聖域への帰還
「ここは……?」
てっきり、現実の世界に戻ってきたと思って目を開けた雛子の前に広がるのは、一面の草原。
穏やかな風に、鳥の声が聞こえる。
「綺麗…」
咲き乱れる花はどれも雛子にとって見知らぬものだが、みな一様に美しい。
楽園、そう呼ばれる場所があれば、それはきっとここだろうと、素直にそう思えた。
そして、思いつく。
「聖域…」
そうだ、もともと魔女と聖獣が住んでいたという場所。
それが、この場所なのか…。
「そうだよ、雛ちゃん。ここが、僕と君が出会った場所」
いつの間にか、そこに立っていたのは薫だった。
「思い出した?」
にこやかな笑顔を浮かべる薫に、しかし雛子は首を振る。
「何も‥‥」
「そう」
否定されたにも関わらず、薫はどこか嬉しそうだ。
むしろ喜んでいるかのように思える。
「ここに来て…どうするつもりなんですか」
「…ん?最後に、ちょっと見ておきたかっただけだよ」
安心して、すぐ帰れるから、と。
薫はぐるりとあたりを見回し、「懐かしいなぁ」とこぼす。
「君と二人だけ、この場所にいた時が一番の至福で………今思えば、一番無駄な時間だった」
「無駄…?」
「うん」
あまりな言いようについ問い返せば、あっさりとした返事が返る。
「だってそうだろ?長い間、ずっと君のそばにいたのに、ほんの数年一緒にいただけのあの小僧に君を奪われた」
本当に、バカだったよ、と。
「人の姿をとることなんて、考えもしなかった。必要だとも思わなかったんだ。
‥‥君が寂しがっていることにも、気が付かなかった。僕だけが君のそばにいる、そう思っていたからね」
すべての始まりは、その過ちだ。
「だからさ、やり直そうよ」
初めから、もう一度。
「この世界はもう僕たちが守るべき場所じゃない。僕たちは別の世界に既に存在している。だから、全部最初からやり直せるんだ」
薫は、器用に足元の花を摘むと、小さな花飾りを作り、雛子の髪にさす。
「ふふっ。こんなこともね、今の僕にならできる。この指が、欲しかった。
君を傷つけずに抱きしめることのできる腕も」
獣の姿では、できなかったことだ。
それがこんなにも嬉しいと、彼のすべてが語っている。
「人に…なりたかったんですか」
「少し違う」
問いかけに、薫は笑って答えた。
「君のそばに、ずっと居たかっただけだ」
※
「……ちゃん…ひよちゃん!」
「…!!」
身体を揺すられる動きに、はっと顔を上げた。
気づけばそこには、もう楽園の姿はない。
「…慶一君…?」
「ひよちゃん、かおちゃんがこんなところで寝てたら風邪ひくよって」
その言葉に、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。
「かおちゃんね、お外でじゅんちゃんとおはなしちゅう。おわったら、ぼくかえらなきゃって」
しょぼん、としたその顔が、ようやく雛子を現実に連れ戻す。
「今って…」
「かえってきてからね、ひよちゃんずっとおねむだったの。つかれてるから、そのままにしておいてって、かおちゃんが…」
―――つまり、先ほど居眠りをしてしまって、ようやく今目覚めたということか。
「全部、夢……?」
呆然とつぶやく。
「あ、雛ちゃん。目が覚めた?」
「望月さん…。本当に身内がとんでもない迷惑を…。慶一、危ないことをしちゃだめだろう」
叱る純也は、例のデパートの件のを言っているのだろう。
あれから1時間と経過していないはずだが、随分昔のことのように思える。
「慶一は姉から引き離して家で預かることに決まりました。本当は、もっと早くにそうするべきだったのですが…」
「だから言ったろ?あの女に子育てなんてできないって…」
外で話していたというのは、どうやらその件に関してだったようだ。
「ひよちゃん、またあそびにきていい?」
気づけば、純也に手をつながれた慶一が上目遣いにこちらをうかがっている。
「いいよ。その代わり、ちゃんとみんなの言うことを聞くようにね」
「うん!」
いい子の返事の慶一を、やれやれといった様子で薫が見下ろす。
「ばいばーい」
「ばいばい」
手を大きく振りながら出ていく慶一を、同じように手を振りながら見送ってやる。
ここが現実、なんだかようやく目が覚めた気分だ。
「雛ちゃん、よく寝てたから無理に起こさなかったんだけど…。大丈夫?疲れてない?」
二人きりになった店内で、薫が心配そうに雛子の顔を覗き込む。
まるで、先ほどのことは何もなかったかのような態度だ。
―――聞いてみるべき、なのだろうか。
だが、そこで帰ってくる答えを聞くのが怖い。
「…私も、帰りますね」
そう言ってから、「あ」と思い出す。
「そうだね、帰ろ帰ろ!今日は僕が腕によりをかけて夕食を作るからね!」
「…薫さん…今日も泊まりに来るんでしたっけ…」
そうだ、そうだった。
「当り前じゃない!というか今日からが本番だよ本番!何しろ二人っきりだからね」
ふふ、と笑う薫に、一気に力抜けた。
何も変わらない、いつも通りの彼だ。
「…変な事したら、すぐに追い出しますからね」
「ふふ。合意の上ならいいんだよね?」
「……やっぱり一人で寝ます」
「嘘嘘、何もしないって~!僕を信じて!」
ぷい、っと横をむいた雛子をなだめるように、両手を組んで懇願する薫。
その必死な様子に、思わずぷっと噴出した。
「雛ちゃん?やっぱ駄目とか言わないで?ね?」
信じて、と彼は言う。
「…今回だけですよ…?」
その言葉に、「うんうん!」とうなづきながら両手を上げる薫。
「薫さん」
「何?雛ちゃん」
「迎えに来てくれて、ありがとうございました」




