僕の長所の一つ
今月の文學界を読んでいたら小山鉄郎という人が又吉直樹論を書いていた。で、最初の方に「又吉直樹」は「三」という数字にこだわっているという話が出てくる。又吉直樹が「三」にこだわったから何だろう?という感じの文章だったが、文章はそのまま流れていった。
実際、小説を書く立場からすれば、無意識的によく使うのは、一、二、三、五、七、とかでなんとなく三をよく使うというのはよくあるだろうが、それに意味があるかというと特にない。というか、意味があったとしても、だからなんだろう? モナリザの背後に黒い陰謀を見る人というのは、まともにモナリザと向き合えない人だと僕は思っている。
作品というのはその全体が意味であり、その背後に作品を解き明かす何かがあるわけではない。シェイクスピアがかくも世界を強い照明で明るくした後に、更にその背後を探らないといけない人がいて僕は驚いてしまう。作品とは「汝、それなり」といった体のものであって、いつも裏を読まなければ気の済まない人、イデオロギーや公共の価値観に紐付けてしか物が見えない人というのは、利口に見えるかもしれないが、結局、芸術の世界に入れなかった人であると思う。詩を理解したければ詩の世界に入れ、と昔どこかの詩人が言っていたような。
後は、某バンドのメンバーが「小説家になろう」のエッセイでもよくあるような感じの自己陶酔的な文章を書いていて、それも立派な文芸誌にきちんと載っていた。やっぱり、日本を代表する文芸誌というのは格調高い。僕もこうした駄文を載せてもらえるように、明日からバンドを始めるつもりだ。
昨日、サッカーを見ていたら日本が韓国にボコボコにやられていた。ひどいやられっぷりで、もう叩いている人が沢山いるので何も言わない。ただふと、駄目だったから非難されるというのは結構幸せな事だなとも感じた。アートの世界は、何が良くて何が悪いかという基準がはっきりしていない。それでよくわからない人は、「売れているものが良い!」という一本調子で行くが、さすがに百田尚樹が古典として残るという気もしないだろうから、歯切れが悪くなる。これで歯切れがよくなると、昔やったマルクス主義芸術の再来という事になると思う。結局、なんやかんや言っても芸術は娯楽だから、大衆に奉仕するものであればいい、というわけで、では、マルクス主義文学からどんな作品が生まれたのだろう。果たして民衆の為に捧げられた作品は、真に民衆の為になっただろうかと考えると、「そんなのは過去の話だ」と一蹴される。僕は歴史は繰り返すと感じている。
サッカーなら、駄目であれば、叩かれる。結果が全てというのもそこそこはっきりしている。また、結果が残せなくても、「あの部分は良かった」「悪かった」というのも専門家の見地を交えて批評される。
以前にイギリスのサッカー番組を動画で見たのだが、マンチェスターで活躍したギャリー・ネビルと元リバプールのキャラガーが解説していて、非常に質の高い解説だった。二人は、サッカーの一場面を止めて「この時、この選手が二メートル右にポジションしていれば失点は防げた」というような具体的かつ専門的な解説をしていた。もちろん、この二人が言っている事が絶対に正しいわけではないし、ネビルも監督としては最初失敗したようだが、どちらにせよ、質の高い解説がサッカー視聴者に伝えられ、それが結果的には高いサッカーレベルの維持に役立っているように思えた。
日本のサッカー番組はそういう意味では、いつも情緒的な物語に流れ、お笑い的なノリか、選手の個人的な物語とか、解説者がちゃんと解説してもそれを番組として伝えようとする感じもなく、なんとなく場面が流れていって、いつも「茶の間」レベルに全てが流し込まれていく感じがあるが、そうは言っても、ここ最近は視聴者の目も越えてきたのではないかと思う。
そういう意味では、文学というのは結果もよくわからないし、批評するのも難しいし、どこで発展していくかというのも難しい。一度、創作者同士で互いを批評して高め合う、といった場所に参加した事があったが、結局悪口の言い合いになるだけで発展性はほとんどない。お互い論評しあって良い作品を作ろう、というのは良い態度に思えるが、大体結果はそんなに良くない。それよりも良いのは、互いが互いの作品を読んで刺激を受ける事の方であると思う。夏目漱石が「明暗」の前に「カラマーゾフの兄弟」を読んで影響を受けたなんて話もある。太宰治がジッドのドストエフスキー論を読んで、元あった小説を全て書き直したというのもある。作品というのは、それ自体として高いものであれば、自然と優れた批評性を持つと言っても良いかもしれない。
僕はスポーツを見るのが好きで、スポーツの何が好きかというと、真剣勝負という所にある。そこでは実績も年齢も地位も関係ない。負けるのは嫌な事だろうが、負けて真剣に悔しい、見返したいと思う感情には真実な感情がある。一方、芸術においてはふやけたものを作っている人が大家のような顔をしているのを見かける。社会と実にうまく癒着している人が、反社会の代表みたいな顔をしてたりもする。その事に個人的にうんざりもするのだが、僕としては芸術もスポーツと同じくらい真剣に、身を切られるような痛みをもってやりたいと思っている。
しかしこんな事を言うと「所詮娯楽でしょ」という人達がわらわら出てくる。そういう人達にとっては全てが娯楽であるから、結構だという他ない。彼らは常に傍観者であり、当事者になる事はない。彼らは自分自身から疎外されているのだが、その事には最後まで気がつかない。彼らがいつか、舟の切っ先から真っ逆さまに落ちる自分自身の姿を見る日が来るのだろうか。彼らがいつか、言い訳できない境地に追い込まれる日が来るのだろうか。自分と同類の人間がもう誰もいなくなって、天地に自分一人しかいないーーそう知る時が来るのだろうか。僕は、来ないと思う。だから彼らにかける言葉はない。彼らは輪廻のように時間の中を移動していく。僕は彼らに笑われるだろうが、笑われるだけマシだとも感じている。滑稽さというのが、おそらく僕の長所の一つだろう。