お守りの実装は困難です
お祓い後、美味しい蕎麦を堪能し、店に帰ってきたのは夕方4時を回った頃だった。
「ふふふ。僕が雛ちゃんにとっての最強のお守りだって!!」
神社を後にしてからもずっとご機嫌だった薫は、よほどその言葉が嬉しかったのか、今もまたデレデレの状態のままだ。
『いい?お祓いはあくまで気休め。多少鬱陶しいかもしれないけど、安全が確保されるまではその男からできるだけ離れないこと。その粘着質な性格が今回ばかりは役に立つから、無機物と思って妥協しなさい。お守りを腰にぶらさけてるのと一緒と思うのね』
宮司からは結構な言われ様だったとは思うが、それでも自分が雛子の役にたつということが一番嬉しかったらしい。
自分が腰に薫をぶら下げて一日中過ごす様を思い浮かべ、思い切りブルーになった雛子とは対照的である。
しかし、有名な神社の宮司にあそこまで言われては無下にするのも恐ろしい。
だが、一つ大きな問題がある。
「ねぇ雛ちゃん…。やっぱり僕の家に一緒に泊まるっていう話はどうしても駄目?」
「…常識的に考えて、ナシだと思いますけど」
「でもさ、夢が原因だとしたら夜が一番危ないってことじゃない?添い寝とまではいわないけど、隣で一緒に眠るとか…」
「むしろ別の危機を感じました、今」
そう、問題は夜。
車の中でもずっとされていたこの提案を、どう断ったらいいだろう。
「本当に何もしないから!添い寝だけ!神に誓うって!」
「男は狼だって言ってた人間を無条件に信用するのは無理です」
「そういうとこだけしっかり覚えてる!?でも今回は本当!だって雛ちゃんの命に関わるかも知れないんだよ!?」
「そうだとしても本来薫さんには無関係の話ですよね」
冷たく言い放った言葉に、傷ついた表情の薫が動きを止める。
「無関係…。へぇ…。そんなこと言うの」
じっと、ゆっくり雛子との距離を詰める薫。
「僕、言ったよね?結婚を前提に付き合って欲しいって。それでも無関係?」
「…3ヶ月間のお試しだって、いったじゃないですか…」
そう、あくまでそれだけの関係だ。
「雛ちゃんがそう言ってるだけで僕はそうは思ってないよ。だから病院でも、雛ちゃんのお母さんにも堂々と婚約者だって名乗った。そうでもしないと赤の他人がいつまでも側にいられないからね」
「…嘘つき」
ボソリとつぶやいたセリフに、薫が当たり前のように言い放つ。
「嘘にしなきゃいいじゃない。僕は今すぐ雛ちゃんと籍を入れたっていいんだ」
「それは困ります」
「なぜ?」
「なぜって…」
どうしよう、全く話が通じない。
「ねぇ、雛ちゃん。よぉく考えてみて。雛ちゃんは、僕の何が嫌?」
「嫌とかそういう問題じゃ…」
「ならどういう問題か、僕にちゃんと説明して」
徐々に距離を詰めてきた薫は、あっという間に雛子の目前に迫っている。
「嫌じゃないなら、僕でいいじゃない。だってあんな男でも良かったんでしょ?あの男に僕の何が負けてるの」
耳がその言葉を捉えた瞬間、雛子の体が咄嗟に動いていた。
パシッ…!
