14
頭が重い。
ぼんやりと、目を開いた。
暗い。
まず認識したのは、そこだった。
夜の闇の中。ただし、時間はよくわからない。
どうやら横向きに転がっているらしく、いろいろと見える。
薄暗さに目が慣れてきたので、ゆったりと、目線だけを巡らせる。
……どこだ?
狭い寮の部屋でもなければ、広くて落ち着かない屋敷の使用人部屋でもない。広くて豪華だった気配はあるが、長年放っておかれたのか、ぼろぼろだ。
どうしてこんなところにいるのだろう。
本当なら起き上がって確認しなければならないところ。けれど、動くことがひどく億劫でとてもそんな気になれない。
目を閉じて深く息をつく。
一度休んで、また目を開く。
人はいないらしい。
じくじくと熱を持つように手が痛むので胸近くにあった手を見ると、白い包帯が丁寧に巻かれている。そして、近くにはバラが一輪。黄色いそれは、花びらには点々と、そして、棘がついたままの茎はべったりとくすんだ赤がついていた。
そこで、ようやく、思い出した。
連れてこられたのだ、ここに。
ユギル様が危惧しておられた危機ということだ。
誘拐という考えは、多分ユギル様の中にはあっただろうし、気をつけていたはずだ。それでも、こうしてこんなところに連れてこられたのは、自分の落ち度でしかない。
まさか王子殿下がいらっしゃったその日にこんなことが起こるだなんて。今日の屋敷はとても忙しいだろうに、さらに迷惑を引き起こしてしまうだなんて。
ユギル様に申し訳ない。
なんて、情けないのだろうか。
多分、こうなってしまっては見つけてもらえる可能性は低い。
守ってもらえるのは屋敷の敷地内だけだろう。そこから外は、見つけるのが難しくなる。
せめて、手がかりでも残せればよかったのに。かろうじて意識のあるうちに、何か出来れば。
そうすれば、もしかしたら、帰れたのかもしれない。
あの美しい庭に。あたたかな屋敷に。
……ユギル様の側に。
帰りたい。
そんな気持ちが心の中にあったなんて、知らなかった。
淡々と現状を把握していた思考に感情が割り込んでくる。
どうしようもないほどに心を圧迫して苦しい。ずきずきと傷だらけの手は熱を持つのに、背筋が冷えて仕方ない。じわじわと襲う、もう帰れないのだという現実に、呼吸が浅くなる。
本当に、鈍いルシアータ。
囁くような声に、まったくだと、頷く。
身をおかせてもらっていただけで、自分の家ではないのに。帰りたいなんて、どうかしている。
きっとこのままどこかへ連れて行かれるのだ。
あの場所には、戻ることの出来ないままに。
でも、それでも、もう一度でいい。
ユギル様に、会いたい。
こんなところで、物分りよく、諦めたくなんて、ない。
そうだ。せめて少しくらい足掻いたって、いいではないか。足掻いて駄目だったならともかく、何もしないで諦めるわけにはいかない。
どうにか指先を動かす。たったそれだけでも、十分な力になる。
大丈夫。まだ、動ける。
帰れないけれど、戻る努力くらいは、しなければ。
崩れそうな体をどうにか起こし、座り込む。
……あぁ、帽子は、ないのか。
束ねた髪も崩れている。
けれど、それ以外は変わったところはないらしい。
それにしても、ひどく疲れた。
また眠りに落ちそうな体をどうにか動かすだけで、こんなに消耗するとは。庭の重労働よりも大変だ。
そんなことを考えながら、どうにか立ち上がり、おぼつかない足取りで大きな窓に近づく。
窓枠は錆び付き、ガラスも割れてぼろぼろだ。
窓の外は木々が広がる。静かな森の中にある屋敷の三階。
それくらいしか、わからなかった。
ただでさえ、屋敷の外に出たことはなかったというのに。
ここまで何もないと、誰かに助けを求めることも、逃げることも、出来そうにない。
どんよりと絶望にも似た思いが心を覆う。
木々の声は安らぐけれど、それだけでは払えそうにない。今ほしいものはそれではないのだから。
ほしい声は、ユギル様のもの。あまりに簡単に頭の中によみがえる、優しい呼び声だ。
