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05

 目を逸らせない。目を逸らしてしまえば、次の瞬間には克弘がその腕を振り上げているかもしれない。昨夜のように。見開いた瞳が乾燥した空気に触れてじくじくと沁みはじめる。

 ゆっくりと近付いてくる彼に怒りや興奮は見られない。ひたすら穏やかに、子を見守る母のように目を細めているだけだ。

 機能しない瞼に耐えかねたかのように涙が滲み、瞳がチクチクと痛みだす。

 ついに瞼が私の意思とは関係なく一瞬目を覆った。刹那の暗闇に身体がびくりと震える。克弘に大きな動きは無かった。

 逃げろ!

 頭の中のどこかから聞こえた声は、とても遠かった。

 包丁が揺れ、私は悲鳴を上げかけた。克弘が弄ぶように柄を回したようだ。彼が腕を揺らせば刃が届く程の距離に切っ先はある。私の視線はそこに集中した。

「怖い?」

 私の隣で立ち止まった克弘が、静かに言った。私は喉も唇も凍りついていて返事ができなかった。彼は呑気に腰を下ろし、体育座りで私と肩を並べる。包丁の腹を滑る水滴と同じ速さで、私の背を汗が流れた。

 包丁はテーブルの上まで運ばれ、刃を外に向けてそっと寝そべった。柄から離れていった手が、克弘の膝に落ち着く。

 克弘が、ほぅ、と息をついた。私は自分の心臓が激しく鼓動している音に気付いた。

 なんで包丁を持ってきたの。昨日の暴力はなんだったの。何を怒っているの。

 何を言っても、どういう言い方をしても、また克弘を豹変させてしまう気がして口を動かせなかった。コイツの頭はおかしい。罵詈雑言で怒鳴りつけて恐怖を紛らわせるのならそうしたい。

 私の浅く窮屈な呼吸に反して、隣で聞こえる呼吸の音は落ち着いている。

 カーテンが半分開けられている掃出窓から、初夏に戻ったようなほのぼのとした陽が差している。窓越しの陽光が崩した足先にかかり、ほかほかと暖かい。最近は点けっぱなしである時間が長かったテレビの画面は、今日は真っ黒で静まりきっている。

 私は顔も目も動かせず、包丁が視界の中心に据えられていながら、しかし意識はどこも見ていなかった。かつてないほどに緩やかな空気が恐ろしくてたまらなかった。

 生まれてこの方、私には男性に殴られた経験が無かった。実の父は短気で横暴だったが、大声で恫喝するほか、あってもテーブルを叩いて脅す程度で、母にも私にも手を上げたことが無い。男性は力を持っているが、だからこそ男性は女性を殴らない。少なくとも私の周りの男性は。それは私の育つ中で確立された理であって、根拠の有無を確かめる必要も無いものだった。

 私はそれが何の前触れもなく犯された今を、正しく飲み込めていないのかもしれない。寄り添って座る男の、敵意の無い空気感を信じたかった。怯えるよりは楽になれそうだからだ。

 左の頬骨が、ずんと痛む。青痣を手のひらで圧迫されているような重たさは、じわりじわりと強くなっていくと同時に解け広がって消えていくような感覚を生む。食事に際して片付けられてしまったらしい氷嚢が恋しい。

 顔を殴られた痛みを初めて味わった。昨夜、あの拳を受けた瞬間に感じたであろう痛みがどのようなものだったかはほとんど思い出せない。もしもパニックになっていなければ、その痛烈さをもろに味わわされていたのだろう。

