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04

「ちゃんと帰ったんだ。でも、例の男が居て」太郎はこめかみに貼った絆創膏を指でなぞった。「だからこれはお母さんじゃなくて、彼氏の方」

 これ以外の今までの傷は全部お母さんの方、と解釈しているけど、構わないかな。

 切り傷を見た当初は出血が酷く見えていたが、それは彼が雑に拭って血の痕を広げてしまったからで、傷自体は小さかった。

「お母さんはいなかった。けど、いなくてよかったのかもしれない」

「……そうかもね」

「自分の財布は持ってきたよ。ケータイは、無いけど……お金もあんまり」

 太郎はコンビニ袋から光沢のある暗いネイビーの長財布を取り出す。大学生が持つには高級感がありすぎる。実は例の彼氏から強奪したとかじゃなくて?

 高そうな財布に目を奪われていると「お父さんのお下がり。離婚するときに貰った」と補足が入った。彼が父親について言うのは初めてだ。『お父さん』という言葉自体、彼の口から発せられるのが初めてな気もする。

「これ、あげる」

「え、いやいや! あれ、え?」

 差し出されたのは財布ではなくコンビニ袋だった。「ケーキ、買ったんだけど……」と彼。

 ケーキって。お金のあんまり入ってない財布を取り戻して、買ったのがケーキか。嬉しいけれど。

 袋を引き寄せて覗き込むと、中にあったのはコンビニで売っている二つ入りのショートケーキだった。オーソドックスな見た目でかわいいが、片方のイチゴはクリームにくぼみを残して倒れてしまっている。

「……ありがとう、冷蔵庫に入れとくね。ご飯の後で一緒に食べよう」

「夜ご飯どうしよう、忘れてた」

「パスタじゃ駄目かな。腕によりをかけて茹でるからさ」

 笑って言うと、太郎は控えめに笑い返してくれた。定位置となっているラグの隅っこで、あぐらを組んだ彼はゆったりと目を閉じる。疲れた一日だったのは、彼も同じらしい。

 ケーキを冷蔵庫に移すと、コンビニ袋の底に、パッケージの違うドライアイスが二つずつ転がっていることに気付いた。青色の二つは溶けきっていて、緑色の方は辛うじて低温を保っている。涼しい場所に逃げ込んだり、どこかでドライアイスを貰えないかと頼んだりしている太郎を想像すると、中々に愛らしい。

 ケーキを買ったのは朝に電車を降りたあとだろうと私は推測した。暑い中、飲み物を我慢して買ったショートケーキが、和解のきっかけになるはずだったのかもしれない。

 和解のためのケーキ。私の父も似たような行動を取ったことがある。

 父は頑固で昔気質(むかしかたぎ)なタイプの人間で、はっきり言って、私は嫌いだった。美春と仲良くなってイラストを描くことにハマりこんだ時も、父は『度が過ぎている』としつこく文句を言ってきたものだ。

 やるべきことを疎かにしている自覚がある内は反省もし、自分なりに制約を設けて義務を果たすようになった。にもかかわらずパソコンに向かう度に嫌味を言われて、私のイライラは大きくなるばかり。その件の不和が解消されたのは、私が「勉強以外はしちゃいけないらしいから」と言ってパソコンと食事を同時に放棄した三日後のこと。和菓子派の父が可愛い洋菓子を持って帰ってきたのがきっかけである。

 ハンガーストライキ(学校の食堂はノーカウント)でジュースすら我慢していた私の目に、そのケーキはきらきらと輝いて見えた。「極端なことはやめなさい」と言う父に、素直に頷く私。ドラマに見るような不器用な愛情表現に、いたく感激していたのだ。

 その後、母は「あの人、お前が説得しろってうるさかったのよ。あの人の謝るとこが見たかったから、私の説得も聞かないってことにしたけどね」と明かした。「結局は物で釣ったのね。釣られるあんたもあんたよ」

 うん。現実はそんなもんだろう。父の本心は父に訊かなければ分からないが、仮に知りたくなったって死んでるんだからどうしようもない。

 私は父を嫌っていたし、今でも良い父だったか悪い父だったかを尋ねられれば悪いと答える。だけど親子の情は確かにあって、死なれたときは悲しかった。高校卒業後の進路を巡ってかつてない冷戦状態にあった頃でさえ、もうすぐ父が倒れてそれっきりになるとお告げがあったならば、私は和菓子を買いに出かけただろう。

 居間に戻ると、太郎はうっすらと目を開けて、気の抜けた顔で手首の薄れた痣を見ていた。

「太郎、お待たせ」

「克弘」

「ん?」

「克弘、です」

「へえぇ、そうなの。克弘です、お待たせ」

 太郎、もとい克弘は苦笑してテーブルに寄った。

 特にリアクションを取らなかった私だが、じわじわと驚きが湧いてきている。さらっと本名を明かしたよね?