けれど、それはもう、得ることは難しいのだろう。
本当に、どうすればいいのだ。今の体では、ここから飛び降りても満足に受身は取れないだろう。仮に無事だったとして、土地勘のない場所で弱った体のまま逃げ回るのは難しい。
だとすれば、このまま移動を待って、機会を窺うのがいいのだろうか。そんな機会、本当に訪れるだろうか。もしくは、作り出せるだろうか。
果てしなく、不可能に近く、どれが正解なのかもわからない。それどころか、どの道を選んでも意味はない可能性のほうが高い。
途方に暮れるほどの状況に、ただ呆然と立ち尽くす。
焦りと混乱の中、ぽたりと、涙が落ちる。
堪えきれなくなったらしい。
そのままぽたぽたと零れる涙を止めることは出来ず、さらに思考が鈍っていく。
どうしよう、どうすればいい。わからない。
手にしていたバラに顔を寄せる、目を閉じる。
強い香りに、少しだけ、落ち着いた。
「帰りたい」
小さく、祈るように、自分の気持ちを確認するように、呟く。
深呼吸をして目を開くと、零れた雫が花弁の隙間に流れ落ちていくところだった。
ぼんやりと眺めていると、響き渡るノックの音。
思わずびくりと肩をすくめ、その拍子に手の力を緩めてしまった。
バラが、落ちていく。
割れたガラス窓の向こう側。あの高さを、落ちていく。
あの庭との最後のつながりが、途絶えてしまった気がして、胸が痛い。
その痛みを無理矢理飲み込み、涙を拭った。
振り返ると、ふらりと眩暈によろけたが、崩れそうな体をどうにか持ち直す。
「ルシアータ様!」
声がした。男性のものだ。
目を向けると、入り口に壮年と言っていいほどの年齢の人がいた。
「起きていらっしゃいましたか」
「……どなたですか?」
「エブレス解放部隊、レグゼンドと申します」
……どうやら真面目そうな人だ。
というか、エブレス、というのはどこかで聞いた。
最近、どこかで。
「本当に、リーシャ様に似ておられる」
「誰?」
「リーネシュアネル様、あなたの……おばあさまかと思われますが」
知らない。そんな方を、知らない。
思わず顔を顰める。
嫌悪にも似たようなものが走り、ようやく思い出した。
エブレスの生き残り。
そう、昼間に王子殿下が言っていたではないか。
これは、現実味がないと思った話だ。
ユギル様がおっしゃっていた、小国の復興を望む人々。
彼らが、それか。
「申し訳ございませんが、私に祖母などおりません。私は、会ったこともございません」
「そうでございますか。あの美しい方は、もうおられないのですね……」
勘違いされた、のだろうか。
それとも、わざとか。
よくわからない、が、怖い。
ひとまず、連れ出された目的も、これから向かうであろう場所も、わかった。
もし、連れられた場所で偉い立場に持ち上げられれば、ユギル様は気付くだろう。けれど、それではもう、何もかもが遅い。
得体の知れないものに足首を掴まれている気分だ。
引きずり込まれる目前で、もがいている。
いや、本当にもがいているのか、危うい気もする。
「突然ここにお連れして申し訳ありません。ですが、お聞き願いたいのです。
我等の国、エブレスは数十年の昔、滅ぼされ、全てを奪われました。
大勢が殺され、今もあの地に住まうものは謂れのない搾取を受けております」
いやだ。ききたくない。
思うのに、動けない。
強く睨むような視線に、重く語る口調に、絡め取られたように、縛られたように、立ちすくむ。
「国は疲弊し、限界を超えており、もう、この先はないでしょう。
ですから、立ち上がったのです。かつでにエブレスを取り戻すために!」
熱のある言葉。
強すぎて、恐ろしい。息苦しく、足元がおぼつかない。
この言葉に飲み込まれてしまえば、きっと、燃やし尽くされてしまうのだろう。
そう感じるほどの力がある。
「ですからどうか、お戻り願いたいのです。かつてのエブレスには、あなたが足りない」
……足りない?
その言葉が、妙に引っかかった。
最初から、エブレスにルシアータは存在していないのに?
