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06

 その夜は、左腕に新しく出来た縦長の火傷より、開いてしまった肩の傷が辛かった。

 右腕は布団に仕舞われ、左腕は布団の上に晒している。お尻の下にバスタオルが敷いてあり、汗のせいだけではなく下着が湿っている。失禁についてはそれほどショックを受けなかった。『ここまできたか』とだけ。恐怖に呑まれる意識の傍ら、呑気に客観視している自分があったのだ。『肉の焼ける匂いはどれも似ているものだな』と思ったことを覚えている。

 疲労で眠りかけても痛みに起こされ、私を撫でたり自分の食事を取ったりする克弘に怯え、部屋の電気が消えて真っ暗になってもたびたび目を開けて克弘を探した。

 彼は床に体育座りで、ベッドに寄りかかって眠っていた。包丁があれば殺すのに。

 克弘への謝罪の気持ちは消えていた。さっきは子猫のことを思い出したから、当時の罪悪感に当てられただけだ。どうかしてた。謝り損だな。

 窓から逃げようとしたときも、包丁を奪って足でも斬りつけてやればよかったんだ。あの段階で殺す発想まではできないにしても、逃げるために怪我をさせるくらいしてもいい状況だったろう。そうでもないのかな。でもそうしなかったから死にかけているわけだし……ちょっと分からない。

 克弘は深い寝息を立てている。恐怖の権化。となりの拷問狂。外が薄ら明るくなってきて、一週間振りに彼のあどけない寝顔を見つけた。

 明け方に私はようやく眠れた。夢も見ない眠りだった。


 眠りから覚めてしばらく、私は自分が起きていることに気付かなかった。言い方を変えれば、私はいまさっき、自分が少し前に眠りから覚めていたことに気付いた。意識が朦朧とするあまり、起きてしばらくは『無』に限りなく近かったわけだ。

 全身が熱く、ずっしり重たい。

「百合子」

 不安の色を含んだ声がした。目を向けると、ベッドの脇に居た克弘が安心したように溜息をついた。「呼んでも反応しないから、おかしくなっちゃったのかと思った」

 私の反応はまたしても『無』だ。頭蓋骨の中身まで熱くなっていて、頭がはたらいてくれない。克弘が私の身体を起こしている間に解読を続けた結果、おかしくなっちゃってんのはそっちだろうという返答が出来上がった。この返答は口にすべきでないという程度の判断もできた。

 座った姿勢になっても、バランスが取れずに倒れてしまいそうになる。

「もう夕方だよ。お腹すいただろ」

 克弘は私の身体を支え、ミネラルウォーターのボトルを私の口元に寄せた。

 飲み口から注がれる水を、私の身体が自動で飲み込んでくれる。反射ってのはよく出来てるもんだ。糊を塗りたくったような口内をサラサラの水が濯ぎ、サウナの空気を詰め込んだような胸を爽やかな冷感が清めていく。水分がお腹へ染みていくと、それだけで熱がいくらか下がったように感じた。水を飲んで生き返った気分になる経験は多々あったが、その中でも最も生き返ったのが今だ。

 右腕を鈍重に持ち上げると、ペットボトルが手渡された。もう一口、もう一口と味わっていく。四肢の神経が通い、肩の傷の痛みも覚醒した。火傷はあまり痛まない。しかし周辺の皮膚に痒みがあった。ボトルにどのくらいの水が入っていたかは分からないが、すぐに空になってしまった。

 身体が汗ばんでくる。水で冷えた体内も、みるみるうちに熱を籠らせていった。

 部屋がいつもより眩しく感じる。夕方と言われても実感が湧かなかったのは、カーテンを閉め切っているからだと気付いた。

 克弘が静かに見守っている。弱った私を見て心を痛めている様子のこの男が、ここまで私を弱らせた張本人だ。優しくなってくれてよかったとは思えない。大人しくしていたって病院の治療は受けられない……これ以上は考えるのも危険だ。

「痛い、熱い……」私は弱りきってみせた。「薬、飲みたい……」

 克弘は私の頬にそっと触れる。その手が予想以上に冷たくて私は首を引いた。手はすぐに離れて、彼は立ち上がった。

「分かった。どこにある?」

 薬の名前を教えて扉付きのカラーボックスを指差すと、彼は薬を探しに向かう。三段のボックスの真ん中に、薬や絆創膏等を入れた引き出しがある。

 項垂れて克弘を待っていると、彼は薬の引き出しごと持って戻ってきた。心配そうな顔で「ある?」と訊きながら中身を見せてくる。

 中を改めても目的のものは見つからず、私はぐたりと腕を下ろした。自分を責めるふりをして謝る。

「切らしてた……ごめん」

 その中に薬が無いことは知っていた。解熱鎮痛剤は鞄に入れたポーチの中だ。そうとも知らず、克弘は残念そうな顔をした。

 いくらか迷ったあとで彼は言った。

「スーパーの隣のとこで買える?」

 願ってもない言葉に、私は驚いて返答に詰まってしまった。薬を切らしたと言ったのは、まさにこれを期待しての嘘だったからだ。

 余計な思考を振り払って、克弘に縋る自分を慎重に演じた。

「……お店の人に言ったら、薬剤師さんが、出してくれる」

「分かった」

 克弘は私を寝かせて、労しげにタオルで汗を拭った。

 寝てていいよと言われて目を閉じると、全身がマットレスに呑まれていく錯覚が起こった。息が熱い。また意識を飛ばしてしまいそうだ。

 私は密かに気合を入れた。全身を脱力させる代わりに克弘の動く気配に耳を澄まし、絶え間なく脳をはたらかせた。彼が家を出てから戻ってくるまでの間の成果に、私の命が懸かっている。何ができるかは分からないが、彼が居ては何かを試みることすらできないのだ。