 頬をぱしりと叩かれた経験はあった。母に手のひらで打たれたときだ。あのときはピリピリと余韻を残す軽い痺れよりも、母の手に打たれたという衝撃の方が大きかった。

 頬骨が再び、ずんと、現実を思い出せと言うかのように疼いた。

 見ていたようで見ていなかった自分の部屋の景色を認識する。克弘はまだ隣に寄り添い、身動ぎもしていなかった。

 どうしよう。つまらない感傷に浸っている場合じゃない。

 問題に立ち向かわなければと奮いかけた気持ちは、テーブルの上で無機質に寝そべる包丁に怯む。

 気をしっかり持たなければならない。克弘の異常な行動を分析できるような心理学の知識は無さそうだ。逃げ出す選択肢を考えることも怖くなっている。子供らしく親に反発してきた思春期を経て長年自覚を強めていた己の無鉄砲は、ただの一晩で消え失せてしまった。

 もし昨夜、殴られても、蹴られたとしても死に物狂いに玄関へ向かっていれば、事態はもっと簡潔だったのかもしれない。玄関を開けて誰かに助けを求めていれば。

 また後悔が始まる。

 そして、明日のこの時間に同じ後悔を繰り返している自分の姿が浮かんだ。『昨日ああしていれば、事態はもっと簡潔だった』と嘆いている。危険を冒したくない臆病な私は、この意味の理解を拒もうとする。

 逃げろ、逃げろ!

 先程も聞こえた頭の中の声が煽り立てる。後悔を繰り返すのは明日ではなく、数秒後かもしれない。次の瞬間には今よりも恐ろしい、絶望的な状況になっているのかもしれない。もしも克弘がその気になれば、一秒で包丁を手に取り私に突き刺せる。ならばその一秒より早く死に物狂いにならなければ後悔では済まない。

 焦りが湧いたが、決心は付いてくれない。一秒で刺されてしまうなんてのはもしもの話だ、そんなことがありえるか。ありえるんだよ。狂っている彼には、何だってありえるんだ。自問自答も慌ただしい。

 克弘は不気味なほどに安定した呼吸を続けている。一体どのくらいの時間こうしているだろうか。少し目線を上向けるだけで時計は確認できるのに、その動きが隣の男をどう刺激するのかに怯えて、私はまた動かないことを選んだ。

 逆に、なんで逃げないの?

 頭の中の声がアプローチの手法を変えてきた。そう、逃げない選択肢は取れないはずだ。なのに逃げる決心を先延ばしにしているのは、逃げて失敗するのが怖いからだ。逃げなくても、どうにかなるかもしれないじゃないか。お隣に住んでいる犬のロックが第六感で私のピンチを嗅ぎ取ってくれて、ロックが飼い主に教えて、飼い主である蛍光ピンクも第六感でロックの言わんとする危機を読み取ってくれるかもしれない。だめだ。ロックのあの咳払いみたいな声じゃあ、音まみれの世界にいる蛍光ピンクには届かない。だったら、ロックを通さずとも彼の第六感がはたらいて、私の様子が無性に気になりだしてくれればいい。ほら見ろ。私はまた決心の先延ばしをしてる!

 私の身体はずっと硬直したままだが、脳みそは何かしらの思考を続けている。包丁の存在に慄いたり、過去が思い出されたり、テレパシーを信じたがったりしている。だから、克弘も何かしらの思考をしていて不思議ではない。ふと私の逃走をもうちょっと警戒しようかなと思いついたら、私が固まっている間に悠々と包丁を手に取ってしまうだろう。

 急がなくては。最悪の方向にころりと変わってしまうかもしれない危うい状況だ。だがまだ、今のところはそうなっていない。こんなに時間を無駄にしたのに、まだ間に合うなんて。逃げ出す算段をできる現状にいることがとても幸運に思えた。

 廊下へ続く扉は克弘の向こう側だ。扉を開けられても、そこから玄関までが数歩。玄関に辿り着けたとして、玄関ドアの鍵とドアガートの二つに構っている間に捕まってしまうだろう。

 視線を動かせないまま、穏やかな陽気を受け入れるガラス窓に意識だけを向ける。この掃出窓までは、ほんの二メートルとちょっとの距離だ。窓の鍵はレバーも大きく、扱い慣れていて、解錠にかかる時間はゼロに等しい。開閉も軽いため、ほぼノンストップで開けられる。時間的余裕がありそうなら隣のベランダに、余裕が無ければ下に落ちてしまえ。残念ながらベランダの真下に都合の良い植え込みは施されていないが、克弘と包丁の組み合わせよりはコンクリートの方が御しやすい。