静かで冷静な声が、囁きかけてくる。
たった一言に、すぅ、と恐ろしい熱を帯びた恐怖が消え去っていった。
心が段々と凍り付いていく。
あぁ、この人が見ているのは、違うのだ。
この人は、ルシアータを見ていない。リーシャと呼んだ、かつての主であろう方を見ているのだ。
その熱は、そのリーシャへと、向けられている。
小さく逃げるように動かした足が、ぱきりとガラスを割った。
ここは業火ではない。薄氷だ。
脆く不安定な、いつ割れるかもわからない氷の上。
違う種類の恐怖。むしろ、絶望。
彼らがほしいのは、ルシアータではない。
その事実だけで、頭の芯が冷えていく。
途端に、言葉は白々しく、むなしくなった。
切々と窮状を伝えれば伝えるほど、嘘のように聞こえてくる。
「ルシアータ様、エブレスを取り戻すために、お力をお貸しください」
頭が下げられる。
そう言ってはいるが、どうせ強制的に連れていくのでしょう?
嫌だと言っても、行かなければならないのでしょう?
ルシアータではなく、リーシャがほしいのでしょう?
ぐるぐると、渦巻く。
悲しみと、怒りと、絶望と、たくさんの感情が入り乱れて喉を詰まらせる。
祖父は、笑って頭を撫でたのだ。
『ルシアータ。おまえは、おまえの幸せを選び取りなさい』
幼い私は意味を理解できなかった。
けれど、今はわかる。
名も知らない国のために身を捧げる必要はないと。そう、守ってくれていたのだ。
じわりと涙がこみ上げる。
ざわりと、外で木が揺れる音がした。
深く、息を吸い込んで、喉を詰まらせる感情を、腹に押し込む。
「申し訳ありませんが、私は」
続きの言葉は、建物を揺らすほどの轟音にかき消された。
バランスを崩しかけ、どうにか持ち直したものの、ぽかんと間抜けに立ち尽くす。
「レグゼンド様!襲撃です!」
「何!?もう気付かれたのか!」
慌てて部屋を飛び出す様子を眺め、からっぽとなった部屋で、小さく呻いた。
なんて、間の悪い。
というか、襲撃?誰の?
何もかもが唐突過ぎて考えが及ばない。追いつけないままで、何も出来ない。
足は縫いとめられたように動かず、何をすればいいのかもわからない。
頭の中はもう真っ白だ。
「ルシアータ!」
知った声にびくりと身を震わせる。
どこからだときょろきょろと見渡していると、もう一度、呼ばれた。
少し、遠い。
後ろを振り返っても、窓があるだけ。
「下だ!ルシアータ」
下?
……窓の、下。
思い当たって慌てて錆び付いて重く固い窓を押し開いた。
身を乗り出すように下を覗き込む。
「……ユギル、様」
にっこりと笑って、腕を伸ばす主の姿。
いつだって不安を払いのけ、安心を与えてくれる笑顔。
恐怖も心配も緊張も、何もかも吹き飛ばしてくれる声。
会うことは出来ないと、少し前に絶望すらしたその人が、いる。
会いたいと、立ち上がるための勇気をくれた人が、すぐそこに。
そのことに、理解をして、受け入れるまでに少し時間がかかってしまった。
まるで現実感がなくて、夢を見ている錯覚ですらあったからだ。
けれど、もう一度名前を呼ばれて、ようやく、実感をする。
本物の、ユギル様だ。
そうと判断してしまうと、もう、堪えられない。ぽたぽたと涙が落ちていく。
会いたかった気持ちで、崩れ落ちてしまいそうだ。
「おいで。ルシアータ」
ことさらにあたたかな声。
あの品評会のとき以来かもしれない。
恐怖は、なかった。
躊躇うことなく窓枠に足をかけ、身を投げる。
ふわりと浮遊感。
そして、それなりの衝撃。
けれど痛みを感じる器官は麻痺してしまったらしい。
しがみつく安堵で、吹き飛んだらしい。
「無事で、よかった」
耳元の声がくすぐったくて顔をあげ、ふと、我に返った。
いくら受け止めてくださったといっても、主にしがみつくだなんて。
「あ、あの、ユギル様、助けていただきありがとうございました。もう下ろしてくださって大丈夫です」
「うん?あぁ……もう少し」
「いえ、ですが、今はそんな状況では。
それより、何故ここがわかったんですか?」
「……君が、教えてくれたんだろう?」
「え?」
あたたかく、見つめられる。
一体、何をしたんだ?