 居間の扉が閉まる。靴を履く音、玄関ドアを開ける音。玄関ドアが閉まる音……鍵が回る音。

 私は大きく息を吸った。深呼吸をする。もう一度する。

 重たい瞼をこじ開け、自分の呼吸の音を聞き、手足の指を握って、僅かな自由を噛み締めた。

「ああ!」

 声帯を震わせると、涙が浮かびそうになった。

 左肩は痺れ、首の辺りまでむずむずと痒い。左腕は全体がちくちく痺れていて、握った拳も右手より緩かった。肩の筋肉が利かないせいだ。死にはじめているんだ。

 私は改めて怖くなった。どうにかしないと。逃げ出さないと。ベッドを飛び出して玄関に走って行きたかった。状況はそれを許さない。得られた自由の小ささに悔しくなった。

「逃げろ」

 囁いて、時計を確認した。

 薬局までは歩いて二十分程度。走れば十分? 買う時間も含めたら――だめだ。短く見積もって往復二十分だ。急げ。

 片足をベッドからはみ出させ、踵を落として床を叩いた。しかし打撃は弱々しい。肩の痛みを恐れているせいだ。

 足に力を込め、また踵を落とす。床板は、ド、と鈍く鳴った。長く回されていない肩の関節は軋んで、腕の痺れは痛みに感じるほど鋭く響いた。思わず歯を食いしばると肩の傷口が歪(ひず)み、目をぎゅっと瞑って堪えた。

 駄目だ。下の階の人が自宅に居る可能性も高くないし、この程度の物音しか立てられないのではSOSが伝わらない。

 私は右手首の首輪に噛みついた。これもまた肩に響いた。ビニールテープの中の小さなバックルを歯で探すが、どうにも捕らえられない。テープの端を探したが、それは首輪とベッドを繋いでいる紐状の部分に紛れていると察した。力任せにバックルを引き千切ろうと決めて右腕を突き出すも、テープが張り詰めるまでもなく腕は体の上に落ちてしまう。無傷の腕を振り回す体力すら消耗しきっていることを実感する。

 一際強く床を蹴りつけ、衝撃に呻いた。息が上がる。

 まだ五分。あと十五分。

 ――逃げろ。

 頭の中で言ったのか、口に出したのかを判別し損ねた。どちらでもやることは同じだ。

 首輪から伸びるビニールテープの行く先はベッドの脚あたりだろうか。

 息を吐きながら、マットレスに右肘を突いて上半身を起こそうとする。右肩を浮かせて残りを引き上げたかったが、どう意識しても左側の筋肉を使わないのは不可能で、限界がくる前に私は諦めた。もしかすると上半身を浮かせたところで力尽き、マットレスに左肩から落ちる羽目になるかもしれない。既に左肩は声の無い叫びで私に安静を要求していた。胸のあたりまで裂けているみたいな痛みだ。

 呼吸を浅くして徐々に腰をずらし、仰向けのままでベッドの縁(へり)から両足を滑り落とした。次に左腕の上の方、火傷を避けた肩の近くを右手で抑え、右向きの姿勢を目指す。体重を右半身に任せようと思ったからだ。

 左肩から先は土嚢の如き重たさで、右腕でしっかり掴んでいないと転がり落ちてしまいそうだった。ひび割れたところから肩が千切れてしまうという恐ろしい想像を振り払い、私は息を詰めて体を捻った。迸る痛みに小さく叫ぶ。

「だいじょうぶ!」

 腕の痺れが刺激を強めて張り詰める感覚は、乱暴に弾かれた錆びついた弦を彷彿とさせる。がさつく余韻までがそっくりだった。辛かったが、まだ指の先まで皮膚感覚が残っている証拠だと思えば嬉しい痛みだった。

 腰を中心に体を丸めて、横にした上半身をベッドの端へ引きずる。

 涙目を開くと、テーブルの上に置かれた携帯電話が見えた。

 ――まだある!

 まさかまだ置かれていたとは。見間違いを疑ったが、それは確かに私の携帯電話だった。

 ビニールテープの根本を追うか、携帯電話を取るか。悩みはしなかった。

 テーブルは克弘が食事の度に動かしているため、普段よりもベッドに近い。

 私は無理を押してお腹に力を込めた。痛みが奥歯にまで及び、呻きながら体を起こす。バランス感覚を総動員して座位を取ることに成功し、休まず前進を続けた。マットレスの端から注意深く腰を滑らせ、足の指を踏ん張って床に両膝を付けられた。不安定になった上半身を前傾させ、立てた踵に腰を任せると、体幹はぐっと安定した。ベッドを降りられた事実が自立心に似た気力を与えてくれる。

 次いで腰を床に落とそうとしたとき、一瞬視界が暗くなった。貧血だと思った。動悸と頭痛が連動して私をいたぶる。動作ひとつで平衡感覚が崩れてしまう危険を感じ、私は言うことを聞かない我が身に歯噛みした。深呼吸をして身体の異変を受け入れ、暴れだしそうな痛みを落ち着かせようとする。

 目に浮かぶ涙を瞬きで追い出し、顔を上げて携帯電話を見据えた。倒れるわけにはいかない。

 歯を食いしばり、一歩、膝で躙り出る。また一歩進むと、首輪が右手だけを引き止めた。膝を前に出すほどに右手は後ろに引かれ、ついに左腕の支えが失われる。鈍痛と肩が割れる恐怖に涙が溢れるのを堪えられない。右手が完全に背後に回り、私は胸を突き出し、左腕を持ち上げようとした。これは他人の腕、私は痛くない。

「あっ……あっ……」

 脈拍に合わせて声が出た。

 見ないようにしていた火傷が視界に入り込む。それを認識しないように、目の焦点は携帯電話から外さなかった。

「あ……あっ……あっ……」

 指が乗った。ボタンを押したが画面は暗い。電源が切れている。左腕はガクガクしていた。

 激しく震える指の腹を画面に押し付けて、電話を引きずる。床に落として引き寄せ、電源を入れようとする。ボタンを押し続けられない。力が入らない。

 携帯電話を引きずってきて、体重をかけて電源ボタンを長押しした。

 起きろ!

