03
太郎という居候が来て五日目、彼の家事能力が意外と高いという事実が明らかになっている。
私は自分の部屋を綺麗に保っていると思っていたが、太郎が毎日掃除機をかけてくれるようになってから、本当の綺麗な部屋がどんなものかということを思い知らされた。今までは『散らかっていない』だけだったのだ。風呂掃除と皿洗いに部屋の掃除が加わり、食事の用意やゴミ捨て、ポストの確認までもが彼の仕事になっている。私から要求したのは風呂掃除だけで、他は全てが太郎の立候補だ。
元々引きこもりが苦にならない私は、部屋から出る機会をすっかり失ってしまった。時計を見なくても食事が出るし、片付けなくても部屋は綺麗になっていく。時間を気にせず趣味と趣味の延長である仕事に没頭できる、貴族のような生活だ。
私が一つの趣味にいくらでも時間をかけられる一方、太郎には家事以外にすることが無い。できることが無くなると、彼はラグの隅っこで体育座りをして、置物のようになって考え事を始める。本人の頭の中は忙しく動いていて退屈ではないのかもしれないが、一緒にいるこちらは息が詰まってしまう。
ゲームを勧めても漫画を勧めてもやんわりと断られてしまったので、テレビを点けっぱなしにすることにした。太郎の目のやり場になってくれるし、賑やかな声は部屋の沈黙を紛らわしてくれる。このテレビを購入して以来、一番の活躍である。これなら、昨日までの部屋の重い空気が絵に影響して、美春に『この下書き、ラフのときより男の子の表情が暗いのはわざと?』と言われてしまった問題も解決だろう。
私は今、その下書きの修正作業をしている。文化祭の実行委員をしている男女が、教室に残って打ち合わせをしている場面。指摘された部分は、遠近法の間違いと棚の高さの違和感。そして男の子の照れ笑いに混ざる謎の憂いについてで、どれも私の意図するものではない。
ちまちました修正作業を、たまにやらかしてしまう操作ミスに邪魔される。先程まで取り組んでいた仕事の絵も下書きの段階だった……仕事の絵と趣味の絵の進捗が軒並み重なってしまうのはあまり良くない。気晴らしに他の絵の彩色をしようと思ってもその段階にある絵が無いし、新しいラフを描いちゃおうなんて思うとそちらに没頭しすぎてしまう。おっと、動かなくていい線まで動いたぞ。レイヤーか? ああ、セットでアクティブになってる!
舌打ちが出た直後に台所から響いた物音で、私の集中は霧散した。
「何、大丈夫?」
言いながら台所を覗き込むと、洗い物をしていたらしい太郎は焦った様子で「大丈夫、ごめん」と肩を小さくした。彼はシンクとフライパンを交互に覗き込んで、もう一度「大丈夫」と頷く。
シンクが凹もうとフライパンが歪もうと構わないんだけど……。
「ちょっと顔色が悪いんじゃない?」
「え?」
「疲れてるなら――」
「疲れてない」太郎は洗い物を続ける。「そっちこそ……いらいらしてるんじゃないか、と思って……」
「なんで?」
私は首を傾げた。そんな素振りをした覚えは無い。しかし三度目の「大丈夫」を聞かされるとしつこくは聞けず、私はすごすごとパソコンの前に戻った。
修正中の絵を前にして少し前の自分の行動が思い出され、ああ、と納得する。操作を間違えて舌打ちをしたんだ。いらいらしていると思われたのはこれか。家で舌打ちを我慢することはないからなあ……。
舌打ちにびっくりしてフライパンを取り落とす太郎。デリケートだなと苦笑しかけて、そうならざるを得ないのかもしれないと思い至る。彼にとって、舌打ちが聞こえるのは何かの予兆なのではないか。その何かはきっと、彼を苛み続けた存在だ。