覚えていないどころか、何もできなかった情けなささえ感じていたのに。
「君が通ったと思われる場所は植物が異常に育っていた。今の季節に咲くはずのない花まで咲いていたよ。
それでここまで辿りついた」
「そう、ですか。ですが、部屋は何故?」
「バラが、教えてくれた」
見やすいようにか、くるりと回る。
窓の下。石壁を這い登る黄色いバラの木。
……あぁ、あれは半蔓だった。
たった一輪がありえないほどに成長し、居場所を教えてくれた、らしい。
もちろん、とてもじゃないけれど、信じられるようなことではない。
けれどあの品種は、秋の庭にしかないものだ。
どうしたって、間違えようはない。
「植物に愛された一族とは、こういうことかな」
「……そう、かもしれません」
信じてはいなかった。
けれど、本当にあのバラは、帰りたいという願いを叶えてくれた。
じわりと、こみ上げる思いは、何だろう。
「……下ろしてもらって、いいですか?」
言うと、今度は笑って下ろしてくれた。
バラに近づく。
美しい黄色。
秋の庭では少し隠れてしまうような場所にあったが、ここでは一番、美しい。
「助けてくれて、ありがとうございました」
しゃがみこんで声をかける。
最初の一輪はもう、埋もれてしまってわからない。
それでも、言いたかった。
感謝だけでも、伝えたかった。
けれど、胸につかえて全部を吐き出すことは出来ない。
「さぁ、そろそろ行こう。中も落ち着いた頃だ」
「……はい」
名残惜しさに目を向けながらも歩き始めた主についていく。
そうだ。中を、見なければ。
結末を、見届けなくてはならない。
そして、きっぱりと言わなければならないことがある。
ぐるりと建物の外周を回る。それなりに大きく立派な家だったようだが、どこもぼろぼろだ。
そうして辿りついた玄関も、廃墟のような外観をしている。
大きく開かれた扉をくぐると、ずいぶんと多くの人がいた。
「ユギエレムスト様」
駆け寄ってきた補佐のケイス様はこちらを見て小さく礼をしてきたので、ひとまず返す。
そのまま周りを見ると、兵士と、取り押さえられた何人かの姿が見えた。多分、あの中にアーゼナルの屋敷に入り込んだ人がいるのだろう。
彼らが、エブレスの人たち。
親しい、と思うわけでもなく、ただ知らぬ人たち、と考えるあたり、エブレスとは、見知らぬ異国という感覚があるのだろう。
人の見た目は、あまりこの国と変わらないと思われるし、髪なども一般的だと思う。
髪の色など見えないままに過ごしていたので、言うほどたくさんの色を見ていないのだが。
ただ、少なくとも自分と同じ色はいない。
それが少し寂しくはある。
と、そこで気付いた。
少なくとも一人足りない。あのレグゼンドと名乗った人が、いない。
「ユギル様……」
報告しようと背後にいた主に顔を向けると、ちかりと、向こうに光が見えた。
衝動的に主の元に駆け寄り、勢いのままその体を押しのける。
その場所を何かが通り過ぎたのはほぼ同時。
ぎりぎり上腕を掠め、避け損ねた。
「ルシアータ!」
叫ぶような声が届き、訪れた痛みに顔を顰める。
思い通りに動かない体はそのまま倒れこみ、体を打ちつけたけれど、問題はない、はずだ。
どうにか座り込んで、顔を上げる。
一体、何がどうなっているのか。
見上げた先には振り下ろされる剣を受け止める主がいた。
こうして、剣を抜く主を見たのはずいぶんと久しぶりだ。
ぎりぎりとにらみ合う間にケイス様や兵士が取り押さえ、事態は事なきを得た。
……と、言いたいところだが。
きっちり捕らえたことを確認した主は、じとりとこちらを見下ろしている。
目線は痛い。
「ルシアータ、君はもっと自分を大事にしたほうがいい」
「……申し訳ありません」
深々と頭を下げると、深い溜息。呆れられてしまったらしい。
少々重い気持ちのまま、どうにか立ち上がる。
「はい、上着だけでいいから脱いで」
「……そ、れは……さすがに、ユギル様」
「いいから」
「……はい」
下に普段着を着ているとはいえ、抵抗はある。
それでも有無を言わさない口調であり、ここで断れば無理矢理脱がされるだろう。
冷静に判断し、分厚い作業着の、怪我をした右側だけを脱いだ。普段着の袖を上げ、傷口を確認される。