 ぶぶぶ。携帯電話が震えた。

「あ」

 がちゃり。廊下の方から物音がした。

「あっ」

 集中力を欠いた身体が右側にバランスを崩した。咄嗟に頼った右手は助けに来てくれなかった。捩れていた右肩を庇ったのと引き換えに、私は顎から床にぶつかった。追って、左肩が潰れた。

 私は絶叫した。目の前はぐるぐる回って、視界が赤く染まった後、端の方から黒く染まっていった。次の瞬間に視界はがらりと変わっていて、私は克弘に抱き上げられた状態にあった。

 彼の汗ばんだ肩越しに時計が見えた。克弘が家を出てから、三十分以上経過していた。

 左肩は筋肉を絞られているような激痛で、肩から指先までは燃え盛り感電していた。私のシャツに血が染みていく。肩を縛っていたタオルはいつのまにか落ちてしまっており、流れる血が克弘の服も侵していった。

「熱い、痛い……」

「随分頑張ったね」

「克弘……」

「また逃げようとした」

 心臓のあたりが冷たくなった。顎が震え、身体は熱いのに歯が鳴りだす。

 私はベッドに、左肩を上にして寝かされる。血が私の首を巻いた。テーブルの上にはミネラルウォーターが置かれ、隣に解熱鎮痛剤と胃薬が出されていた。薬局の袋から包帯や医療用テープが透けていた。

 踵を返した克弘は携帯電話を拾って台所へ向かった。その途中、床に置いてあるコンビニの袋を蹴り飛ばした。袋の中身が転がり出ていき、パウチのお粥が二袋滑り出る。床を跳ねて壁に当たったのは、見覚えのあるケーキだった。

 何かに水を溜める音がして、何かが水に落ちる音が聞こえた。

 震える私の前に、克弘は包丁を持って現れた。

「どうやって起きたの? どうやったら起きられなくなる?」

 克弘は無表情で尋ねてベッドに乗り上がり、私を仰向けにして跨った。私は歯を鳴らしながら声を痙攣させて答える。

「起きない……もう起きない、逃げようとしない」

「ねえ。右手は困るでしょ、自分で水も飲めなくなるのはだめだ」

「頭が痛いの、熱いの。かつひろぉっ」

「足が元気だな、血がたくさん出るのはだめだ。そっか、捻挫したら歩けなく――」

 克弘は私の目を見て早口で独り言を呟く。私はその早口を聞き取れなくなっていった。

 頭を押し潰す痛みが熱に溶けていく。肩の内側を暴れまわる痛みも熱に溶けていく。

 ああ、死ぬべきだ。左腕が何かの間違いで痛覚を取り戻す前に死ぬべきだ。高熱が衰えて頭が冴えてしまう前に死ぬべきだ。

 こんな目に遭ってまで尚も生き残りたいと思うような人生じゃない。最悪だった。何もかも最悪だった。助けてあげたお隣さんは全く気付いてくれない。助けてあげた克弘に私は最悪にされているしこれからもされる。私を助けて。うん。助けてあげよう。

「殺して」

 私は呟いた。忙しく動いていた克弘の口が凍った。

 彼の無表情は驚愕に移ろいかけて、止まり。次に現れたのは憤怒の形相だった。

「なんで!」

 克弘は怒鳴った。出会って初めて目にする克弘の怒りに私は目を見張った。だが。

「百合子のために! やってるのに!」

 私のためだって? 自分の頭に血が上っていく音を聞いた。これは克弘よりも遥かに大きい怒りだと思った。

 克弘が私の前髪を掴み、頭を枕に押し付ける。私の視界がぶれる。後頭部と布の擦れる音がざわざわと脳に響いた。それでも私は怒りを忘れなかった。

 睨みつけようとした途端、力んだせいでおでこがひしゃげるような頭痛に襲われた。思わず目を閉じて呻いた直後、感覚を放棄していたはずの肩の痛みが発狂した。

 斬られた、また、同じところを斬られた、肩を!

 この傷を負った日――信じられないことにたった一日前――に味わわされた恐怖がフラッシュバックし、私は甲高い悲鳴を上げた。自分の悲鳴は頭にガツンと響き、頭蓋骨に隈なく伝染した。たちまち陥るパニックの中で克弘への怒りが膨れ上がる。

 馬乗りになっている克弘を振り落とそうと、がむしゃらに右腕でマットレスを叩き身体を揺すった。前髪を掴んでいる手を頭を振って剥がし、身体をもっともっと揺すった。刃が食い込む。血が跳ねる。痛みも全て怒りになった。私は奇声を上げる。何もかも克弘のせいだ。

 歯が何かを噛んだ直後、奇声はごぼりという音で途切れた。空気を失った喉が咄嗟に気道を開く。口に突き入れられたのがミネラルウォーターのボトルだと気付いた頃には溺れていた。

 むせて水を吐き、吐いても喉の奥から水が戻ってくる。水と空気が混ざって喉をがりがり引っ掻いた。激痛と窒息は地獄の苦しみだった。

 死にたい。しかし身体は空気を求めて喘ぐ。水と一緒に飲み込んだ空気の塊が込み上がり口と鼻から放出されると、堰を切ったように胃液と汚物が逆流した。喚き狂う肩の傷を厭わず顔を右に倒す。吐瀉物はだくだくと溢れていった。

 身体が生に縋り付こうと必死だった。何を思ってか次の動きを見せない克弘の気配が不気味だった。

 嘔吐と咳が落ち着きはじめた頃、タオルが口元に添え当てられた。軽く拭って去っていこうとするそれを追いかけ、口内に残る酸っぱい吐瀉物を舌で掬って押し付けた。白く滲む視界から外れていくタオルには真っ赤な血が付着していて、自分が鼻血を流していることに気付かされた。

 耳がおかしくなったのだろうか、耳鳴りがするほどの静寂だった。こめかみのあたりがとくとくと脈打つ。まだ生きてる。死にたい。

 そっと脇腹を押され、仰向けになった。いつのまにか肩にタオルが縛り付けられている。私の真上には、蛍光灯の光を遮っている克弘の頭があった。ぼやけて乱れた視界で、彼の白い肌と、肌を汚す赤が見えた。

 喉に下りてくる鼻血を何度か飲み込んだ後で、克弘の、ほんの僅かに眉を歪めた表情を認めた。

 なんで、あんたが泣くの。

 私の声は自分にも聞こえなかった。

 泣いてない。

 克弘の声は随分遠くに聞こえた。

 彼は口を真一文字に結んで顔を背け、私の上からどいた。私の顔の横に広がった汚物を薬局の袋にかき集め、タオルでシーツの汚れをいくらか拭き取った。私の顔を見ないまま背を向けて、彼はベッドを離れる。その背は暗い廊下に消え、扉が静かに閉まった。


 身体は重く五感も鈍い。視野は霞んで、時計が読めない。しかし思考の部分だけは妙に興奮していた。

 あいつは頭のおかしなやつだ。暴力で恐怖の奈落に突き落としたかと思えば、別人みたいになって優しく介抱を始める。それで私への仕打ちが帳消しになると思うのか。飴と鞭には程遠い。感謝なんて無いぞ。私は手当に甘えているのではなく、束の間の平穏にほっとしているだけだ。反抗する気力が無いだけだ。

