ここに来てまで薄い本。
差し出された紅茶の匂いに、安堵ではなく失望する。
そんなことは、初めての経験だ。
「なにか粗相でも…。別のお飲み物をご用意いたしますか…?」
「いえ、そうじゃないんです…ただ」
コーヒーの香りが、無性に恋しい。
案内された部屋は、雛子の眠っていた寝室のすぐ近く、王が普段執務を行っていた部屋だという。
王の仕事ぶりを見て欲しいと、オリビアがここに案内した。
「陛下は、雛子様のお目覚めを国民全てに報告すべく現在話し合いの最中ですので…」
しばらくは、戻ってくることはないという。
「話し合い…って。王様が決めたことには絶対服従、じゃないんですか…?」
「いいえ、とんでもない。陛下のことは勿論敬愛しておりますが、この国は古くから合議制をとっておりますので。…それは、眠りにつかれる以前の、魔女王陛下がお決めになられたと」
つまり、雛子自身ということだ。
早い時期に、魔女ではなく名で呼んでくれという雛子の願いを聞き入れたオリビアは、どうやら今の雛子と前の彼女とを、区別してくれるつもりらしい。
その気持ちはとてもありがたい。
そう簡単に踏ん切りなどつくはずもなく、雛子は未だ、自身が本当に「魔女王」という存在なのかを疑っていた。
「あの、しつこいようですけど、本当に私は、あの場所に何百年も眠っていたんですか?」
「ええ…。私も陛下に随行し、一度だけお姿を拝見したことはございましたが、間違いなく、今の雛子様ご本人でいらっしゃいました。それに…」
「それに?」
「あの場所から、陛下の寝室へと雛子様をお連れしたとき、私もその場に居合わせましたので」
そういえば、着替えさせたのはこの人だった。
「それからずっと、お世話をさせていただいた私が断言します。間違いなく、雛子様こそが魔女王陛下」
「………」
「それに、あの絵画は、古くからこの国に伝わるもの。模写も出回っておりますし、国民の誰もが魔女さまのお顔を存じておりますよ」
それこそ子供ですらも、と微笑むオリビア。
「私の顔を…国じゅうが?」
「ええ」
自信たっぷりのオリビアには悪いが、顔が思い切りひきつった。
「創世神話は子供たちの読み聞かせの絵本にもなっておりますし、知らぬ者はおりません。
昨今では、魔女王陛下をモチーフとした芝居や詩人の歌も出回っておりますし…。
若い娘達の間でも、英雄と、最後の魔女と呼ばれた魔女王陛下との恋物語はとても人気が高く…」
私もいくつか本をもっておりますよ、と朗らかに語るオリビアに、あいた口がふさがらない。
それはあれか。
同人誌的なノリなのか。
思わず眉間にシワを寄せた雛子に、慌ててオリビアが続ける。
「それも元々は英雄その人が広めたもので、全ては魔女王様の為に行ったことなのです。
後世のものが決して魔女王に牙を向くことのないよう、誰しもが知る形で歴史を伝えよと。いつか歴史が廃れ、再び魔女が迫害されるようなことがあっては決してならないというのが、英雄の願いでした」
だから決して、悪い意味ではないのだと擁護するオリビア。
しかしやってることは結局薄い本とほぼ変わらない。
まぁ、小難しい話を読ませるよりはわかりやすい英雄譚や恋愛ものに仕立て上げてしまったほうがそれは人気もでるだろうが…。
そんな変なところばかり、現実も夢もかわりないらしい。
「ご本人にお見せするというのもおかしな話ですが、よろしければ手持ちのものをいくつかお持ちいたしましょうか…?完全とまではいきませんが、正しく史実にのっとったものもございますので…」
ある意味、今の雛子にはうってつけかも知れない。
「お願いします」
とりあえず、見てみよう。
考えてみれば、雛子は「魔女王」という人物のことをほとんど何も知らない。
自分が本当に記憶を失った魔女王本人だというのなら、なにか記憶を取り戻すきっかけになることもありうる。
雛子にとっては認めたくない話だが…。
「それでは、侍女にとってまいらせますので、少々お待ちくださいませ」
雛子を一人にするつもりはないようで、扉の外にはべっている別の侍女に用をいいつけたようだ。
若い、まだ10代であろう少女だ。
「あの子は、行儀見習いでここに来た貴族の娘でございますよ。あの子の姉は、いずれ陛下の側室候補へと上がる予定でしたが…」
「…ダメになったんですか?」
王族が晩婚だというのはレオナルド本人から聞いた記憶がある。
「魔女王」である雛子が目覚めるのをギリギリまで待とうとして、結婚が遅れるのだと。
「魔女王陛下がお目覚めになった以上、陛下が側室などを許すはずがございません」
それが当たり前のことだオリビアは言う。
確かにレオナルドは雛子と結婚するのだと言っていたが…。
「子供が生まれなかった時のこととか…考えないんですか?」
側室とは、その為にあるものだと記憶しているが。
雛子にレオナルドと婚姻を結ぶつもりはないが、夫婦に必ず子供が生まれるとは限らないのはどこの世界でも同じだろう。
一族の血を絶やさないために考えられたのが一夫多妻という制度だ。
「そのようなこと、雛子様がお考えになられずともよろしいのですよ…。何も心配はございません」
お茶のおかわりはいかがですか、とティーポットを持ち上げる。
「子などおらずとも良いのです。貴女様は、この世で最も尊い御方なのですから…」
その言い方に、どこか奇妙なものを覚えた。
「まるで、初めから生まれるはずがないと思っているみたいな…」
「そのようなことは…!」
ティーポットをテーブルに置き、慌てた様子で否定するが、その様子はやはりどこかおかしい。
魔女には何か子が生まれない理由でもあるのだろうか。
だがそうだとすると、魔女の子孫だという王族の存在自体がまずおかしなことになる。
「魔女様には、そのようなことを気にせず心穏やかに過ごしていただきたいと…それだけの事で…」
「…心穏やか…ですか」
それは、雛子自身には何も望まれていないということなのだろうか。
ただ、象徴として王の傍らにあるだけの存在として。
―――そもそも、魔女とはなんなのだろう。
特別な能力を持つ存在だ、というのは聞かされたが。
少なくとも、その魔女王が不在の間も、この国は平和であったはずだ。
なら初めから「魔女」が目覚める必要などなかったのではないか?
疑念ばかりが頭をよぎる。
トントン…。
扉が叩かれる音に二人が揃って振り返った。
「入りなさい」
冷静を取り戻したオリビアが静かに告げる声に合わせ、扉が開かれた。
「ご要望のものをお持ち致しました」
「ご苦労様でした。…貴女は下がりなさい」
侍女が持ってきた本を受け取り、手で下がれと命ずる。
頭を下げ、退室する寸前にちらりとこちらを見た彼女の視線。
どこかで…、と考え、すぐ思い出した。
まだ元カレと付き合っていた頃、社長令嬢だったあの女がほんの一瞬見せた感情。
あれは、「嫉妬」だ。




