深夜のランナー
あなたがもし、自分以外の誰もいない闇夜に身を置いたとしたら、何を考え、何を感じるだろうか?
僕は走ることが好きだ。好きだと言っても、完全な独学だし、そもそも、学校の体育は嫌いだ。
だから僕の走る姿は、とてもとても、滑稽なはずだ。ペースもめちゃくちゃだし、フォームも綺麗じゃないと思う。
だから僕は、夜走る。ただでさえ人口密度の少ない田舎の道を、深夜に走る。深夜の田舎道なら、人に会う確率はほぼゼロだから。
静寂に包まれた闇の世界、耳を傾けてみる。無音とも思える闇に包まれた深夜の世界でも、聞こえてくる音がある。虫の鳴き声、木立の枝葉が揺れる音、小川の水の流れる音。遠く離れた国道を走る車の走行音。こんな田舎の深夜でも、誰かが起きているんだ、そう思う。そして空気の流れる音。時としてそれは緩慢で、時としてそれは急激だ。
流れる空気の匂いを嗅いでみる。
川べりに生えた緑の匂い。花の匂い、土の匂い。昼間に通った車の残していった排気ガスの匂い。雨上りで濡れた道の匂い。夏真っ盛りの夜は、花火の残り香。
闇夜の音を聞きながら、闇夜の匂いを嗅ぎながら、僕は歩いてスタート地点へ向かう。
僕は決まったコースしか走らない。その同じコースでも、毎日、小さな変化はある。昨日転がっていた大きな石が、今日はなくなっていたり、誰が捨てたのかわからないけれど、煙草の吸殻や空き缶が転がっていたり。いつもの"僕の走る道"は、毎日少しずつ変化している。そう、僕の心のように。
スタート地点に僕は立つ。屈伸をする。膝の裏の筋が伸びている感覚。次にアキレス腱を伸ばして、足首を回す。下半身のウォームアップが終わったら、腕を伸ばし、回す。背中を伸ばす。徐々に可動域の広がっていく僕の腱、温まっていく筋肉。最後に何度かジャンプをして、深呼吸を一回。あとはもう走り出すだけだ。
「いけ!」僕は自分だけが聞こえる内の声を発する。
二回息を吸い込み、二回息を吐く。教科書通りの呼吸法だ。
歩を進める毎に前方へ飛んでいく僕の体。地面を蹴る音が闇夜に響く。眼前に広がっていた闇が地面を蹴る毎に後ろへと流れていく。闇を抜けたら次の闇へ──。
頬を伝って温かいものが伝う。これが汗なのか、涙なのか、今の僕にはわからない。
走れ、走れ、走れ。
僕の脚よ、止まることなく動け。そして、どこまででも駆けていけ。そうだ、走れ、誰にも捕まるな。
闇夜という相棒に体と心を洗浄されながら、僕は走る。大丈夫、僕はまだ捕まらない。この闇夜がある限り。
(了)
闇に身を置き、闇の空気を感じてみる。自分だけの世界がそこにはある。