 私のため。何が。監禁して痛めつけることがか。

 克弘は自分勝手だ。自分のやりたいように苦しめて、甘やかして。それを私が受け入れるのが自然だと思っている。傲慢だ。

 お隣さんの飼っている犬を連想した。声を奪われた犬。吠えないのではなく、吠えられない犬。飼い主の都合で改造された犬。手術は怖かったろう。麻酔をかけられて、抵抗できなくされて。

 私の飼っていた猫はどう思っていたのだろうか。私と猫の関係は一方的ではなかったつもりだ。暴力なんて当然振るわなかった。愛情表現を押し付けるだけで満足したり、増してや受け入れてもらえないことに憤ったりはしなかった。可愛い首輪を付けたかったけど、猫が嫌がるから諦めた。猫は小さな頃はやんちゃで、大人になってからはのんびり屋さんになっていった。私は「すっかり野性を失ってるなあ」なんて思っていた。

 その実、猫の方は私に愛されることが苦痛だったかもしれない。家から出してもらえないと分かっていて、全てを諦めていたのかもしれない。病気で弱っていたとき、寛解を目指して薬を飲ませる私に、何か訴えていたのではなかろうか。「殺して」、と囁いていたのではなかろうか。

 私の右手にはめられた首輪は薄汚れて、細かな血痕が散っていた。布に擦れた肌は赤く浮き出て、二つ目の手枷みたいに見えた。私は右手を胸の上にそっと落として目を閉じた。眠ればもう目覚めないかもしれないと期待した。

 なんで私がこんな目に遭うんだろうか。

 私のためなんてどうでもいい。行為の動機や理由なんて、される側には関係ない。

 克弘は自分のことだけを考えてほしいと思っているらしい。困っている人を放っておけない性格で私が苦しんでいると知ったから、私を悩ます外の世界から隔離しようと。私が他人を気にしないで生きられるように。

 そして、そのための方法が監禁である。この結論が既に狂っている。監禁の手法は母親譲りなのだろうが、暴力は明らかに命に関わる苛烈さである。輪をかけて狂っている。

 行為にどんな思いが込められているとしても、受ける側の評価はそれぞれだ。私の人助けは罪悪感から逃れるためだが、受ける側はそれを知る由もない。そして私は、優しい子という評判を得た。学生時代に貰ったお父さんのケーキは、お父さんにとっては謝罪をやり過ごすためのものだったかもしれないが、当時の私は愛情表現として受け取った。私の母親の彼氏は私を喜ばせようと遊びや食事に誘ったが、私には馴れ馴れしいとしか思えなかった。克弘の行為が私を救うためだとしても、私にとっては迷惑で、恐怖でしかない。

 克弘は、私の嫌いな上から目線の人間なんだ。上から目線の人間は、誰かのために行動する自分を綺麗だと思っている。認められないはずがない、受け入れられて然るべし、と。そしてそれを拒まれたとき、相手の感受性に欠陥があると思い込む。

 克弘にこんな暴力性があると知っていれば、家には上げなかったのに。

 私が彼の手を取ったから、受け入れてしまったから、信じてしまったから。彼は私のためを思ってしまった。私が彼の狂った本性を引き出してしまった。

 母親のせいなのか。暴力で心まで支配されて、歪んでいったのか。母親の彼氏もだ。新たな脅威であるそいつが来たことで、克弘は耐えかねて飛び出した。そういえば、一度自宅に戻った際、克弘はそいつには立ち向かったんだっけ。母親よりも力のある男に。だけど敵わず、母親にも会えず、謝罪のケーキも渡せずその場を去った。

 彼が暴力に怯え続けた日々、頭の中は母親への恐怖でいっぱいで、他の全てを忘れたのかもしれない。それを私に応用した。克弘以外を忘れさせるため、克弘への恐怖を刻み付けた。加減も知らず。私が抵抗するのも逃げ出そうと試みるのも彼の思惑通りだった。彼は更なる暴力を加え、私は怯えて、克弘への恐怖心を増幅させていった。

 なんで、さっきはあんなに怒っていたんだろう?

 確かに今回の私の計略は彼の意表を突き、彼はそれに苛立つ様子を見せていた。しかし、怒鳴り声を発した彼の激情は、それとは別のものに思えるのだ。

 重傷を負い意識が混濁するほど弱っていた私がベッドを降りたのは想定外であっただろうが、彼は冷静さを失ってはいなかった。私の反抗心を喪失させられる、且つ物理的に逃走を妨げられる有効な仕打ちを計算しはじめていた。怒りを見せたのはその後だ。

 殺して。

 この言葉が彼の地雷を踏み抜いたらしい。

 死んで楽になりたいというのは許されない願いだったのだ。怖がるのは歓迎されていた。逃げたがるのは教育の対象になったが、怒りを買うことはなかった。出会ってからこれまで、彼が私に対して怒りをぶつけることは一度たりとも無かった。

 何が、泣くほど悲しかったんだろう。

 この虐待は私のためにやっていたらしい。しかし私は死にたいくらいに辛いだけだった。だから殺してもらおうとした。すると彼は怒鳴りだし、なんで、と尋ねた。なんで、私が死にたがったことが疑問だったんだろう。自分は虐待に耐えて生き残ったから、私も耐え続けると思ったのか。そもそも自分だって逃げたくせに。

 私は逃げられない。力が違うからだ。克弘のことを華奢でひ弱そうだと思っていたが、男性の力の前に私の抵抗は意味を成さなかった。打撲だけの彼と違い、私には酷い怪我もあった。ちゃちな手枷にも抗えなかった。逃げたくても、逃げられなかった。

 言うまでもないじゃないか。なんでも何もあるもんか。なんで――。

 なんで……克弘は一ヶ月弱もの間、母親の下から逃げられなかったのだろう。抵抗してこなかったのだろう。

 酷い怪我のある私と違い、彼にあるのは打撲だけだった。ちゃちな手枷くらい、どうにかなるんじゃないか。相手は中年の女性なのに、何故好きなだけ殴らせていたのか。

 彼はどのように監禁されていたのだろうか。

 表札の外されたどこかの一軒家。リビングテーブルの脇には、右腕を繋がれて座り込む克弘の姿。

 朝。洗濯物を干しに行った母が、階段を下りて戻ってくる。克弘はその足音に意識を釘付けにさせられた。通りがかった母は何事かを喚き、洗濯カゴを叩きつける。克弘は腕を上げて頭を庇う。道具を使って攻撃されては、相手に触れることさえ難しい。手枷は強固で、母からの監視は執拗だった。父がいなくなり、夏休みに入って外出を禁止されてから、ずっとこの調子だ――。