 帰ってきたときから別人のように口が軽くなっているのが気になってはいたけども。自宅を探されようが居場所を密告されようが支障は無いってことか。それか、私に対して隠し事は無しでいこうと思い直したとか。あるいは単にヤクケソになっていたりして……。少なくとも彼の心境の大きな変化は確実だ。

 果たしてそれが良い変化なのか、悪い変化なのか――心配する私の前で、本人は平気な顔をして食事に手を付ける。

「バイトって学生証でできたっけ」

「バイトね。そうだなあ、履歴書も……住所はいいとして、電話番号をどうにかしないと」

「そっか、ケータイ……」

 たらこパスタをフォークに巻き付けながら太郎、もとい克弘は肩を落とす。まずは電話番号か。学生証も、形だけの提示なら年度いっぱいは使えるが。

「もし退学になっちゃったら、学生証もどうだか……他に身分証はある?」

 彼はフォークを置いて財布を改める。テーブルの下でがさごそやった後、動きを止めて眉をぴくりとさせた。

「住基カードだ」

 お年玉を数えてみたら予想以上だったときみたいなこの顔。自分の財布の中身も把握してなかったんかい。しかし重畳、威力の高い身分証をゲットできた。

 パスタを挟んだ会議は続き、克弘、もとい太郎……もとい、克弘のこれからが現実味を帯びてくる。

 現実味といえば、名前もそうである。本名を知った途端に彼の印象は変質し、実在感を伴いはじめた気がする。もちろん彼のことを幻覚やら異世界人やらと思っていたわけではない。名前も過去も本人の意志で隠されていたので、私は単純に彼の背後を知り得なかったのだ。

 その名前を始め、知り得なかった様々な部分は、今日になって次々に明かされている。

「お父さんは無理だな。離婚は向こうの浮気が原因だし、再婚しててもおかしくない」

 お父さんは頼れない、と。

「仕事は選ばないけど、歩いて通えるところかな……原付免許が先か」

 うんうん、身分証は複数持っておいた方が安心だ。原付免許があればアルバイトの選択肢に配達を加えることもできる。

 克弘はパスタを綺麗に食べ終えてお茶を飲み干し、コップを持って台所に向かった。食べっぷりに問題は無し。これからについての話し合いも冷静で前向き。しかし、私の分析が正しければ、彼は自分の振る舞いで自分を励ましているように見える。母親には会えなかったそうだが、男の方とのやりとりで関係改善の目は無いと悟ったか。

 台所から戻ってきた彼の持つコップには透明な水。水道水だ。一応ミネラルウォーターもあるけど、彼は水道水で平気らしい。ちなみに私も平気な人間。先週に何本か買ってきた五百ミリのペットボトル達は、冷蔵庫の野菜室に眠っている。外出時など、水筒代わりに持っていくのも良いかもしれない。ミネラルウォーターの消費は明日にでも早速実行しよう。明日は外出、克弘の携帯電話を契約しに行くのだ。

 ちょっと遅れて私も完食。お茶に手を伸ばしながら目にしたのは、またしても手首の痣をぼーっと見ている彼だった。

 気持ちをごまかすってのは大変なことだ。振り返る必要の無い過去は割り切ろう、なんて頭で結論しても、気持ちの方はお構いなしに不必要なそれらを思い出させてくる。『考えても仕方ない』と言い聞かせたくらいでは、自分の気持ちを好きな方に転がすことはできない。いつもの私がそうだ。