もっと気を回そう。無意識の仕草を完全にやめるのは難しくても、気を付けるくらいならできるはずだ。
太郎には、なんというか、安心していてほしい。
急いで結論を出そうとせず、心が落ち着いている状態でゆっくり考えるべきだとは話してある。それは帰るにしても帰らないにしても、無防備でいては周囲からの声を受け入れることしかできないからだ。自分にどんな選択肢があるのか、どうしたいのかを知っておかなければならない。
必要とあらば私が仲介や代理をするつもりもあった。相変わらず実家については答えたくないようなのでそれ以上のことは言えない。このまま実家を出るとした場合に関しても、できるのは社会経験のある第三者としてのアドバイスくらいだった。どう働き始めるかとか、日雇いだとか住み込みだとか、身分証がどうだとか。
家出人や失踪人向けの指南サイトから得た情報は伝えた。何を選ぶかは本人の気持ち次第だ。
彼は悩んでいる。自分が何を選び、どうなりたいのか。そして、機を窺っているだろう。その選択が真に自分のものであると確信できる時を。
台所から出てきた太郎を呼びつけ、私はネットで見つけた動画を見せてやった。
三羽のまだ幼いうずらが、丸い身体で小さな羽を震わせぴこぴこと跳ねる。飛ぶ練習をしているのだ。その内の一羽が長く羽ばたき三十センチ程の距離を跳ねると、他の二羽も追いかけるように羽ばたいた。
太郎は動画の撮影者と同じく「おお」と感嘆の声を上げた。ほんの少しだけ頬の緩んだ彼に、私は満足する。癒やしと言えば動物だ。彼の重たい悩みを消すことはできない。できないながら、それを僅かにでも紛らわせる瞬間は与えられる。
「かわいかったでしょ」と動画を閉じて、画面を絵の作業に戻す。これから男の子の表情の描き直しにかかるところだった。
「カップル? 片想いなの?」
太郎が男の子を指して訪ねる。私はちょっと考えて答えた。
「片想いだね。でもちょっと事情があって、告白するつもりは無いかな」
当初の予定とは異なっているけど、そういうのもいいなと思った。彼なりの考えがあって、告白はしない。叶わない想いは苦しいけれど、一緒にいる心地良さもある。
人の感情は割合じゃない。心地良さの分だけ苦しさが減ってくれるわけじゃない。それでも絵の中の彼は、この時間を心地良いと感じている。
下書きの修正は、遠近法と棚の高さだけで終わりにした。
絵を描いてばかりの数日を重ねて九月に入り、火曜日を迎えた。私の目が覚めた時には太郎は既に洗面を済ませており、着替えも終えていた。のろのろと身支度をした私が「電車賃か、お昼代」と先週と同じことを言って五百円を渡すと、彼は「電車賃にする」と呟いた。『今日はどうするの』と促すまでもなく、彼は答えを出していた。
昨日だって急かすようなことは言っていない。彼が自分で決めたのだ。
太郎と並んで歩くのは出会った夜以来、一週間振りだ。駅が大きく見えてくるにつれ、太郎の気持ちが上向いた安心と、酷い目に遭わないだろうかという心配と、単純な別れの寂しさを感じた。
私がそわそわしていたって仕方ない。ろくに事情も教えてもらえず、こちらから踏み込むのも躊躇うような私だ。ここで保護者ぶるのはお節介がすぎる……でもちょっとだけなら。
「大丈夫なの?」
「まあ大丈夫」
即答だ。
