「カテキョ」のバイト
香月よう子side
八月上旬、夏季休暇の「ピアノ部合宿」も無事終わり、お佳は英語の教授・田中に頼まれた「家庭教師」のアルバイトをするべく、市内の東、楠城団地を訪れていた。
楠城団地は、郊外のベットタウンで、高層マンションばかりが何十棟も連なって立っている。
「えーと、このマンションの十三階ね」
お佳は独り言ちながらエレベーターに乗り、1307号室を訪ねた。
インターフォンを鳴らす。
暫くして、ドアが開いた。
出てきたのは、身長165㎝のお佳より更に一回りも大きいニキビ面の大人びた男の子だった。
「君、横田侑くん?」
「ああ、あんたが英語の先生か?」
侑はいかにも面倒くさそうな態度を取った。
見た感じ、真面目に勉強するタイプとは思えない。
その第一印象は、最悪だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
しかしそれから、お佳は週に四日、午後三時から五時、侑宅に通った。
まず、英語の実力がどの程度なのかをはかる為に、簡単なテストをした。
その結果、基礎力はそこそこなのだが、少し難しい発展問題はからきしダメなことがわかった。
お佳は、本屋の「高校受験」コーナーで、侑に相応しい適当な問題集と参考書に単語集、それにヒアリング用のCDを買い、侑へ与えた。
侑の勉強は、基礎文法を復習しつつ、基本・応用の両問題集を解かせ、音楽のCD教材でヒアリング力も養っていくという方法を取った。
そして毎回必ず宿題を課し、やっていない時は、その問題からマンツーマンで指導する。
侑が本当に理解するまで、根気よく教えた。
しかし、侑は飽き性で、集中力が続かない。
いかに、やる気のない侑に勉強をさせるか。
お佳は、本当に中学の英語の教師になったつもりで心を砕き、その「カテキョ」のバイトに真摯に取り組んだ。
それが奏功したのか、二週間を過ぎるあたりから、侑が若干打ち解けてくるようになった。
もっとも、
「せんせー。一人暮らし? 彼氏いるだろ」
根拠のない決めつけだったが図星だったので、お佳は内心動揺する。
「どんなオトコ? どこまでいったの?」
思春期の男子らしく、色恋沙汰を聞いてくることには辟易したが、たまに脱線してリップサービスをすると、機嫌が良くなり、集中力も戻ってくることがわかったので、そこそこつきあうようにした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
そうして、あっという間に八月も終盤。
お佳の夏季休暇はまだ二週間ほど残っているが、侑の中学の夏休みは残すところあと数日となった。
今日は、夏の家庭教師のバイトもいよいよ最終日。
「じゃあ、最終テストをします。二学期の実力テストに出そうな問題を作って来たから、真剣に解いてね」
侑が真面目にテスト問題に取り組んでくれるかどうか不安なお佳だったが、幸いそれは杞憂だった。
「うん! 出来てるわね。よく頑張りました。この問題で80点以上取れてるんだから、二学期からはもう立派に授業にもついていけると思うわ」
お佳は、本当にホッとした。
約一カ月で3万5千円という安くはない報酬を頂くのだから、それなりの結果は欲しかった。
しかし、侑はここ数日、気難しい。
話しかけても故意に無視することすらある。
最終日というのに、ろくに目も合わせない侑が言った。
「先生」
「何?」
「80点以上だったんだから、約束のミスド、奢ってくれるよね?」
「ああ。あの約束ね」
それは、最終テストで侑が80点以上の成績なら、「ミスタードーナツ」で好きなドーナツとドリンクを佳が奢るという約束だった。
「母さん、今日も遅くなるから、俺、夕食好きに食べるんだ。先生、ミスドで一緒に食べてくんない」
「ミスドを奢るのは構わないんだけど……それが夕食なのは問題だわ」
お佳は、眉をひそめた。
「いいよ。いつもそんなんだし。……それとも。先生が飯、作ってくれる?」
それは、唐突な侑の提案だった。
「お台所に勝手に入るわけにはいかないでしょ」
「いいって。先生、なんか作ってよ」
その時。
侑の目は、なんだか捨てられた子犬のようだった。
(放っておけない……)
結局、お佳は、冷蔵庫の中の物を見て、簡単なチャーハンとコンソメスープ、ポテトサラダを作った。
「先生、デキルじゃん!」
そんな簡単な料理なのに、侑の目は輝いている。
侑は、普通の二人前の量をぺろりと平らげた。
流石は成長期の男の子だけのことはある。多めに作ってよかった、とお佳は思った。
「もう、明日から来ないんだよな」
スープのレンゲを置き、侑はぽつりと言った。
「もう君は、一人で勉強できるわ。大丈夫。先生が保証する」
「……じゃあ。俺が勉強できなかったら、カテキョ、続けてくれるのかよ!」
侑は絞り出すように叫び、お佳は絶句した。
この子は、淋しいんだ。
なまじ元は賢いので、ネットに依存したり、横道にそれることもなく、これまで孤独に生きてきたのだろう。
もし。
もし、「弟」という存在がお佳にいれば、その心の内にもっと早く気づいてあげられていたのだろうか……。
「私のLINEのアドレスは知っているでしょう。何かあったら、連絡して。先生、力になってあげるから」
下を向いていた侑が、ばっと顔をあげた。
「でも、彼氏と一緒の時に俺からLINE入ったらまずくね?」
「そんな料簡の狭い人じゃないわ」
にっこりとお佳がそう言うと、
「ちぇーっ。やっぱ彼氏いるじゃん!」
そう言いながらも、さっきまでの仏頂面とは違い、どこか嬉しそうにしている侑がいる。
お佳に、初めての「弟」ができた夏の終わりの夕暮れだった。