 ならば、ごまかさないでみてはどうだろう。思えば美春の励ましだって、私が気持ちの部分までを打ち明けてから始まる。

「おうちのことはもういいんだね?」

 問いかけると、克弘は少し間を置いて頷いた。それから力ない声で明かす。

「俺が家出までしたから、お母さんも、なんていうか……気が変わってるかもって思った。でも」克弘の顔は俯いていく。「でも……だから、もういい」

 期待していたんだな。

 淡い期待で自分を鼓舞し自宅に戻った彼は、家族が壊れてしまったことを改めて思い知らされてしまった。それはどれだけの孤独なのかな。その孤独を理解できたとして、私が彼の母親達を改心させられるわけもない。

 親子関係は母親に限らなくともよいのではないか? 父親は健在なのだろう。浮気で離婚したそうだが、克弘自身と険悪になったとは聞いていない。

「やっぱりお父さんを探してでも……」

「大嫌いだ」

 はっきりと苦々しげにそう言って、克弘は完全に俯いてしまった。

「あの人は自分勝手で。あの彼氏だって、どうせ……」彼はそこで一度口を噤み、目を閉じた。「お母さんは――」

 離婚が成立したのは春先のことだった。克弘の母は元夫の姓が書かれた表札を外しに行き、部屋に戻ってくるなりそれを床に叩きつけた。軽い木の板は床を跳ね、克弘の足に当たる。母は慌てて謝罪した。憐れむ克弘の前で彼女は泣きだし、拾い上げた表札を克弘の頭めがけて投げつけた。

 暴力が日常になり、門限が厳しくなり、授業以外での外出も減った。大学が夏季休暇に入り、八月に入った頃、克弘はリビングテーブルに繋がれた。母とふたりきり、彼は監禁された。

「お母さんは、怖い」

 弱々しい吐露に、私は息が止まりそうになった。

 本名を教えてもらえて距離が縮まり、私は彼への理解が劇的に深まるものと思っていた。しかし結局、新たに分かったのは彼の口にした言葉通りの内容だけ。

 誰ひとりとして味方が存在せず、共に暮らす肉親から暴力を振るわれる世界はとても恐ろしいところであるはずだ。その恐怖を理解してやりたいのに、全く想像ができない。これならまだ詳しいことを何も教えてくれなかった頃の――彼が太郎だった頃の方が同情しているつもりにもなれた。

 ゆっくりと顔を上げた克弘の不安そうな顔を見て、私は自分の表情を引き締めた。

「怖いなら、逃げよう」

 私は克弘を『心が軽くなる場所』へ誘った。


 おばけなんてないさ、おばけなんてうそさ。

 周囲の警戒に励む克弘を心配して明るい歌を口ずさむと、克弘は不満そうに言った。

「幽霊とか、信じてない」

「そう。ならよかった」

 幽霊を信じていないという彼の言葉を私は信じていない。自宅の裏の向かいにある小さな公営墓地に入ってからというもの、克弘は私の左後ろを、足がぶつかりそうなくらい距離を詰めて歩いている。墓地ってそんなに不気味かなあ。

 私はこの場所が好きだ。静かで、涼しくて、開放感があるからだ。

 墓地の面積はささやかで公園のような華やかさもないが、清掃は行き届いている。住宅地にひっそりといった風情も私が気に入っているところだ。平坦な土地には和型の墓石のみが立ち並び、墓地を囲むコンクリート塀に沿って木が植わっている。墓石の多くはお盆に洗われるので、毎年のこの時期はつやつやして見える。明るい砂地の上に配置された石の柱の群れは、整然としていて気持ちが良いのだ。

 目指していた簡素な東屋に着き、私達はぽつんと置かれたベンチに腰掛けた。

 隣に座った克弘が疑うように尋ねてくる。

「心が軽くなる場所って、ここ?」

 声色は普通だが、その目にはやはり疲れが見える。

「うん。やっぱり、お墓は不気味?」

 克弘は数秒考えてから首を横に振った。

「確かに、静かで誰もいなくて、落ち着けるかな」

 彼はゆったりと周囲に顔を巡らせる。表情を見るに、嘘ではなさそうだ。

「ひとりになりたいとき、たまに来るんだよ」

「一人暮らしなのに?」

「そうなんだけど、もっとひとりぼっちになりたいというか」

 生きた人間が存在しない世界に行きたいというか。

 克弘は地面に目を落とした。私は同意を得られるか不安になりながらも続ける。

 私は仕事でも私生活でも、常に自分以外の人間に関しての憂鬱に付き纏われている。リアルでもネットでも、匿名のサイトでまでもそうだ。軽い社交辞令を言うにもいちいち悩み、メールのチェックをするだけで緊張して、世間話のような掛け合いでも相手の機嫌が気になって仕方がない。業務連絡もSNSも全て放り出してしまいたくなる。物騒な言い方になってしまうが、私以外の全員が死んでいたら、もう誰にも気を使わなくてよくなるのにと思う。