 じゃああの日は? あの日は何故逃げ出せた。逃げ出せたということは、そのときは手枷が外されていたのではないか。解いたのは母親か、母親の彼氏か? きっと母親だ。母親は自分の彼氏を招いた。息子を拘束しているところを彼氏に平気で見せられるほど気が狂ってはいないだろう。

 それは夕方か夜のこと。パートから帰宅してきた母が、克弘の手枷を外しはじめる。克弘は何がなんだか分からない。克弘はまだ逃げ出さない。不気味に機嫌の良い母が言う。

『お付き合いしてる男性がいてね、うちに来てもらってるの。上がってもらう前に傷の見えない服を出してきなさい』

 克弘は混乱しながらも、気候にそぐわないオーバーシャツを出す――。

 辻褄は合った。母親が克弘を着替えさせたんだ。息子の存在は彼氏も知っていたはず。自宅に呼ぶほど気に入っている彼氏に、母親は体裁を取り繕おうとする。

 出会った日の克弘が長袖のオーバーシャツを手に持っていたのは、きっとこういう理由だったんだ。夜の冷え込みが不安だったからじゃない。そんな寒がりだったのなら、俄雨が気温を下げたとき、それを着て立っていたはずなのだ。きっとそうだ。そう、実家では入浴もしたはずだ。髪も洗わずに出てきていたら私が気付かないわけがない。

 怯えきっていた克弘は、新たな敵となりうる存在が現れる前に外へ飛び出す。……いや、彼氏とは顔を合わせただろう。一言も交わしていない相手をああも激しく嫌っているのはおかしい。

 母親の彼氏も頭がおかしい類の人間かもしれないな。虐待すら躾と容認するタイプで。克弘が自宅に戻ったときに負った傷の原因は、母親の彼氏だと言っていたじゃないか。しかしそれでは母親が取り繕う必要が無くなり、手枷も外れない。ならばリビングでの対面後に彼氏の方が考え直して拘束を解き、克弘は隙を突いて逃げ出し……とするには、彼氏について話す克弘の態度が合わない。

 推理が失速する。ああ、いいところまで来ているように思えたのに。

 『母親が彼氏を連れてきたから』。家出の原因を尋ねた私に、克弘はこう説明した。だが家出の原因を語るのであれば、母親からの虐待がメインになるはずではないのか。理由として母親の彼氏の登場を一番に挙げたのは何故か。

 考えるのが億劫になってくる。

 初対面の相手に「虐待されたんだ」なんて言う気にならないのは、何も不思議じゃないな。言いたくないから、彼氏の方を悪く言った。

 でも、虐待について明言したときの会話の中でも、母親の彼氏を大嫌いだと貶していた、と思う。どんな言い方だったっけ。父親のことを大嫌いと言った。自分勝手だからと。「あの彼氏だって、どうせ……」と――。

 扉が開く音がして、足音が聞こえた。

 むくんだ瞼を押し上げる。視界は霞んでいる。克弘は立ち止まって私の方を見ていた。

 私は怖がるべきなんだったかな。謝るべきなんだったかな。それよりも、中断された思考の続きをしたかった。克弘の言った内容を思い出して、どこかに違和感を覚えたんだ。

 克弘は私の方を見るのをやめた。床に落ちているコンビニ袋を拾って台所に入る。お粥を温めるのかもしれない。

 レンジを開けたり皿を出したりする気配を曖昧に追いかけていると、先程の違和感が私を引っ張り戻した。

 あの彼氏だって、どうせ。

 ――どうせ自分勝手だ、と続くのだろう。つまり、確信に近い憶測だ。ああもはっきりと嫌悪していて、その理由は憶測なのだ。違和感はここか?

 彼が母親の彼氏を嫌悪する理由は憶測であり、実際に自分勝手さを決定づけるような振る舞いを見たわけではない。だとすればあの言いようは不自然だ。いや、克弘はそいつから怪我をさせられた。自分勝手な振る舞いを見たも同然だろう。やはり暴力が決め手だったんだ。

 いや、違う、違う。虐待が始まったのは父親がいなくなった後のことだから、それはおかしい。自分勝手と評した根拠が理不尽な暴力なのであれば、父親は該当しない。逆に、最も理不尽だった母親にこそ嫌悪を表したはずだ。その母親を別にして、母親の彼氏と父親が同列に語られた。ここだ!

 私の頭はまた興奮してきた。

 克弘の吐露には、虐待を行い続けた母親への恐怖があり、父親と母親の彼氏へは同列の嫌悪があった。暴力を振るっていた母親を差し置いて、時期的に関与していないはずの他の二人へばかり敵意を見せていた。

 母親よりも憎まれている二人とは一体どんな人間なんだ。私の父を酷くした感じだろうか。偉そうに振る舞うとか、キレると人格否定してくるとか、精神攻撃系の。

 台所から克弘が出てきた。片手に茶碗を持っている。包丁は持っていない。

「これ食べたら、薬飲もう」

 彼がベッドの横に来て、ようやく顔がはっきり見えた。表情も声もすっかり落ち着いていた。

 私は喋ろうとしたが、声がしゃがれ、言葉の代わりに乾いた咳が出た。克弘はすぐにペットボトルを取って蓋を開ける。私は待ちきれず、唾液を飲んで声を絞り出した。

「お父さんの、何が……何が自分勝手だと、思ったの」

 克弘の手が止まる。彼は薄く口を開いたが、目線をやや下に向けて逡巡した。

 教えて。知られて困るようなものじゃないでしょ。私はそのうち死ぬんだから。ただ気になっただけだから。

 僅かに眉尻を下げ、彼は言った。

「お母さんを、裏切った」

 嫌悪や憎しみじゃない、誰かを憐れむような表情だった。

 私は尋ねた。

「離婚のせいで、克弘が怖い目に遭ったから?」

 克弘は顔を上げ、私と視線を交わす。私は続けて尋ねた。

「じゃあ、彼氏の方は、関係ないんじゃないの?」

 彼は首を横に振った。連続で質問してしまったから、どっちを否定したのか分からない。

「お父さんは、お母さんを捨てた。寂しくさせて、泣かしたんだ」

 私は理解に苦しむ。母親を擁護しているのか。何故。私ののぼせた頭ははたらきが悪い。

 克弘は喉の震えを抑えるかのように声を落とした。

「良い人だと思ってたお父さんが、裏切ったんだ。あの男だって、いくら今は良い人ぶってても……どうせ裏切る」

 私はぽかんとした。裏切るような素振りがあったわけじゃないってこと? むしろ、振る舞いを見る限りでは良い人だったのか? だったらあの怪我はなんだ。ただの事故だったのか。