反射的に薫の頬を打とうとした雛子の右手が、その寸前で掴まれる。
「知ってた?雛ちゃん。平手打ちってさ、する方も結構痛いんだよね。僕が殴られるのは構わないけど、それで雛ちゃんが痛い思いをするのは嫌だな」
「何を平然とした顔で…」
「ねぇ、答えを聞かせてよ。雛ちゃん」
あんな男のどこが良かったの、と。
例の顛末を知る彼には、よく知りもしないくせに何を、と反論することもできない。
確かに、自分でもなんであんな男を選んだのか謎なくらいだ。
薫だって、それが雛子にとって突かれたくはない心の傷であることは百も承知だろう。
それでも責め立てるのは、よほどさっきの「無関係」という言葉に腹が立ったのか…。
改めて自分の失言を悟り、唇をキツく噛む。
うっすらと血がにじんできたその様子に、先に動いたのは薫だった。
掴んでいた腕を離し、唇にそっと指を当てる。
「あぁ、そんな顔をしないで。僕はただ…」
「ただ…?」
途切れた言葉に、下を向いていた顔をゆっくりと上げる。
「他の誰かじゃなく、僕を選んで欲しくて」
3ヶ月だろうかなんだろうが待つから、と。
「その為には、夢なんかに君を奪われたくはないんだよ…」
だから、お願い。
そう、泣きそうな顔で言われて、誰が断れるだろうか。
そもそも、彼は自分の勝手でこんなことを言い出しているわけではない。
全ては雛子の為なのだ。
それがわからないほど子供にはなりきれない雛子が言える返事は、ひとつだけ。
「…今夜ひと晩だけ…ですか」
「まずは一晩。効果があるようなら、ほとぼりが冷めるまで毎日」
少なくとも、今年いっぱい。そう告げる薫は先程までのやり取りをすっかり忘れたかのような落ち着いた顔だ。
「年が明けたら、もう一度神社に行って見てもらおう。そこで平気なようなら、もう何も言わないよ。
寝るのは僕の家でもいいし、雛ちゃんの家でもいい。なんなら、この店の休憩室に布団を敷いて眠ったっていいから」
全部まかせるよ、と告げる薫。
年末まではあと2週間弱。その間毎日薫のそばで眠る?そんなことができるのか?
「少し…考えさせてください」
前向きに検討する、という冗談を口にする余裕すら今はない。
「考えてもいいけど、僕の答えはひとつだけだよ」
つまり、「イエス」か「はい」かの二択だと言いたいのだろう。
「ずるい…」
「ずるいのは雛ちゃんもでしょ」
なじる言葉にそう言われ、返す言葉を見つけることができない。
そう、確かにずるいのは雛子も同じだ。
本当に嫌だと思うのなら、最初から期限などつけなければ良かった。
じっと考え込んでいた雛子だが、やがて決意を決めた表情で、搾り出すように口を開いた。
「…ウチに、来客用の布団があるので…それでよければ」
たまに美智が使っていたものだが、美智用にはまた新しものを買おう。
「雛ちゃん家に泊めてくれるの?」
驚いた様子の薫に、小さくこくりとうなづく。
「年内一杯…だけですからね」
「うん、うん。年が明けたら、一緒にあそこへ初詣に行こう?ね?」
優しく問いかける薫に、子供のようにひたすら黙ってうなづき返す。
「部屋…片付けてもいいですか。いろいろ見られたくなるものもあるので…」
「了解。今日ミッチィと合流したあと、一旦家に送っていくよ。僕も着替えとかの準備があるし」
それはそうだろう。
当然だが雛子の家には男物着替えなどない。
元彼すら家に泊めたことはなかったのだ。
それを聞けば薫は喜ぶだろうが、わざわざ聞かせる理由もない。
「じゃ、僕夕飯の仕込みをするから、ちょっとそこで待っててくれる?ミッチィの分も腕によりをかけて作るからね」
わざと見せつけるように腕まくりをし、笑いながらキッチンに向かう薫。
ここ数日、彼には迷惑をかけてばかりだ。
彼はきっと、自分よりずっと大人なのだろうなと思う。
「ふふ、雛ちゃんのお家にお泊り!」
…たとえ、こちらに聞こえていないと思って一人キッチンでニヤついていようとも。
「いろいろ台無しだな…」
一応礼儀として聞かなかったふりをしながらも、雛子は一人はぁとため息を吐く。
うまく乗せられたような気がしないでもないが、今更だ。
『僕を選んで』
そういった薫の言葉がなぜか――――頭からずっと離れなかった。