 そういう不満が溜まってきたらこの場所に来て、生きている人間が自分だけという寂しい世界に浸る。本気でみんなが死んでしまえばいいと思っているわけではないけど、ときどきこんな妄想に逃げて心を仕切り直すことで、少し楽に頑張れる気がする。

「克弘の場合だったら、お母さんとお母さんの彼氏とお父さんと、ついでに吠える犬も、この世界にはいない。克弘が怖いと感じてるものが全部消えた世界って感じかな」

 克弘は視線を落としたまま曖昧に頷いた。

 目を閉じると完全な暗闇だ。ときおりコンクリート塀の向こうで足音が聞こえるが、もっと遅い時間であれば、人の気配も遠くの車のエンジン音も無くなる。草むらから、リリリリとか、ジィーとか、虫の音が無機質に鳴るだけだ。

 そして私はひとりぼっちになれる。ここに誰かの不安やトラブルは存在しない。今は傷心してるっぽい人物が隣にいるけど。

 もごもご。

 久しく聞いていなかった克弘の音が耳に届き、お、と思いながら目を開ける。「何?」と促すと、彼は感情を露わにして私を見つめた。

「ひとりぼっちは、だめだ」

 それは怯えた声で、縋るような目だった。意表を突かれた私は慌てた。小さい子が突然泣きだしてしまったときみたいに、頭の中で『なんでこうなった?』と自問する。

「い、いや。ひとりぼっちってのは私の場合でね? 克弘は嫌なものだけを都合良く忘れる感じで、どうでしょうか……」

「ちがう……」

 何が違うのか分からないが、だめってことか……。私のお気に入りの気分転換は、彼にとっては逆効果になってしまったらしい。精神面で不器用そうな彼を思うと、それも仕方ないのだろう。

「ごめん、克弘には合わなかったね」

「ちがう」

 克弘は首を振って否定して、前触れ無く私の手を掴んだ。驚きに目を瞬かせた次の瞬間、私は彼の腕の中に引っ張り込まれていた。視界は再び暗闇になり、おでこに彼の痩せた肩を感じる。手を繋いだまま、もう片方の手で頭を優しく撫でられて、体の強張りが解けていった。私は自分の気が緩んでいく感覚に戸惑った。

 こんな風に誰かに抱き締められるなんて、何年振りか分からない。目を閉じて頭をもたせかけると今日の疲れが目に染みて、このまま眠れそうな気がした。

 頭を撫でる手が止まり、耳元で切なそうな声が聞こえた。

「周りの声が気になるせいで、ひとりぼっちになりたいなんて、寂しいだろ」

 少し考えて、私の心配をしてくれているのだと分かった。私はてっきり、世界に一人だけになった自分を想像して悲しくなったのかと……。

 ひとりぼっちが寂しいな、と考えたことは無い。もし『自覚してこなかっただけで本当は寂しく感じていたはずだ』と言われれば否定できないが、かといって肯定もできない。でも、こうして克弘に寄りかかっている今は、寂しくないと言いきれる。

「心配してくれてありがとう」

 小さな声で返すと、私を抱いている腕に力が込められた。

 慰めてやろうと思って連れ出した相手に、逆に慰められているなんて。しかもまんざらでもないと思ってしまっている。頭から遠ざかっていった手のひらに名残惜しさすら感じて、私は非常に恥ずかしくなった。彼の肩から離れると、墓地をたゆたう風に頬を冷やされる。

 帰ろう、と、克弘は手を繋ぎ直して立ち上がった。待つこともせず歩き出す彼に、私は引きずられるようにしてついていった。もう少しあの場に居たかったけれど、克弘に甘えたがる自分を認めるのはむずがゆく、向こうから切り上げてくれて助かったとも思う。

 墓地を出ると空気は一気に温くなった。昼の間に焼かれたアスファルトは未だ冷めきらない。早足で進んでいく彼に合わせているとだんだん息が上がり、強く握られた手は少し痛くなってきた。放してと言うつもりはなかった。そう言っても彼は手を離さないだろうなと思ったし、離さないでほしいと願う自分にも気付いていた。