通行人が増えてきて、太郎はオーバーシャツを上に着る。もうちょっと食い下がって訊いてみようかと迷っているうちに駅の前まで来てしまい、私達は周囲の人と共に駅の入り口に束ねられた。「まあ大丈夫」の根拠が気になるが……教えてもらえる気もしないし、ここで詳しく話せる内容かも不明だ。信じて送り出すのが適当か。事情がほとんど分からないせいで悪い方に考えすぎているだけかもしれない。
時刻は朝のラッシュアワーが終わって少し。押し込まれるほどの混雑はないだろうが、太郎の体格を考えるとまだ危なっかしい気がする。といっても特別痩せているわけでもないし、彼の儚げな雰囲気がそう感じさせるのかもしれないが。
「時間は気にしなくていいんだから、もうちょっと空くまで待てば?」
券売機の順番を待つ間に提案してみたが、彼は頷かないし、こちらを振り向きもしない。太郎はたった二駅だし、ほとんど苦でもないかな? でも気になる。今度は太郎の肩を叩いてから言ってみた。
「何本か見送ってもそんなに待たないよ」
「やだ」
なんとふてぶてしい。そう思って太郎の横顔を見ると、彼は少し寂しげな表情をしていた。うん。一緒に乗るか。たった二駅だけど。
太郎の切符を買う順番が来て、私は素早く自分の財布から小銭を投入した。太郎が不満を訴えるが気にしない。「浮いたお金でジュースでも買えば?」と笑うと、彼は少し考えて、握っていた五百円玉をポケットに戻した。
ホームに着いて列に加わったとき、太郎は私の手のひらの端を軽く指で摘んで静止した。私は萌えを感じた。
電車に乗ってからも手は離れない。気恥ずかしくなりながら、頼られているという自信で嬉しくもなる。一つ目の停車で密度が上がり、乗客が半歩ずつ詰めていく。人と人との隙間が縮まり、私と太郎の肩も近付いた。
ドアが閉まる空気音の後、車体が緩く揺れる。彼の指が一瞬離れ、すぐに手のひらが重なった。太郎は次の駅で降りる。私は少し顔を背けて、その手をしっかりと握り返した。
それからまもなく、私は正面以外に視線を向けてしまったことを後悔する。
――やっちまった。
胃に緊張が走る。
私の目に入ったのは、むっとした表情で身を捩った女性。彼女は不機嫌そうな目をして、左、右と目線を振る。ああ、ただごとじゃないかもしれないぞ。
太郎を振り返ると、彼もこちらへ顔を向け、ちょっとぎこちない無表情で『何』と口を動かした。私は『ちょっと、ごめん』と返して手を解き、加速を始めた車内で体を横にして人混みの隙間へ割り入った。
「ごめんなさい、失礼……すみません…………美春っ」
女性に近付きながら声をかけると、彼女は驚いた顔で私を見た。彼女とは初対面だ。美春と呼んだが、美春ではない。
強引に人混みを押して彼女の隣に位置取る直前、予想的中、腰の高さから誰かの腕が逃げていく気配があった。
周囲からの迷惑そうな視線に気付かないふりをして女性へ笑いかけると、女性も眉を下げて微笑んだ。
「美春、えっと、今日は?」
「うん、今日はいつもより遅めに乗ったの」
彼女が私の意図を汲んでくれたことに安心して、いくつかの無難な言葉を交わす。
太郎はどう思っているだろうか。友人へ挨拶するためだけに太郎を放り出したとは思われたくない。様子を窺おうとするも、私の通ってきた隙間は完全に塞がっており、彼の姿は乗客の影に隠れてしまっていた。突然手を解いちゃって不安に思っていないだろうか。……次の駅で私も降りよう。
駅が近付き、鞄を持ち直して下車の姿勢を取る。挨拶をしておこうと隣の女性へ顔を向けると、彼女はすっかり表情を消していた。だが、私の視線に気付いた瞬間、ほんの少しだけ瞳が揺らぐ。咄嗟に彼女の背後を睨みつけた私は、腰のあたりに押し付けられている不自然な手の甲を視認した。
この、しつこい……!