右上腕、外側。改めて見ると、簡単な切り傷とは言いがたい程度だった。
「そこまで深くはないね。よかった」
そう言いながらぐっと肩の辺りをハンカチで縛られ、脱いだ上着はそのまま肩にかけられる。
……これは、戻ってから怒られるかもしれない。
うんざりと顔を顰める、が、すぐに、戻れるという言葉の意味に気付いた。
戻れるというのは、それだけで尊い。
少しだけ、心に余裕が出来たらしく、やるべき事を、思い出す。
「……ユギル様、少し、彼らと話をしていいですか?」
「いいよ。ただ、近づきすぎたりはしないように」
「はい」
頷き、捕らえられている人たちのほうに近づく。
全員、縛られているらしい。
傷を見ている間に、レグゼンドもそこに座らされていたようだ。
一番前で威圧感があり、少し怯みそうになった。
「……ルシアータ様」
「お返事を、しなければと思いましたので」
「はい」
「申し訳ありませんが、私はあなた方と一緒に行くつもりはありません。
私はただのルシアータです。王族の生き残りやリーシャ様というものは、私は無縁なのです。
私は、ただの庭師で、先代庭師長の孫。それだけの存在です。
ただのルシアータであり、リーシャ様ではないのです」
「それは、理解しております。ですが、それでも……我々は」
「……ルシアータの故郷はこの国であり、見ず知らずの失われた国ではないのです。
国を追われたあなた方が、何故私に国を捨てるようなことをさせるのですか。
国を失う苦しみを知っているはずなのに、何故同じように苦しめというのですか」
口にすればするほどに、こみ上げてくる感情が強くなってしまい、気を抜くとひどいことまで言ってしまいそうだ。
話の返事すら出来そうにないほどに。
無理矢理飲み込み睨むだけにとどめる。
精一杯の虚勢にしかならないが。
「私は、同情だけであなた方の国を助けようと思えるほど愛情深くはありません。
どちらかといえば、薄情です。我が侭で、利己的なのです。
あなた方の望むような人間ではありませんので、諦めてください。
私は、私の帰りたい場所があるのです。あなた方がエブレスへ帰りたいのと同じように。
私は、アーゼナル家、いえ、ユギエレムスト様の元へ帰りたいのです」
……言い切った。
まだ言い足りない気もするが、必要なものは全部吐き出せた気がする。
もっと吐き出してしまいたい感情はたくさんわだかまっているのだが、言葉には出来そうにないのだ。
この感情を形に出来る言葉が、浮かばない。
だからもう、これは諦めて飲み込むしかないのだろう。
「……あなたは、あなたのいたい場所があると」
「はい。私は、ユギエレムスト様のお側にいたいのです」
うなだれる様を、ずっと見ていた。
もっといい言い方はあったはずだ。
けれど、突き放すような、優しくはない言い方をしてしまった。
これしかできなかったのだ。
他の言い方なんて、思い浮かばなかった。
「……申し訳ありません。失礼致します」
深く頭を下げ、踵を返す。
唇を噛んで涙を堪える。
逃げるように進むと、やわらかな顔をするユギル様が見えた。
近づくと、そっと優しく頭を撫でられる。
「……おかえり」
「私は、今の生活がとても好きです」
「うん」
「失いたくないのです」
「うん」
「……わがままを言っていると、わかっています。誰かを傷つけてまで大切にしていいものでは、ないと思います」
「うん」
「浅ましいとわかっていても、今が、ほしいのです」
「大丈夫だ。大義名分がほしいなら、どれだけでもあげよう。
君が望むなら、僕の側にずっといることを命令してもいい。
そうしてもいいと思えるほど、僕は君がほしい」
「……ありがとう、ございます」
ずっと、頭を撫でたままでいてくれた。
本当に、優しい人だ。
ずるいのをわかっていて、受け入れてくれる。
「ユギエレムスト様、こちらはもう大丈夫ですので、先に戻りルシアータ様の手当てをお願いします」
「わかった」
ケイス様の言葉に頷き、そっと、背を押された。
されるがまま屋敷の外を出て、改めて空を見る。
月が、もう沈んでいくところだ。
ずいぶんと時間が過ぎていたらしい。
「では、帰ろうか。ルシアータ」
「……はい」
帰る。
そう言われたことがどんなに嬉しいことか、この人は、理解しているのだろうか。