 彼の手を振り払ってしまった今朝の記憶が、また私を責め立てる。

 墓地から自宅までの僅かな道のりは、急ぎ足のおかげで更に短く感じた。


 自宅に入って玄関ドアを閉めると、クーラーの冷気が火照った体をすうっと冷やしてくれる。

 玄関に二人立ち尽くし、私は上がった息が整ってから、繋いだ手を揺らして言った。

「もう大丈夫。ありがと」

 手、汗かいちゃった、と続けると、克弘は渋々といった顔で手を解いた。

 部屋に戻った私はすぐに時計を確認した。時刻は午後八時過ぎ。いつもなら仕事の日だったとしても元気のある時間だが、今日の身体的な疲労感は特別重たい。今日中に済ませておくべきことを先にして、ケーキはそのご褒美にしよう。

 ケーキを食べないのかと誘惑してくる克弘を「その前にいろいろやっておきたいから」と待たせ、テレビを点けてリモコンを渡す。少し不満気に頬杖を突いた彼を横目に私は仕事用の鞄を拾って、デスクトップパソコンとスキャナの電源を入れた。

 鞄からばさばさと取り出したのは、会社から貸してもらった美術関係の書籍と、勉強に使っていいよと渡された背景のラフが数枚。それから美春が譲ってくれた会計関係の小冊子。あと、今まで存在を忘れていた今朝の刑事の名刺。

 書籍と小冊子は明日読むことにして、スキャナでラフと名刺をデータ化していく。同時進行でメールの確認を済ませていると、残念なことに返信の必要な連絡があった。単純な確認のメールだが、『分かりました』を如何に愛想の良い文面にできるかを考えるため、手が止まる。

「そのメール、何」

 真後ろから声をかけられ、私は反射的にメールを隠した。

「お仕事のだから、あまり覗き見しちゃだめだよ」

 軽く注意をしてからスキャナに手を伸ばす。スキャンを終えた名刺を取り出すと、克弘の手がそれをひょいと奪ってしまった。

「ちょっと……」

 椅子を回して振り向き克弘を見上げると、彼は難しい顔で名刺を読んでいた。

「これは」

「それは仕事じゃないけど、名刺はパソコンで管理してるの」

「そんなことする必要ない」

 克弘の断言に私は面食らってしまった。そんなに無理をしていると思われているのだろうか。墓地での私の態度が、彼を過度に心配させたのかもしれない。

 私は諭すように、真剣に説明をしようとした。

「ありがとね。でも今日は早く寝るつもりだし、仕事の絵はしないし、メールだけ――」

「メールもしなくていい」

 責める声に怖気づきかけたが、何故命令されなければならないのかとの苛立ちが走る。

「なんであんたに――」

 言い返し身を乗り出そうとした直後、身体の重心がぐるりと回った。硬い壁に叩きつけられる衝撃で一瞬息が止まり、目を開けると天井を見上げていた。いつの間にか、私は床に落ちている。

 仰向けになった腹部に何かがのしかかる。それが喋る。だれともかかわらなくていい、と。

 私の上にいるのは克弘だった。蛍光灯の明かりを背に受け、顔はやや影になっている。

「え?」

 パニックから回帰しようと考えた頭は、とりあえず声を出してみるという結論に至ったらしい。それは正しかったようで、声を発し、声が耳に届き、脳が認識しという過程を辿って、金縛りが解けていくように身体が現実感を甦らせていった。

 克弘が言った。

「誰とも関わらなくていい」

 静かな声。

 その意味は分からなかった。言葉は理解したが、脈絡も、根拠も全く分からなかった。なんであんたにそんな命令をされなくちゃならない。

 もしかすると私がこれを理解できないのは未だパニックから覚めていないからで、彼は至極常識的なことを言っているのかもしれない。でも、私を椅子から引き倒したのは彼だろう? そんな暴力に、至極常識的な何かがあってたまるものか。