 こんなに近くに大きな逃げ場があったのに、克弘が洗い物をしている最中に逃げ出さなかった過去が本当に悔やまれる。でも、発想できなくても仕方ないだろう。普段どおりの振る舞いで氷嚢やパスタまで用意してくれた彼が、食後の包丁を持ってくるなんて。

 私は不意を突いてやるぞ。まずは包丁を弾き飛ばすのだ。拾うために一歩かかるだけでも十分だ。ちょっとでも驚かせるのが重要だ。包丁を拾うか否かの判断でコンマ秒を稼ぐ。克弘が包丁を拾いに急ぐとしても、すぐに諦めを付けて私に手を伸ばすとしても、その頃には私の手が窓の鍵を引き下ろす。殴られようと、叩きつけられようと、窓を開ける。シミュレーションしてみると隣のベランダに渡る余裕など無さそうだった。じゃあ渡るかどうかの判断はせず、まっすぐ飛び降りてしまえ。なんだっていい、外に出られればそれでいい。怪我なんて知ったことか。勢いでやれ、無鉄砲に。

 かつて家族の食卓で、過去を蒸し返して怒鳴り始めた父に苛立ち、陶器のサラダボウルを父の後ろの壁を目掛けて投げつけたことがあった。父の顔の横を飛んだ白の陶器はほぼ同時に壁で弾けた。びくりと肩を震わせて口をあんぐりと開けた父の様子と、安くはない皿が砕けるあの派手な破壊音ほど、溜飲の下がる心地良い感覚を与えてくれるものはなかった。

 そうだ、やってしまえ!

 あの瞬間の破壊衝動に似た興奮が、頭から爪先までを流れる血潮に乗って全身を廻りだしたようだった。自分の身体が正常に動作することを確信した。

 克弘はどこを向いている? 膝を抱えたままなのはなんとなく分かる。私を警戒していないといいのだが。目を閉じていてくれたら良い、うたた寝でもしていてくれたら尚良い。

 見なくていい!

 そんなこと言ったって、怖いものは怖い。

 さっさと逃げろ!

 私の目は克弘を盗み見ようとした。

 瞬きに便乗して、私は目だけを動かした。心の声も絶句した。

 克弘の真っ直ぐな瞳と目が合った。

 肩と心臓が大きく跳ね、私は心の準備をぐちゃぐちゃにされながらも行動を開始するしかなくなった。

 片腕を勢い良く突っ張って克弘の身体を押し飛ばし、もう片方の腕をテーブルの上で思い切り払う。包丁が天板の上を滑る音に重なり、克弘の「あっ」という小さな声が聞こえた。

 自分でも驚くほど鋭敏に、窓へ向かって飛びかかる。取り戻しかけた無鉄砲によって霞んでいた恐怖が、再び心を支配する。

 克弘はじっと私の顔を見つめていたのだ。包丁から視線を動かせなかっただけの自分とは違い、はっきりと、私の顔を見つめていたのだ。

 伸ばした手が窓枠を掴んだ。

 克弘は何を思っていたのか。真っ直ぐに見据えられていた瞳に、私の思考は見透かされていたのだろうか。

 鍵を外そうとした指先がカーテン越しに窓ガラスとぶつかる。レバーに引っ掛かるはずの指はずるりと下部まで滑り、掴み損ねたと気付かされる。

 ガラスの向こうにいつものベランダがある。まだ克弘は追い付いてこない。今度は指が鍵に当たった感触がしたが、またしても手が滑った。焦るな。開けて、あの室外機を足場に、ベランダの向こうへ。外へ。