人混みを揺らさないように素早く腕を伸ばし、男物の腕時計に指が届く。しかし、引っ張り上げようと手首を掴み込む寸前、それは勢い良く上へと逃げてしまった。せめて犯人の顔をと、逃げた方を目で追う。すぐに引っ込んでしまうと思っていたその手は、乗客達の頭上に跳ね上がった。
なぜここで挙手なのか、意味が分からない。直後聞こえてきた男の呻き声に、車内の空気が変わった。
電車が減速を始める。呻き声の上がった近くから別の男性の声がした。
「やましいことがないってんなら、暴れんじゃないよ」
静かだが張りのある、反論を許さない調子の声がそう告げる。控えめにざわつく車内で人の壁が揺らぎ、私にも騒ぎの中心が見えるようになった。そこでは皺の無いスーツをかっちりと着こなしている若い男が顔を青くしていて、彼の手首は白髪交じりで中肉中背のおじさんに掴み上げられていた。おじさんが捕まえたんだ! 私は心の中で拍手をした。
若い男はしらばっくれ、困り果てたような声で言う。
「放してくれませんか、目立つだろ。やましいことってなんですか、間違いです」
間違いなわけがない、私はその手と腕時計を見ているんだから。私も見ましたと言うべきか迷ったが、おじさんに若い男を解放する気配はない。犯人の嘘だと分かっているようだ。
「目立つって、あなたが悪いんだろうが」
「だからなんの話ですか。放して……」
「見てんだよこっちは。はっきりさせようじゃない。刑事だよ、俺」
若い男は驚いた顔をしてから、観念したように力を抜いた。
「分かりましたよ……見間違いだかでっちあげだか知らないけど」
まだ認めないのか。面倒そうに溜息をつく様がとても憎たらしい。
それにしても、プロが居合わせてくれるとは。刑事と名乗った彼はドアが開くのを待ち、私達を手で誘ってホームへ降りた。
駆けつけた駅員に刑事が事情を説明しはじめる。私は「ちょっと知り合いが」と断って電車を振り向いた。太郎は車内からようやく吐き出してもらったところで、状況は把握できている風だった。
迎えて歩み寄る私に、彼はしょんぼりとして言う。
「ごめん、俺、何もしなくて」
「大丈夫だから、もう行っていいよ。帰るんでしょ?」
「でも……」
太郎は心配そうな表情を消せずにいる。私の心配をする前に、自分の状況を思い出すべきだ。財布も携帯電話も持たず、袖口からは謎の痣をちらつかせて……事件のついでに職務質問されてもおかしくないぞ。
「大丈夫。刑事さんもいるし、交番からもお巡りさんが来るそうだし。私一人で十分っていうか……太郎がいると――」
私は数メートル後ろの刑事や駅員達を気にして言葉を選んだ。目で訴えると、太郎は無事に自分の怪しさを思い出せたようで、名残惜しそうに小さく右手を振って階段へ向かってくれた。
手首の痣は、初めて見たときよりもかなり薄くなっていた。
些細でも応援の言葉を伝えて、電車の中から見送るはずだったのになあ。私は私を頼ってきた彼の手を払って、見知らぬ人に手を伸ばした。女性を助けた行動は人として正しかったと思うけど、太郎を中途半端に送り出す結果となったことを肯定するには足らない。
駅事務室に向かいながら、隣を歩く女性の不機嫌そうな顔を見る。すらりと背が高いこの女性は涼やかな顔立ちをしており、前髪は顔を隠さないよう自然に分けられている。手に提げたビジネスバッグはシンプルな黒だ。車内で見たときは鞄をブラウスの装飾を痛めない位置で抱えていて、通勤慣れしたクールなOLの感があった。そのときも、私が話しかけるまではこんな表情をしていた。
ただ怒っているようにも見えるが、おそらく違う。くだらない人間に心を傷付けられるのはとてつもない屈辱だ。まんまと傷付いた顔をしてしまうのは、もっと屈辱なんだ。こんな心の隠し方は、先程別れてしまった太郎にも見られたものだった。
時間が戻せたとしても、私は彼女を助けると思う。悪いのは全部犯人だ。
事情聴取はスムーズだった。犯人はホームを離れるなり罪を認めたらしい。車内での強気は周囲からの注目を気にしただけのアピールだったんだな。浅ましい男め。自供のおかげか、警察から私への聞き取りは簡単で、同じ話を何度も繰り返させられるようなことにもならなかった。大した時間がかからなかったのは私としては不幸中の幸いだ。
感謝を伝えきれないとばかりにぺこぺこと頭を下げてくる女性をなんとか宥め、一足先に駅事務室を出る。受け取った遅延証明を確認し、私は気分を通勤モードに切り替えた。
切り替えたというのに、出てきたばかりの駅事務室から声をかけられてしまった。まだ何かございますか!
