12
ぼんやりと、作業着で裏の庭の入り口に立つ。
今日もとてもいい天気の夏空だ。
慣れてはいないが、どうにか挙動不審にはならなくなった朝食を終え、本日の仕事の時間。
とはいえ、いつもとは少し、違っている。
「ルシアータ」
呼び声にいつの間にか俯いていた顔をあげる。
さくさくと下草を踏みしめる音と、頑丈な作りのブーツが見えた。汚れてもいい服装を、と指定してあるので、多分、あまり見ない姿をされていることだろう。
「相変わらずの格好だけど、君の美しさは損なわれないね。ルシアータ」
笑い混じりの主の声にどう返したものかを悩む。
姿を知った上で、こんなことを言うのだから。
妙に落ち着かない。
苦し紛れに、いつもの言葉を吐き出した。
「……姿など、見えていないと思われますが」
「見えているよ。昔からね」
困った人だ。
きっと、にこにことした笑顔を浮かべているのだろう。
顔を知ってしまった今なら想像ができてしまう。
とても、恥ずかしくて仕方がない。
一体どうしてこんなことになるのかは、よくわからないが。
「ユギエレムスト様、そろそろ……」
「うん、そうだね。行こうか」
頷いたことを確認して、鍵を開く。
少し重い扉を開く際に腕が伸びてきて、つい焦る。
「ユギエレムスト様がこのようなことをなさる必要ありません」
「いいんだよ。これくらい」
反論する前に扉は開き、さっさと中に入ってしまわれた。
……本当に、勝手な人だ。
軽くぼやき、中に入る。
けれど、入ってすぐのところで、主が固まっていた。
「どうなさいましたか?」
「あ……いや、これはまた、見事だね」
高揚、だろうか。少し押さえ込みながらも、隠し切れないほどの声。いつもの様子を取り繕えていない声だ。
奥の庭は、入ってすぐ右手に小屋、しばらく奥に進むと温室がある。
そして、今回の目的は、左側。
先にそちらへ進み、主を促す。
「ユギエレムスト様、こちらです」
バラを始めとした数々の花が植えられた花壇がある。
その中の一角へ招くと、ざくざくと下草を踏みしめ、主がやってくる。
「……これかい?」
「はい」
品評会で使われたバラ。メルリリエ様の名前を名乗ることを許されたバラだ。
一体主にはどう見えるだろうか。
それは、よくわからないが。
「なんというか……こうして見ると、ずいぶんとシンプルだね」
「そうですか?」
「品評会のときはもっとこう、迫力や魅了するものがあったんだけど」
「周囲の植物の影響かと思われます。飾りつけ次第で見栄えは大きく変わりますので」
例えば、秋の庭の盗まれたバラのように。
あれは秋の庭に相応しいからこそ、秋の庭で一番美しく咲いている。
色や形など、印象はいろんなきっかけで大きく変わるものだ。こんな茂みの中の一輪よりも周囲を飾り立てた一輪の方がいいときもある。
「……なるほど。やはり君の才は素晴らしいね。こうして見ると、美しいが、味気ないというのに。
むしろ、こうして見ると向こうに咲くバラのほうが見事に見える」
足は他の花壇へと向かう。
立ち止まったのは真っ赤なバラだ。しっとりとした花びらをもつ、きりりと強い印象を持つ種類。
「このあたりの花は、何に使われるんだい?」
「こちらの花壇にある花のほとんどは品評会で使われる予定だったものです。メルリリエ様のイメージでどの花を使うかを決めるつもりでした。
品評会も終わりましたので、そちらに使われなかった花は切花として屋敷内に飾ったり、必要であれば増やして他の庭に植え替える予定です」
「……すごい労力だね」
種類は多々ある。もちろん、バラに限らない。
必要であれば育てるのが庭師の役割だ。
「少し、見て回ってもいいかい?」
「はい」
頷くと、長い足があちらこちらへと回っていく。
後ろを追いかけ、説明を求められれば応じる。その都度嬉しそうにしているようなので、安堵する。
それにしても、案外と好奇心が旺盛な方だ。少し子供のようだと、ついつい感じてしまう。
もちろん、言うはずはないのだが。
「ルシアータ、向こうの温室は見てもいいのかい?」
「今の時期はとても暑いのでおすすめいたしません」
「……そうか。なら、秋にでも見せてもらっていいかい?」
「はい。構いません」
「楽しみだ」
「ユギエレムスト様、そろそろ一度休憩にいたしましょう」
もう昼だ。
裏の庭は花壇が多く、樹木は少ない。果物を実らせるためのものはあるが、それも奥のほうだ。
ずっと日の当たる場所にいるのは、よくない。
「ん?あぁ、そうだね。ずいぶん暑くなった」
暑さなど感じさせないさわやかな笑い声。
それを受けながら、小さな小屋へと案内する。
「狭くて申し訳ありませんが、こちらで少しお休みください」
「ここは何をしているところだい?」
「ここで育てている植物の管理をしております。
……こちらへ」
いつも使用している椅子へと案内し、手袋を脱いでから、端で冷やしておいた瓶を取り出す。
中身はハーブティーだ。
一応、用意しておいた器に入れて差し出す。
「いつもお飲みになるようなものではございませんが、こちらを」
「ありがとう。君も休みなよ。ルシアータ」