 彼は包丁を拾った頃だろうか。指をカーテンの裏に潜り込ませ、窓枠に沿わせ、ガラスを撫でながら指を下ろす。背後にまだ足音は無い。指先に違和感がある。ガラスが鍵の部分で急に膨らんでいる気がする。違う。ガラスではない何かが、レバーを守るように膜を張っている。克弘が今どこにいるのか、もう想像できない。窓の鍵を覆うビニールテープが見えた。パニックが思考を侵す。急激に息が上がる。乱れる呼吸に喉が震える。握り拳を打ち付ける。合わせ窓は僅かに振動するのみで、私の拳を弾き続ける。

 まだ克弘は追いついてこない。

 西日が眩しい。空が青い。

「あぁ……あう、う」

 窓ガラスを手のひらで何度も叩いた。何度も音を立てる。異常事態なんです。誰でもいいから気付いて。下の道に通行人が居ることを祈るしかなかった。

 背後に感じた克弘の気配に、本能的に身体を捻り、左の壁に飛び付く。頭をぶつけんばかりに張り付き、更に左、廊下に続く扉の方へと顔を向ける。

 駆け出そうと踵を回すことはできなかった。

 背中に強い圧がかかり身体が壁に押し付けられ、衝撃に息を詰まらせる。気絶したいと思った。

 視界の下方に滑りこむ銀色とともに、ごづん、と重たい音がした。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 顎の先、壁にめり込んだ包丁の存在に身体が硬直した。下に向いた刃の弧が自分の左肩に潜り込んでいることに、謝罪を叫びながら気付いた。

「や、あああ!」

 たちまちTシャツに滲みだす赤色から目が離せない。克弘が何かを言ったが、自分の悲鳴で聞き取れなかった。背中を押さえつけられているからか、自分が身の捩り方を忘れてしまっているからか、傷付いた肩は僅かにも動かない。

 裂けた皮膚を千切られるような引き攣りを感じ、それが間違っていないことを知る。克弘が包丁を引き抜こうと、その柄を上下に揺すっているのだ。

 粘ついた唾液が喉に絡まり、飲み下そうとして悲鳴が途切れたとき、身体の硬直が緩んだ。次いで眩暈が起き、視界の高さががくりと下がった。身体が壁に沿ってずり落ちる。酸欠のようで、目が回っていた。

「俺は、怒ってはいないんだよ」

 克弘は私が聞き逃した言葉を繰り返したようだった。頭上で耳障りな摩擦音が短く鳴り、包丁が抜けたのだと分かる。

 視界がふやけきっている。私の顔は涙にまみれていた。フローリングが頬に触れる。肩が燃えているみたいに熱くて、腕の動かし方が分からない。まともに動かない唇からごめんなさいを呟き続けた。