「俺はどうせ裏切られるからやめろって言ったんだ。お母さん、騙されてるんだ」

 俺がいれば、十分なのに。何の問題もなかったのに。

 私は嘆息した。

『何の問題もなかった』。――彼は母親を庇っているわけではないのだろう。彼にとって母親は加害者ではなく、自分もまた被害者ではなかった。

 ――ひとりぼっちは、だめだ。

 克弘は監禁と暴力を受け入れることで母親に寄り添っていたんだ。母親の孤独を癒やしていたんだな。

 母親が他の理解者を得て、克弘の役目は終わった。

 克弘が逃げ出したのは、虐待から開放されたいと望んでいたからではない。彼の方こそ母親に依存していたからだ。母親からの束縛と母親への恐怖が、彼の孤独を癒やしていた。

 克弘が失ったのは暖かい家族ではなく、傷だらけの共依存だったんだ。


「だから、私のためか」

 ようやく靄が晴れ、私は再び嘆息した。

 怒りも湧かない。それどころか、克弘が可哀想に思えてきた。

 本当に狂った子だ。自分の経験だけを根拠に、再び共依存を築き上げようとするなんて。再現率も低すぎる。不器用にも程があるだろう。一ヶ月近くも閉じ込められ、恐怖に晒され、依存して、判断力も常識も失ってしまったんだろうな。

 私が墓地で弱音を吐いたとき、彼は心の底から憐れんでくれたのだろう。母親を奪われた自分と重ねて、二人寄り添える未来を夢見たのかな。

 本当に可哀想な子。私のためにやったことの何もかもが間違いだったなんて。ねえ、克弘。あんたの思いやりは、全て無意味だったんだよ。

 ねえ。そのお粥も食べない。薬ももういいや。私の身体を起こそうとするのも必要ない。

 克弘が私の背中へ伸ばした腕を、私は右手で掴み、止めた。彼の腕は微かに震えていた。

「殺して」

 私の言葉に克弘は眉を寄せて私を睨む。しかしそれは泣き顔に見えた。

「なんで」

 歪めた口元から、克弘が言う。彼の喉は震えていた。

「死んだ方がマシ」

「うそつき」

「ううん。殺して」

「俺から逃げるのか?」

「うん」

 克弘の瞳と声が潤む。

「俺から、逃げるのか?」

「うん」

「俺を、ひとりぼっちに、するの?」

「うん」

 ついに克弘の目から涙が溢れた。

 右手を離し、嗚咽を堪える彼の頬を拭う。頬は冷たく、涙は温かかった。彼が鼻をすする度、涙は右から、左から、ころりころりと落ちてくる。それらを何度も指で拭ってやった。彼は嗚咽を呑み込むように喉仏を大きく上下させる。

 克弘はベッドに乗り上がり、そっと掛け布団を剥がした。暑苦しい布団が消えたので涼しくなったような気がする。温度の変化もはっきりとは分からなくなっていた。

 彼はいつものように跨って、私の頭の上に手を伸ばし包丁を取った。そんなところに置きっぱなしにされていると知っていたなら、自分で死んだのに。……自分じゃ無理かな。

「俺はっ」私を見下ろす克弘が大声を出した。「全部、百合子のために――!」

「うん」

 克弘は私を睨みつけたまま、包丁を刃を下に向けて両手で握り、高く掲げた。

「俺のことだけ、最期まで、考えてっ」

 唇を震わせ、止めどなく涙を流す。

「俺は殺したくないのに、百合子が、言うからっ……」

 私は頷いた。

 狂った子だ。可哀想な子だ。誰よりも私のためを思いやってくれた子だ。

 涙に咽ぶ彼に聞こえるように、私は心にも無いことを言った。

「全部、私のために、ありがとう」

 ひとりぼっちになる彼の絶望が和らげばいいなと思った。人生最期の思いやりだった。

 克弘は肩を震わせて泣きながら、涙でぐしゃぐしゃのまま、私に向けて笑顔を見せた。

 振り下ろされた包丁が、克弘の腹に飛び込んだ。


 耳元でガラガラと鳴る喉の音を覚えている。シャツに染みて届く血の温かさを覚えている。

 自分を刺した克弘は、躊躇いなく包丁を引き抜いて床に投げた。呆然としている私の上に倒れこみ、懐くように私の頬に頭をすり寄せた。喉を引っ掻くような音を立てて苦しそうな呼吸をし、案外早く死んだ。

 だらりと弛緩した死体に敷かれ、私はしばらく克弘と出会ってから今までを回想した。ひとつも良いところが無かった。そのあとは猫との思い出を振り返り、人生を大雑把に振り返った。下手くそな生き方だった。

 暑苦しい肉の布団が冷たくなっていき、私は凍えた。早鐘を打つ心臓の音を聞き、思考が崩壊し頭の外へ飛び散っていくのを感じながら、死を覚悟する余裕も無く意識を手放した。


 一般病棟に移ってから一番に面会したのは、警察だった。友人や同僚の面会希望を押しのけて彼らが優先されたのは、向こうがゴリ押ししてきたからではなく、『詳しくお話できるようになりましたので、早速来ませんか』と呼びつけたからだ。向こうも私の話を聞きたがっていただろうけど、私こそ、自分がどうやって助けられたのかを聞きたがっていたのだ。

 私の事件を担当しているのは、小次郎という名前の刑事だった。克弘と電車に乗った際の痴漢騒ぎで居合わせた、食えない印象の男だ。あの日の小次郎は胡散臭さの塊だったが、今日の彼は真面目モードのようで、礼儀正しく入室してきた。後ろに後輩らしき若い刑事を連れている。

 二人の刑事から見舞いの言葉を受け取って、私は自分が眠っている間にどんなことが起きていたのかを尋ねた。

「既にご存じの話も多いかと思いますが」

「いえ、何も存じておりません。片っ端から教えて下さい」

 私が知っているのは警察に発見されて救急搬送されたという部分だけだ。意識が回復して四日目になるが、情報収集はほとんどできなかった。

 三日前、私は集中治療室のベッドで目を覚ました。点滴の管の向こうに、予防衣やマスクを身に着けた母がいた。彼女はゆっくりとした口調で「おはよう」と目を細めた。随分と落ち着いてるなあと思いつつ「おはよう」と返すと、「お母さんだよ」と教えてくれた。私は奇妙な世界に迷い込んだ気分になった。

