難しい曲、難しい恋
香月よう子side
「そこ! その「crescendo」!」
遥人の声が響く。
「そこはもっとこう、感情を込めて、次第に強く!」
その言葉に、お佳は再び同じパッセージを弾き直す。
「まだまだ! もっと「奏でる」ことを意識して」
間近に迫った鳴治祭「ピアノ部定期演奏会」でのラストを飾る大曲、ショパンの「ピアノ協奏曲第一番」の二台のグランドピアノによる連弾。
第一ピアノが遥人。
第二ピアノがお佳。
「音楽鑑賞室」での二人の練習が佳境に入っている。
「じゃあ、もう一回、その前の小節から合わせよう」
そして、阿吽の呼吸で二人の演奏が再び始まる。
それは、そこらの音大生レベルを遥かに凌駕する競演だった。
最終楽章のラストの華麗な一音が鳴り響き、曲が終わると、
「いいね。なかなか良くなった。この調子なら、定演は大成功だ」
向かい合わせのピアノの前のお佳に、遥人は笑んだ。
「ここらで、少し休憩しよう」
そう言って遥人は自分のピアノから離れ、お佳の側へ歩み寄った。
遥人がお佳の弾くグランドピアノにもたれかかると、
「遥人先輩は、第二部大トリで弾かれる「イスラメイ」。調子は如何ですか?」
そう、お佳は問うた。
「ああ。最初はさすがに手こずったけどね。でもなんとか、定演当日までには完成できそうだよ」
「すごいですね! よりによってあの「イスラメイ」を選曲なさると伺った時には、正直驚きました。譜読みだけでもかなり大変な、非常に難解な曲ですのに」
バラキレフ作曲『東洋風幻想曲〈イスラメイ〉』
かの「ロシア五人組」のまとめ役と位置付けられている「バラキレフ」が作曲した、“世界一難しい”とも言われるピアノ曲。
それを遥人は、少なくとも素人目には完璧に弾きこなす。それは、かなり卓越した実力だ。
「岡田さん。君の「バラ一」も素晴らしいよ」
お佳は結局、ショパンの「バラード第一番」を選曲した。
「バラード第一番」も、 難度Fの超上級者向けの大曲である。
そんな会話を交わしていた、その時。
「君。ここに何の用だい?」
と、遥人が突然言った。
その遥人の言葉にお佳がハッと振り向くと、そこには、
「うのっち」
ドアのところにうのっちが、無言で立っていた。
「あ…、練習中すみません……」
そう言いながらうのっちは歩み寄り、
「お佳。これ、借りていたレポート。ありがとよ」
と、それだけ言うとうのっちは踵を返し、足早に部屋から出て行った。
「この前の「サティア」の彼だね」
「え、ええ……」
うのっち……
何か、難しい、複雑な表情をしていた。
でも。
それが何を意味するのかわからない。
でも。
何か心にひっかかる。
何故かズキンとお佳の胸は痛んだ。
そんなお佳の美しい愁いの横顔を、やはり何か思惑をのある顔で、遥人は黙って見つめていた。