「怒ってないよ、百合子」

 じゃあ救急車を呼んで。死んじゃうよ。そう言いたいのに、口から出るのはごめんなさいばかりだった。

 昨日ああしていれば、こんなことにはならなかった。それは明日の自分の声かもしれない。

 私は壁を足蹴にし、右腕を支えに床を這った。出来たての血溜まりを引くと、肩の激しい熱が激しい痛みに成り代わった。喉から吠え声と呻き声が同時に噴き出される。

 三十センチも進めない内に克弘が私の横で膝をつき、私の身体を抱き起こそうとした。

「痛い、放して、助けて!」

 克弘の抱き上げ方は乱雑ではないものの、動かされた肩からは血の塊がごろりと零れた。私は痛みを喚きながら、肩が動かないよう右腕で抑えつけた。

 降ろされたのはベッドの上だった。私はすぐに起き上がろうとしたが、上半身は肩を抱えた状態から動かせない。

 食いしばった歯の隙間から呻く私に、克弘が跨り座る。その手に包丁は無い。

 天井と、克弘。私はぼろぼろと涙を零しながら目を閉じた。

 衝撃はこめかみにきた。閉じた視界に火の粉の嵐が明滅する。目を開けても火の粉は舞っていた。

「いやだ、包丁いや。いや……」

「うん。そうだね」

 泣いて懇願する私に、克弘は優しく同調した。

 包丁がこない。それは救済のはずだったが、信用できるわけもなかった。

「ごめん、なさい」

「百合子」

 注意のニュアンスを含んだ呼びかけだった。

「俺以外のこと忘れててくれれば、百合子はそれでいいんだよ」

 気色悪いことを言われる。包丁も救済も気色悪いも、全部が恐怖だ。

 希望を見出せるとすれば、勢い余って死にそうなところだ。意識が朦朧としてきて肩の痛みが熱に戻りはじめている。視界が灰色がかっていて克弘がよく見えない。手足の感覚は薄れ、平衡感覚が狂っているため身体がゆらゆらしている。


 自宅なのか学校なのかビルなのか、どうにも分からないような場所で、私は目を回していた。

 まともに立つこともできず転びまくっているのだが、周りの至る所に困り顔の人がいて、「困ったなあ、誰か来てくれないかなあ」みたいなことを言う。誰か来てと言われれば私が行かなきゃならなくて、見知らぬ誰かのもとへ必死で向かう。ようやく辿り着くとその人は「ありがとう」と言い、いなくなる。そして私は次の誰かのもとへ行く。

 歩こうとしても転んでしまうので、スケートボードに寝そべって進んだり、でんぐり返しで進んだりして、呼び声の主を減らしていく。

 平衡感覚が回復してきて始めよりまともに歩けるようになった頃、いなくなった人の数だけ新しい人が現れていることに気付いた。

 その中に中学生の美春を見つけた私は、他の誰よりも優先して歩み寄った。

 美春は私がでんぐり返しで移動してまで人助けに励んでいたところを知っていて、たくさん褒めてくれた。

 それじゃあねと笑った私に、美春は「心配だけどなあ」と手を振った。

 家に帰った私は、描きかけの絵を完成させようと思いパソコンを立ち上げた。開かれたのは、薄暗い古びた牢屋の中で右手を鎖に繋がれた克弘の絵だった。

 この絵には匿名の人々からのコメントが付いていた。『美しい』、『よく分からん』、『助けてあげて』、『心配だけどなあ』。

 背後から画面を覗き込んでいた克弘が、パソコンのスイッチを切った。

 コメントが見えなくなってもその内容は忘れられず、私は泣きながら克弘に訴えた。

「私も意味が分からん。あんたが分からん」

 刑事の小次郎が笑った。

「百合子さんもおっしゃったじゃありませんか。人の心は見えないんでしょう?」


 痛みで目が覚めたのか、携帯電話の音で目が覚めたのか。とにかく、夢の世界から引き戻された私はその二つを認識した。

 部屋には蛍光灯の白い光が充満している。陽は完全に沈んだようだ。胸まで布団がかけられていて、汗をかいた身体がじっとりと湿っていた。

 全身が熱を持っていた。左肩は特別で、電気ストーブに間近で当たっているような熱さだった。肩にはタオルが巻き付けられ、肌にはなんらかのテープを直接貼られているような感触がある。無茶苦茶な固定で皮膚が引き上げられていた。

 パソコンデスクの脚に立てかけた鞄の中から、くぐもった着信音が聞こえている。電話を取りに行きたかったが、身体を動かすのは怖かった。少しでも動けば鋭い痛みに襲われそうだし、下手をすると肩のテープが剥がれてしまいそうだ。私は仰向けのまま天井を見つめていることしかできない。

 策を練る間もなく、克弘が台所から現れた。昼とは服が違っていた。彼は私の視界の端で断りもなく鞄を漁り、携帯電話を見つけ出す。

「返して……」

 天井へ向けた私の声は干からびていた。私が寝ていると思っていたのか、ちょっと驚いた気配があった。

「話したいの?」

「美春でしょ、返して……」

 彼は何も返事をしない。

 私も催促しなかった。これから現実と向き合う勇気をもらうため、涼やかなベルの音に聴き入った。

 着信音は止まった。克弘は喋った。

「『あんたに友達なんていない』って言われたことがあった」私に言っているのか、独り言なのか。「百合子にもいない」

 彼は電話を操作してからテーブルに置き、台所へと戻っていった。電源を切ったのだろう。

 恐る恐る、首を動かす。テーブルの上の携帯電話が見えた。ぐずぐず痛む肩を庇いながら、重たく感じる掛け布団から右手を引き抜く。美春よりも、警察よりも、救急車を呼びたかった。

