1年後
目が覚めた時、そこが自分の寝室であることに、心底からホッとした。
彼の言うことは正しかったのだ。
時計を見れば、7時を既に回っている。
ついつい寝すぎてしまったようだ。
「薫さん…?」
そういえば、今日は店を開ける日ではなかったか。
8時にはここを出ると言っていたし、もう出て行ってしまったのだろうか。
「雛ちゃん?起きたの?」
「…よかった…」
不安な思いのまま、ダイニングへ向かった雛子を迎えたのは、いつもの薫だ。
「どうしたの、そんな不安そうな顔して。朝ごはん、もう出来てるからね、食べよ?」
そういって、既に準備のすんでいるテーブルに雛子を案内し、コーヒーを注ぐ。
「ごめんね、今日も大したものが作れなかったんだけど、とりあえずスープだけは手作りしてみたよ」
コーヒーとともに差し出されたのは、ふんわりと湯気の立ち上るコーンポタージュだ。
「…十分だと思います。……手作りって、コーン缶からってことですか?」
「うん。ちょっと手抜きになっちゃったけど。今度、とうもろこしが美味しい時期になったらちゃんと生から茹でてつくろうね。全然味が違うんだよ?」
「私、せいぜいカップスープしか飲んだことがありませんでした…」
「今度、人参のポタージュも作ってあげるね」
結構簡単だから、と言いながら、準備を続ける薫。
さすが本職だけあって見事な手際だ。
「…薫さんって、その”今度”っていう言葉、よく使いますよね…」
「ん?そうかな」
「…主に食べ物に関してですけど…」
「無意識かなぁ。まだまだ雛ちゃんにやってあげたいこととか、食べさせてあげたいものとかいっぱいあるから。
思いついたら、つい口に出ちゃうんだよね。…さ、雛ちゃん。冷めないうちに食べよ?僕もさすがに今日はお店に出ないと」
いただきます、と両手を合わせて早速パンをほおばり始める薫。
「私も手伝いますよ、お店」
「いいよいいよ、まだ雛ちゃんはゆっくり休んでれば…」
気にしなくていいから、と薫はいうが、むしろ少しくらい身体を動かしていたほうが気が紛れる。
「その代わり、賄いでいいんで、お昼ご飯は期待してます」
「……疲れたら、すぐ休んでいいからね?」
「はい」
雛子もまた食事に手を伸ばし、温かいスープをすすった。
ようやく、日常が手元に戻ってきた、そんな実感がする。
「8時にはここを出るけど、用意は出来そう?」
「大丈夫です」
「あんまり急いで食べなくてもいいからね…」
「美味しいからつい、ペースが早くなっちゃうだけですよ」
本当に、誰かと食べる朝食というのはそれだけで味が違う気がする。
ましてや人に作ってもらったものは。
「お皿…。もし割っちゃったらごめんなさい」
「全然気にしない。形あるものはいつか壊れるって言うでしょ?壊れないと新しいものに変わらないんだから」
需要と供給、というやつだ。
古いものを大切にするのはいいことだが、そのせいで新しい商品の需要がまったくないというのも困る。
「壊すのはいいけど、怪我だけはしないようにね」
「気をつけます」
一応、職場でのお茶くみ経験くらいはあるので、カップの扱いなどは多少慣れているつもりだが。
「今日は雛ちゃんと二人で店番か。お客さんこないといいなぁ…」
「…何言ってるんですか、まったく…」
それじゃあ困るのは薫だろうに。
「でもさ、なんかいいよね、そういうの」
「?」
「なんか、最初から夫婦ふたりで始めたお店、みたいで」
「……早速妄想ですか」
「ひどっ!?僕はただ、なんかそういう雰囲気っていいなぁと思っただけで…」
確かに、東京でも下町などでは夫婦ふたりで切り盛りする定食屋や喫茶店などがまた残っている。
それに、脱サラして店を始める若夫婦なども昨今では珍しくないようだが…。