「どいてよ!」

 私の怒鳴り声に克弘は返事をせず、表情も変えず、拳を振り上げた。


 だいじょうぶ、にげられないよ、ゆりこ。

 克弘の甘い声が耳に残っていた。

 左の頬に冷たい何かが当たった感触に、私はベッドの上で身を跳ねさせて目覚めた。頬の感触はタオル地でぐにゃりとしていた。ポリ袋にフェイスタオルを巻いた簡易な氷嚢のようだ。氷が過剰なのか、冷たさが痛くもある。頭痛を生みそうな氷嚢から顔を逃した先で克弘と目が合い、彼がこれを用意したんだなと思い当たった。

 外が明るい。西向きの掃出窓から陽が差し込んでいて、正午はとっくに過ぎてしまっていると分かった。

 確か、寝たのは――。曖昧な昨夜の記憶を追うと、瞬く間に恐怖が浮かび上がった。

 自分はわけも分からず殴られたのだ。そのときは呆然としていて、もう一度拳が上げられたのを見たとき、ようやく私は震えはじめた。そこから先は、よく分からない。ただ、二度目の拳が降ってこないと分かってからも、私はずっと震え続けていた。

「冷たすぎたか」

 克弘の呟きが聞こえただけで、私は無意識に身を固めてしまった。

 彼は氷嚢を手で揉んで冷たさを確かめ、それを持ったまま立ち上がる。普段どおりの静かな声で「ごはんあるよ」と言い残して台所に消えた。

 戻ってきた彼がテーブルに並べたのはお茶とパスタだ。昨夜食べたばかりのパスタ。起き抜けにパスタ。食欲に響かないメニューだが、温かそうな食べ物を見ているとお腹が減りだした。

 私は手招きに引かれてベッドを降りる。正座を崩してテーブルに着きフォークを取った。

 味付けも昨日と同じレトルトのたらこソースだ。好きな味だから同じものをたくさん買い置きしているわけだが、連続で消費する想定なんてしていない。朝食(昼だけど)なのだからトーストくらい軽くていいのに。美味しいけど、進みは遅い。

 起き抜けには重いかも、と漏らしたくなるのを堪えて、私は咀嚼を続けた。

 先に食べ終わった克弘は、私のコップが空になっているのを見つけてお茶を注いでくれた。

 彼は何事も無かったかのように穏やかでいる。あの暴力は夢だったのではないかと思いかけたが、体温が上がるにつれじんじんと痛みだした頬がそれを否定した。

 一言も喋ることができないまま、最後の一口をお茶で流し込む。見るからに鈍重であろう私の動きに克弘はなんら問うこともせず、食器を集めて台所に入っていった。

 すぐに、食器を洗う音が聞こえてくる。私の目は台所の入口に釘付けになっている。

 あのとき、何が彼の怒りに触れたのだろうか。沸点が分からない。

 ――誰とも関わらなくていい。

 ヤンデレの典型的な束縛思考だ。昨日まではそんな徴候無かったのに。ストレスでおかしくなっちゃったんじゃないか。家族と縁を切ると決めたその日だ。寂しさでいっぱいのときに、私が自分の用事で待たせたから?

 分からない。きっかけが分からない。まだ怒っているのかも分からない。一週間かけて理解を深めていたはずの克弘という人物が、出会ったとき以上に得体の知れないものになってしまった。「昨日はちょっとどうかしてた」とでも言ってくれれば「今日はどうかしてないんだね、よかった」となるものを。なんの弁解も謝罪も無いから、静けさも穏やかさも、不気味でならない。

 身震いが出る。外に逃げ出したくなったが、克弘を刺激してしまいそうで動けない。こっそり抜け出そうにも扉の付近は台所から丸見えだ。

 私は鞄の中にあるはずの携帯電話を思い出した。

 美春。美春に助けを求めて、うちに来てもらえないだろうか。今は仕事中だろうけど、少し仕事を抜けるくらいは許されるはずだ。第三者が私を訪問してくれば、克弘も常識的な態度を取るだろう。

 でも、もしメールをしているところを克弘に見つかったら、まずい気がする。他者とのメールは克弘を苛立たせた要因のひとつかもしれない行為だ。

 逡巡していると、水道の音が止まった。

 皿洗いが終わってしまった、下手なことはしない方が良い。『誰とも関わらない』を遵守している様子を見せつつ、おっかなびっくりご機嫌取りを――。

 台所から現れた克弘を見て、私はこれまでの全てを後悔した。

 水の滴る包丁を手に、彼は満足気に微笑んだ。


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