 布団から開放された右手を顔の前に翳すと、私は克弘の行動を、ほんの一部だけ理解した。

 彼は自身の経験をなぞっているのだ。彼のいた立場に、私を置いて――。

 私の手首には子猫用の首輪が巻き付けられていた。バックルの部分は憎々しいビニールテープで補強されている。テープは二重になって外へ伸び、縒り合わされてベッドの下へ続いていた。

 懐かしい首輪だ。私はぼんやりと思った。

 この首輪は私が小学生の時に買ったものだ。十三歳で病死してしまったあの子も、この首輪がはめられるくらい小さな時期があったんだなあ。家族に子猫が加わったその週末にデパートのペットショップへ行き、悩んだ末に肉球模様のこれを選び取った。可愛らしくて完璧に似合うコーディネートのはずだった。ところが、子猫は首輪を付けられた瞬間から猛烈に嫌がり、このプレゼントは数分でお役御免となってしまった。時間をかければ平気になるんじゃないかと父のフォローが入ったが、一時でもストレスを与えたくなかった私は潔く諦めた。

 私が猛烈に嫌がっても、克弘は手首のこれを外してはくれないだろう。ビニールテープのガチガチな巻かれ様、これはコーディネート関係ないみたいだし。

 テーブルの携帯電話は惜しいが、右腕が届かないのではどうしようもない。

 台所の方から、じゅうじゅうと炒め物をしている音が聞こえてきた。肉の焼ける匂いがする。

 私は監禁されちゃったんだ。ご飯は食べさせてもらえるらしい。外界との接触は禁止。逃げようとしたら包丁だ。大人しくしていれば包丁を免れるか? その保証は無い。

 タレの匂いが加わった。感じるのは胃痛と吐き気だけだ。胃がひやひや痛み、車酔いをしたときのようにずっしり重たい。

 肉もタレも、買った覚えはない。私が眠っている間に買ってきたんだろう。

 調理の音が静まった。

 皿を持って出てきた克弘の機嫌は悪くなさそうだった。しかし、彼の機嫌と暴力性に関連は無いため油断はできない。「首輪外してくれない?」なんて尋ねてはいけない、「そこのケータイ取って」なんて頼んではいけない。「ご飯はちょっと食べれそうにないかも」は微妙なライン。微妙なラインは、危険と見なすべきだ。

 皿の上にはレタスを添えたサイコロステーキが乗っていた。ご飯とミネラルウォーターまでがテーブルに並ぶと中々の量だ。克弘はベッドとテーブルの間に膝をついて、テーブルを引き寄せる。

「できるだけ食べて」

 私は素直に頷いた。

 克弘は私の背の下に手を入れて持ち上げる。ゆっくりと息を吐いてそれに従うと、酷い痛みは避けられた。彼の介護は案外上手くはたらいているらしい。ベッドの枠に枕を立ててもたれかかると、私を支える手は離れていった。

 自分の身なりが目に入った。シャツの左側が肩を中心に茶色くなっていて、手当のためか、左肩から胸の上あたりまでは縦に割かれていた。

 蓋を外したミネラルウォーターのペットボトルを右手に持たされる。箸を持つ手は克弘が担った。好きにさせよう。

 私は口元に運ばれるサイコロステーキを啄み、食べ物を入れるなと訴える胃を無視して食道に押し込む。味は分かるが、味わえない。食べなきゃ何をされるか分からないから食べているだけ。さっき克弘は「できるだけ食べて」と言った。だからできるだけ食べなきゃいけない。喉の奥でもたつくご飯を、水で飲み下す。