「うん、お母さんにしか見えないけど……私、助かったんだね? あの後、誰が見つけてくれたの?」

 次の瞬間、母は両手で顔を覆って、わっと泣きはじめた。

 救急搬送された後、私は手術をして集中治療室に入り、峠を越してからはしばしば目を覚ましていたらしい。しかしまともな意思疎通はできず、語彙力も理解力も幼児並かそれ以下の状態だった。記憶もおかしくなっていたため、面会の時間には、母が「お母さんだよ」と教えて、私が「ふうん」と了解する、というやりとりがいつもの流れになっていたそうだ。ようやく私が自分を取り戻したのは、秋もそろそろ終わろうかという、十一月の末だった。

 私は自分の助け出された経緯を尋ねたかったのだが、面会時間は十分程度だし、母は心労を隠した笑顔で「楽しい話をしようね」と言って他愛の無い話をし続けるし、結局何も聞けなかった。

 そのため、医者からこれまでとこれからの治療に関する説明を受けたときに『警察が発見した』と知れたのみで、誰が何故警察に通報したのかは分からないままなのだ。

「うちの刑事課の内線に電話がありましてね」

 柔らかい声色で小次郎が答えた。

「内線?」

「ふうむ。あなたが頼んだのではなかったんですね」

 小次郎は勝手に納得して、詳細を語った。

 私のことで小次郎に電話をしてくれたのは美春だった。

 彼女は私が最後に出勤した火曜日、その夜に既に違和感を芽生えさせていたらしい。私が克弘に殴られて放心していた頃だと思う。その日、美春は私の絵を添削し、ファイルを共有フォルダに追加していた。しかし、私がパソコンにログインした形跡は見られるのに、添削を確認したような連絡は来なかった。珍しいことではあったが、彼女は自然な解釈をした。太郎くんがいなくなって落ち込んでいるのかもしれない、そっとしておこう、と。

 翌日の仕事を終えても私からの反応は無く、共有フォルダの絵にも手は付けられていなかった。ダメ元で電話をかけてみたが、いくら待っても応答されず、携帯電話でチャットを送信して反応を待った。しかし既読を示すマークすら付かなかった。

 そして木曜日の夜。克弘が死に、私が体温を奪われはじめた頃だろうか。彼女は共有フォルダを開き、最後に更新されたファイルを改めていた。それは私が火曜日の夜にスキャンしたものだった。共有フォルダに一時保存されたものを、私は消していなかったのだ。火曜日の美春は表示されたサムネイルを見てそれと気付き、私のミスだろうと判断して気に留めず、礼儀正しく触らないでおいたのだった。

 音沙汰の無い私への心配を募らせていた美春はそのファイルを確認しはじめ、その中に小次郎の名刺を見つけた。最後に会った日の私の愚痴に登場した刑事であることに気付いた彼女は、私の様子がおかしくなかったかを問い合わせた。

 そして、電話を受けた小次郎はおっとり刀で警察官二人を連れ、私の家へ駆けつけた。

「美春が電話したから、わざわざ様子を見に来てくれたんですか?」

 私は不思議がった。その時点では『落ち込みやすい友人が電話に出なくなった』というだけの話で、刑事とお巡りさんが三人も様子見に駆られるのは大袈裟だ。動きの良い警察と言えば結構だが、そう暇でもないだろうに。

「いえ、緊急性が高いと判断するに十分な事情がありました」

 そう言って、小次郎は別の視点から語りはじめる。

 美春が電話をかけるより前から、小次郎は私と『太郎』のことを考えていた。別の署で勤務している友人の刑事が電話でぼやいていた傷害事件が引っかかっていたのだ。

 母子家庭のひとり息子が、再婚を匂わせる母親に反発して家出をした。彼がようやく戻ってきたのは翌週火曜の昼だった。彼は母親の交際相手だけが自宅に居ることに激昂し、交際相手の男を追い出そうとした。もみあいの果て、男は突き飛ばされて強かに頭を打ち、男が昏倒しかけている間にひとり息子は逃げていった。

 逃げたひとり息子の名前は克弘と言った。彼が家出をした日から、母親と交際相手は互いの仕事を調整して、彼の帰りをずっと待っていたそうだ。

 交際相手が怪我をした後、母親とその交際相手は二人で話し合い、水曜に警察署を訪れた。担当した刑事が小次郎にぼやいたのは更に翌日、美春の電話の二時間前だった。

 私は少なからず驚いた。克弘が既に別の事件を起こしていたとは。

 電車での痴漢騒ぎを振り返り、小次郎は言った。

「『太郎』くんを駅で見たとき、家出っぽいなと感じましたんでね。おかしな痣もありましたから、よく覚えていました」

 その後には私の名前を知り、美春の言うところの名誉区民な百合子だと分かった。であれば行き場の無い若者を不用心に匿っても不思議ではない。

 小次郎は本当に地獄耳だったようで、私と克弘の会話をほとんど聞いていた。私が彼に「帰るんでしょ」と言ったのを聞いて、もう家出は終わるのだろうと推測し、手を出す必要は無いと判断したそうだ。

「友人の話に、俺はすぐにあなた達を思い出したわけですが――」

 ひとり息子には虐待のような痣があるのではないかと尋ねても、友人の刑事はそんな話は聞いていないと言う。小次郎は念のため『太郎』についてを友人に共有し、時間のあるときに写真を送ってくれと頼んで電話を切った。

 自分の仕事に戻っても、小次郎はその事件を気にしていた。年齢と体型、降りた駅と現場の距離も辻褄が合う。『太郎』と『克弘』がイコールであれば、私の家に戻った可能性が高い。

