたか?黄色の」
「手袋落ちてたところのあれか。特に問題はなさそうだったな」
「そうですか」
よかった。痛んだり腐るような傾向があれば気付くだろうから、大丈夫なのだろう。
あれは命の恩人なので出来るだけ大事にしておきたい。
「あと、肥料を撒いておきたいものがいくつかあります」
「わかった。秋の庭の花については他の庭師を回そう。奥の庭は俺がやる」
「フェムル様が……いいんですか?」
「久々に庭師として働けるからな」
確かに他の庭師への指示で忙しくされているし。
とても優秀な庭師であることは、アーゼナルの庭師全員がよく理解していることだ。
心強いのは、確か。
「……では、よろしくお願いします。
あの、私も一緒に奥の庭まで行ってもいいですか?」
「当たり前だろ。もうあれは、お前の庭だからな」
「特に私物化したつもりはありませんが」
結果的にそうなっているのは否定しないが。
フェムル様だって鍵を持っているのだから、好きに入ってもいいというのに。
それこそ、庭師の仕事をしたいのであれば奥の庭で好きなものを育ててもいいというのに。
それをすることは、ないのだ。
「いいんだよ。好きに使っとけ。
まぁ、今後の話はまた明日でもするか。昨日の今日だ。まだゆっくり休んどけ。
そろそろ夕食だしな」
「はい」
「あぁそうだ、最後に一つ。
俺たちは、お前が何であってもお前の味方だからな」
「……はい。ありがとうございます」
あぁ、本当に、戻ってこられて良かった。
しみじみと実感する。
物心ついたときにはもうアーゼナル家にいた。
外のことはよく知らないまま。
けれど外を知りたいと思ったことはなかった。
それはやっぱり、ここが一番だと思っていたからだろう。
そして、その気持ちは今も変わらない。
そのことが、なんだか妙に、嬉しかった。