「安心しました。やっぱりいつもどおりの薫さんですね」
「…ちょっと気づいてたけど、雛ちゃんの僕認識って結構ひどいよね?」
「そんなことありません。贔屓目なしな感想です」
「…雛ちゃんもいつもの雛ちゃん、って感じ…」
「おかげさまで」
言い合いながら、ふたりで微笑む。
昨日、薫が流した涙がなんだったのか。
雛子には、それを聞くつもりはない。
いっそ、全てを忘れてしまったほうがいいのかもしれない。
むしろ、今はそう思う。
「あのさ、雛ちゃん。また気が早いって言われるかもしれないけど…。
いつか本当にさ、一緒にお店…やってくれる?」
返事は、三ヶ月後でいいから、と。
「それ、プロポーズですか」
「…う。そこで聞いちゃう…?やっぱり気が早いかな…」
駄目?ダメだよね?といじけながらこちらを上目遣いに伺う薫。
「今から大体三ヶ月後…。返事は、バレンタインの日でいいですか」
「!勿論!」
「…言っておきますけど、私手作りのチョコレートとか作れませんからね」
「作ってなんて言わないよ!むしろ僕が雛ちゃんに作るから!」
「…ホワイトデーは、3倍返しを期待してます」
「まかせて!……って、あれ……?」
薫は、そこでようやく何かに気づいたようだ。
「春になったら、桜を見に行きたいです。お店が休みの日でいいんで、連れて行ってください」
「…うん…」
「夏は……そうですね、何をしましょうか…」
海は苦手だ。人がたくさんいるから。
「…蛍を見に行くなんてどうかな?水の綺麗な場所で、穴場を知ってるから」
ほたるなんて、実物を見るのは初めてだ。
「…じゃあ、秋はお月見ですか」
「僕、お団子つくる」
「そうしたら、すぐまた来年のクリスマスですね」
一年後。
それまで、ずっとこの約束は続く。
きっとその先も。
「おいしいもの、いっぱい食べさせてくださいね」
「うん」
「いっぱい、いろんな場所に行きましょうね」
「うん」
「慶一君も誘って」
「……………うん」
最後、やけに長くあいた間が、薫の心情を表している。
だけど、雛子にそれを撤回するつもりはなかった。
「…ねぇ雛ちゃん…。それってやっぱり、三ヶ月後じゃなきゃダメ…?」
雛子の言いたいことを理解した上で、上目遣いにおずおずと問いかける薫。
「そこはやっぱり初志貫徹でしょう」
たとえそれが、建前だけのものになったとしても。
がっくりと肩を落とした薫だが、泣いたカラスがなんとやら。
先ほどの約束を思い出したのか、「三ヶ月後か…」と呟いてその頬を赤く染める。
「さ、薫さん。早く食べて出勤しないと!あんまり長く休むと、お客さんがいなくなりますよ」
「それは困る。あそこは僕の…僕と雛ちゃんの、お城だからね」
大切な、居場所だ。
食べかけのパンの最後の一口を口に押し込み、雛子ぐっと背中を伸ばす。
―――久しぶりだから、しっかり働かなくっちゃね…。
そうして着替えをすべく立ち上がりかけた雛子だったが、「まった!」という薫の声にその動きが止まった。
「あのね…。いまさら昨日の話を蒸し返すのもどうかと思ったんだけど、これだけはどうしても訂正しなきゃって思って」
「?」
「昨日僕が、女性の趣味が悪いって言ったこと。あれ、取り消す。僕の選んだ女性は、最高の人だった」
「…」
「雛ちゃん、大好き!」
この胸に飛び込んできて!と言わんばかりに広げられた両手。
雛子は、静かに頭を下げ、にやりと笑った。
「………返事は3ヶ月後で」
「えぇ~~~!!!???」
ひどいよ!雛ちゃん、という声が聞こえたが、今度はその声にも振り返らない。
どうせ行く場所は同じだ。
「さ、着替えないとね。おいてきますよ、薫さん」
「雛ちゃ~ん!せめて一言っ!!」