 茶碗の中身が半分減ったあたりで、胃は限界に近付いていた。克弘は私の口の中が空になるのを待っている。

「もう食べれない?」

「う……」

 私は迷った。この量は克弘にとって合格だろうか。私は『できるだけ食べた』ことになるだろうか。また水を飲み、息を整える。彼がこの食事に合格ラインを定めているかは知らないが、そうだとしたら今後の暴力に関わる。わざわざそれを尋ねて藪蛇を引き起こすのも嫌だ。

 これがかつての克弘が覚えていた恐怖だろうか。彼の痛みを理解してやれたらいいのになんて思ったから、それが叶ってしまったとでもいうのだろうか。身をもって知りたいなんて望んでいないのに。彼の味わったものを思い知らされているにしても、これは行き過ぎに違いない。克弘はたくさんの痣を抱えていたけど、大きな怪我の痕は無いし、身体も自由に動いている。

 私の肩はそのうち死んでしまう。深い切り傷が勝手にくっついてくれるのならいいが、そうなったら奇跡だと思う。早く病院に行かなきゃ死ぬ。肩だけじゃない、私自身もだ。

「他のこと考えてるだろ」

 冷たい声がした。

「ちがう」私の声は硬かった。「考えて、ない」

 考えてない。ただ事実を確認してただけ……克弘のこと考えてたよ、ねえ!

 克弘は全く信じていない顔で箸を持ち直した。

「食べ終わるまでは何もしないから、食べて」

 そう言って、克弘は給餌に戻った。私は口にあてがわれた肉を、震える唇で受け取る。

 これを食べ物と認識することもできなくなった。

 軽く噛むだけで解ける成型肉から、油が湧き出て舌に纏わり付く。肉の欠片が唇の裏や歯茎に絡んで唾液に融け、口の中が泥水を含んだようにざらついた。

 動かない私を見かねて克弘が尋ねた。

「やっぱりお腹いっぱい?」

 私は口を開けられないまま首を横に振る。

 食べろ、飲み込め。自分へ強く命令しても喉はきつく固まってしまっていて、分泌される唾液もほとんど嚥下できなくなっていた。嘔吐感に涙が浮かぶ。まだ食べられる。食べ終わりたくない。

 軽いえずきで喉が蠢いた。隙を突いてその穴に泥水を流し入れると、目から涙が零れた。

「食べる、まだっ……」

 涙は止まらず、嗚咽が漏れる。

 克弘は食器をテーブルに置いた。私の頬を指で拭って、「もうごちそうさまでしょ」と呟く。暖かい声だった。

 ベッドに寝かされながら、私のすすり泣きの声は大きくなっていった。

 何も悪いことしてないのに。克弘を助けてあげたのに。

 幼児のようにわんわんと泣きじゃくっていたら、肩の傷にもわんわんと響いた。

 ぱちぱちと、フライパンが焚かれる微かな音が台所から聞こえた。

 また昔を思い出した。子猫にごはんを作ってやろうと思って、台所でウィンナーを焼こうとした。フライパンを火にかけたところでお母さんに見つかり、取り上げられた。勝手に台所を使おうとしたことと、猫に人の食べ物を食べさせようとしたことをお母さんとお父さんに叱られて、私はわんわん泣いて子猫にごめんなさいをした。よかれと思ってやったことで、子猫を傷付けるところだった。

 そのときみたいに、私は罪の意識で泣いていた。克弘をおかしくしてごめんなさい。よかれと思っていろいろやってごめんなさい。私のしたことのどこが悪かったのかは分からない。あのときの両親みたいに教えてくれる人がいない。私は悪くないのかもしれない。私は悪くないと教えてくれる人もいない。

 克弘が台所から戻ってきた。

 包丁ではなく、フライパンを持っていた。

 号泣しながらごめんなさいをする私に、克弘は優しく言った。

「大丈夫だよ。百合子はなんにも悪くないよ」


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