「ですが……」
「いいから。帽子も脱いで。ね?」
「……はい」
渋々ながら帽子を脱ぎ、中央にある小さな机に置く。
ついでなので、先に置いていたバスケットから包みを取り出す。
「こちらもどうぞ」
中身は各種焼き菓子。もちろん、エルテーク様には主が食べると伝えて用意していただいた。
今回は試作品などではない。
「あぁ、綺麗だね」
嬉しそうに目を細める姿に安堵し、同じようにハーブティーを用意する。
本当は一緒に飲むだなんてしてはいけないことなのだが。今のところ渡したものに手をつける様子がないので、多分、飲むまでこのままになるだろう。
休めという無言の圧力をひしひしと感じている。
部屋の隅に置いた小さな椅子を引っ張り出し、腰掛けて、一口。
冷たい。
「……珍しい味がする」
やはり、飲むのを待っていたか。
毒見ではない。この主に限っては、そんなこと言う事はないだろう。
とりあえず、飲ませることに成功したのでいいとするか。
「この庭で育てている薬草を使っているのですが、お嫌いでしたか?それなら別のものを用意いたしますが」
「いや、すっきりとして香りが強くて、好みだよ」
「それはよかったです」
本心かどうかはよくわからないが、一気に飲み干しもう一杯を要求したので嫌いではなかったのだろう。
それならよかったと、おかわりを渡す。
「ありがとう、ここに置いてある書類は、外に植えてあるものかい?」
「はい。温室に植えてあるものも書いてありますが、ご覧になりますか?」
「あぁ、見たい」
それでは、と一番手前にある温室について書き連ねてある紙の束を取り出し、渡す。
主が目を輝かせながら読み始めたのを確認し、椅子に戻った。
もぐ、と食べたマドレーヌからバターの香り。
今座っている椅子は小さく、幼い頃に座っていたことを思い出す。向こうの大きな椅子に祖父が座って、机に向かいいろいろと書いていた。その背中を見ていた記憶が頭を掠める。
今座っているのはユギエレムスト様だけど、やはり、この光景はどこか安心する。あの席に誰かが座っていてくれることが、嬉しいのかもしれない。
じっと読みふける横顔をぼんやりと眺める。
あぁ、本当に、きらきらとしている。こんな汚れた場所であっても、あの品評会のときと変わらないのだ。
とても、不思議。
「ルシアータ、これは素晴らしいね」
「……え?」
ふいに声をかけられて、反応しきれなかった。
情けない顔を曝し、ようやく気付く。
「大丈夫?疲れた?」
「いえ。何でもございません」
慌てて頭を振る。
心配そうな顔をさせてしまったのが心苦しい。
「申し訳ありません。少々ぼんやりしておりました」
「そうかい?気をつけるんだよ。ルシアータ。君に何かあったら、僕は悲しい」
あまり冗談を言うものでは。
……と、気にかけない素振りで返さなければ。
そう思ったはずなのに、喉で引っかかった。やわらかく浮かぶ笑顔に、言葉を全部、奪われてしまった。
帽子がないからだ。
こんな顔を見てしまうから、こうなってしまったんだ。
理解してしまい、目を逸らす。
「……ユギエレムスト様」
「ユギルだよ。ルシアータ」
「え?」
「そろそろ君には、そう呼んでもらいたい」
「ですが……」
「ルシアータ」
ぐ、と唇を噛む。
だめだ。この人は考えを崩さない。わかりきっている。
深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
「……ユギル、様」
「うん」
目線は、合わせられそうにない。
困った。本当に、困った。
「……それで、ルシアータ」
「はい」
「これ、本当に素晴らしいね」
にっこり掲げる紙の束。
多分、気を使われた。あまりに困った顔をしていたのだろう。
もちろん、元々の用件に戻っただけなのだろうが。
「ここまで細かく書いてあるなんて」
「経過観察は育成に必要ですので」
「うん。君は、いや、我が家の庭師は本当に優秀だ」
「ありがとうございます」
頭を下げながら、落ち着けと自分に言い聞かせる。せっかくの配慮を無駄にする訳には行かない。
そうして頭を上げると、相変わらずの笑顔が見えた。
ふいに、動揺しそうになったのをどうにか宥め立ち上がる。
「お茶、淹れましょうか?」
「うん、そうだね。あと、花壇についての記述はあるかい?
一通り読んでからもう一度見てみたい」
「はい」
勉強熱心な方だ。
そう思いながらお茶のおかわりと花壇についての記述を準備する。
「僕ばかりこんなことをしていては、退屈ではないかい?」
「いえ。そんなことはありません」
「そうか。退屈だったら、庭に出ていてもいいよ。僕はここで読ませてもらうから」
「大丈夫です。私のことは気にせずご自由になさってください」
「わかった」
そう笑って、紙に目を向ける。
深く椅子に座って読みふける姿は、やはり安心する。
祖父がいた頃を重ねてしまうのだろうか。それはとても失礼だと、わかっているのに。
それでも、こうして静かで穏やかな時間がずっと続けばいいと。
祖父がいない今だからこそ、願わずにはいられなかった。