 ようやく届いたメールに、若い男の証明写真が添えられていた。よく見る間もなく電話が鳴り、相手は興奮気味に捲し立てた。

 写真を見たか。こいつだろう。母親が虐待をゲロった。交際相手が庇ってやがって――。

 その数分後、美春からの電話によって、事態は急転した。

「なるほど。それで行ってみたら、私が死んでたわけですか」

「おや。虫の息くらいはありましたよ」小次郎は愛想笑いをした。「今度はあなたの知っていることを聞かせていただいても?」

 彼の隣で、若い刑事が素早くペンを取り出した。

 私は克弘の行動や私なりの解釈を説明していく。小次郎はときおり口を挟み、それぞれの説明を事実と推測と憶測とに分け、若い刑事の書き取りに指図した。

 恐怖の日々の描写は我ながら惨たらしいと思えたが、小次郎は落ち着いて聞いていた。私も落ち着いていて、恐怖が甦ってくることもなかった。克弘の死に様で、私の話は終わり。

 メモ書きに基いて手書きの供述調書が作成され、その際にも小次郎は調書の細かい言葉選びに注意した。私は丁寧なもんだと感心したが、時間をかけすぎている気もしていた。更に小次郎は私が数日前まで記憶を失っていたことを考慮し、後日また確認に来るらしい。

「お疲れ様でした」

 小次郎は静かに私を労う。私は最もお疲れなのは若い刑事だと思った。

「随分と時間をかけるものなんですね」

「いやあ、早い方ですよ。もっとかかると思ってたんですが、あなたがとても落ち着いてらっしゃるもんで」

 これで早い方なのか。私が驚いていると、若い刑事が私にだけ見えるように小次郎を指差し、『遅いですよ』と口を動かした。なるほど。小次郎の言った「早い方ですよ」の枕には、『俺にしては』が付くんだな。

 無音の密告に、何故か小次郎は反応できた。

「急いじまって確認を怠ると認識にズレが出ちまうだろう?」

 若い刑事は威勢良く同意した。大変だな、本当にお疲れ様だ。

「百合子さん。もう一度確認しますがね、お困りの際はどうぞあの内線を使ってください。番号を教えたのは彼のことで釘を刺すためだけじゃありませんよ」

「……ありがとうございます」

 痴漢の処理を抜けてまで私に話しかけてきたのは、お人好しで不用心な私への心配からだったということか。当の私は克弘のことで頭がいっぱいで、彼の優しさに気付かなかったが。美春も言っていたっけな。心配なら電話番号でも教えておけば、と。

「でも、大丈夫です」私は静かに宣言した。「これからは他人の問題に首を突っ込まないようにします」

 不審そうな顔をした小次郎に、私は続ける。

「人助けに意味は無いって気付いたからです。『誰かのため』なんて、その誰かにとっては迷惑でしかない場合もありますからね」

 二人の刑事の表情に戸惑いが表れていた。小次郎は珍しく言い淀んだ。

「あなたが、今回の件で……人間不信のようなものに陥ってしまっているなら――」

「違います。自分を過信していた状態から卒業できた感じだと思います」

 今までの私は、誰かの困難を見過ごすと『苦しんでいる人を助けてあげなかった』という罪悪感に襲われるため、見て見ぬふりができなかった。しかし今回の件で、その罪悪感は見当外れの思い込みでしかなかったのだと理解したのだ。

 克弘は自分の経験を頼りに私の心を見定めて、見誤った。それは今までの私にも言えることで、私が自分の常識に沿って行ってきた人助けは、相手にとっては何の意味も無い迷惑なお節介だったかもしれない。

 私の生き方が下手くそなのは、他人の心の中を推し量れているつもりになって、『思いやり』という幻想に振り回されていたせいなのだ。

「克弘が最後の最後で私を殺さなかったのはなんででしょうね。考えたって、結局は憶測です。人の心は見えませんから」

 人の心は見えない。前にも故意か過失かの話で小次郎に言った言葉だな。あのときは冤罪や泣き寝入りに発展しうる悲しい現実だと思ったものだが、今は正面から受け入れられる。ただの現実だ。

 電車が揺れて誰かに手が当たったら、周りに聞こえるように謝る。そうしておけば、神経質な女性が騒ぎ立てたときにも周囲の目は温かいだろう。他人を思いやったって何の得にもならない。自己防衛が肝心だ。

「世間は、痴漢被害者の泣き寝入りが増えるくらいなら、冤罪の泣き寝入りを無視する方が平和だと思ってるんです。それは現在の司法に表れてますよね。警察や検察もそうでしょう。容疑者一人ひとりを思いやるより、疑わしきを罰していい風潮がある内は起訴しちゃった方が得です」

 若い刑事がぐっと眉を寄せたが、小次郎が先に口を開いた。

「近年、その風潮に歯止めをかけようとする動きが強まってるんですよ。弁護活動の対応も進み、痴漢の嫌疑において、否認イコール勾留、起訴、という図式は崩れてきています」

 穏やかな物言いだった。

「百合子さん。あなたは酷い事件に巻き込まれてしまったばかりです。思うことは様々あるようですが、結論を急ぐ必要はありませんでしょう。俺にはちょっと、あなたの考えが極端に思えますよ」

 優しい声で窘められ、私はなんだかしゅんとした。確かに極端な発言をしている自覚はある。だけど今は、私を取り囲んでいた霞が晴れたような気分で、とても楽なんだ。


 社会復帰を遂げて以降、私は上手く生きていると思う。

 相場以上の示談金を受け取り、個人での仕事は取らなくなった。補欠扱いだった会社ではデスクを貰って、平日は毎日出勤している。人物を描く機会は激減したものの、背景の技術は目に見えて向上している。以前は妥協を拒否しすぎていたのだ。自分の理想を追い求めた先で、それを承認してくれる人がどれだけいるものか。その承認で飯が食えるとも限らない。

 美春は私を承認してくれる一人だったのだが、私が理想を追わなくなってから、彼女と語り合う話も無くなってしまった。自宅で描いている絵の添削は変わらず続けてもらっているが、感想や叱咤激励のコメントは消え、コメントが付くとすれば業務連絡だけとなっている。

 休日の夕方、私はロックと散歩に出掛けた。お隣さんと特別親しくなったわけではないが、私が外出する機会が増えたので、たまに散歩を引き受けているのだ。ロックは尻尾をぶんぶん振って楽しげに歩くので、連れている私も楽しい。飼い主の都合で声を奪われた犬。だがその飼い主が居なければ安楽死させられていたかもしれない犬だ。ロックは幸せそうに生きていて、私はそれで十分に思える。

 街の景色は変わらないが、昔のように下を向いて歩く必要が無くなり、私の視界の明度は上がった。子供の泣き声、誰かの困り顔。私はそれに気付いても、ひとりの人物として認識しない。

 全てが背景と化したこの世界は、とても静かで、誰もいない。


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