「や、どうも。お疲れ様です……ああ、すいませんね、止めちゃって」
犯人を捕まえたあの刑事だった。彼は腕時計を確認したのち、手のひらで階段の方を示す。「行きましょう。ホームまでお送りしたいだけですよ」
スラックスのポケットに手を突っ込み私の隣に並んだ彼は、犯人に対していたときとは打って変わって、にこにこした顔とへらへらした声色になっていた。普段はこういうスタイルなのか。
ジャケットの前は開けっぱなしでネクタイも緩く、折り目の薄いスーツからも見た目に頓着しない性質が見て取れる。緩い着こなしは車内と変わらないが、態度には大きなギャップがあった。犯人を捕まえたときの有無を言わせない鋭い感じ、あのよく通るはっきりした声とか、かっこよかったんだが。
言葉通りに隣をついてくるだけの刑事。沈黙が苦手な私は話題を探した。
「えっと……こういうのって、示談が多いんですかね」
あの女性は「反省してほしい」と言っていたが、反省の表し方は指定しなかった。
「ええ。不起訴になれば前科も付きませんし、弁護士も示談を勧めますよ」彼はにこにことしたまま答える。「今日のも被害者が拒否しなければ、恐らく。まあ、仮にあの男が否認しだしても、お咎め無しはありません。故意に触っていたのは明らかですから」
「明らかじゃなかったら?」
「そりゃあ明らかにしたいですね」
「そうじゃなくて、例えば目撃した人がいない場合とか……」
私が食い下がると、刑事はちらりと私を見て「ふうむ」と唸った。その仕草で彼の笑顔が胡散臭く思えてくる。
「故意でないなら、過失です。それも明らかでないなら、『疑わしきは被告人の利益に』とすることになってます」
教科書のような答えだ。もっと実情を感じられるような見解は……軽々しく言えるものじゃないのかな。私は期待が外れたような思いで、ホームの真ん中あたりで立ち止まった。
「ちゃんと証拠を揃えないと、『やってない』と言われて、男の逃げきりですか」
「男が嘘をついてるんだったら、逃げたことになりますね」
矛先の向きを変えたがるような言葉に、私は心の中で苦笑した。
「冤罪の話ですか?」
「おや、知りませんか。不安な男性も多くいますよ、『しまった、女の後ろに立っちまった』なんて」
「でっちあげは別の話でしょう。すり替えじゃないですか?」
滑り込んできた電車が風を起こし空気を振動させる。その間、刑事は穏やかな表情のままで前を見据えていた。眉を寄せた私の視線に気付いているのかいないのか、怯む様子はない。車両が停止しても、私は動かず刑事の言葉を待った。遅延証明は貰っているし、遅刻の連絡もしてある。一本くらいどうってことない。
ドアの開く音を合図に刑事は一時停止を解除した。
「カネ目当てのでっちあげですか、それも問題ですね。まあその話はしてないんで、置いときましょうよ。冤罪ってのは、誰かが誰かを貶めようして起こるばかりじゃないでしょう?」
「え?」
何を言われているのかがすぐに理解できず、私は少しテンパった。ドアからばらばらと出てくる人の流れを目で追って、落ち着きを取り戻そうと試みる。
論点を戻そうとしたつもりだったのに、私が論点を外そうとしたみたいになっている。ええと、何を言われたんだっけ。そう。『冤罪の話はしたけど、カネ目当てのでっちあげに限定したわけじゃないよ』と訂正されたのだ。
整理を終えて口を開こうとした私を、軽快な発車メロディが黙らせた。白目を剥きそうになるのを堪えて、続く発車アナウンスに重ねて言葉を発する。
「犯人を間違えるとか、持ち物に当たったのを勘違いしてとか、ですか?」
「触ったのが故意かどうか、ですよ。我々、ずっとこの話をしてたでしょ?」
人の良さそうな笑顔が、ただの無表情にも見えてきた。「や、申し訳無い。こちらの言葉足らずだったようで」
発車する電車の騒音に、会話は再び一時停止となった。私はその隙に話の内容を振り返る。
確かに、彼が語っていたのは加害者の故意の有無についてのみだ。だけど私は故意であることを前提に加害者の悪意を責めていて、冷静になって考えると、質問という形を取って自分の不満を訴えたいだけだった。
言葉足らずなのは私の方だ。その上、相手の発言を悪い方へ補完していた。「男が嘘をついてるんだったら」と言われたときには『女が嘘をついている可能性もある』と示唆されているように感じ、「不安な男性も多くいますよ」と言われれば『男ばかり責めるな』という典型的な問題のすり替えだと推測した。そうやってずれまくった結果、私は『でっちあげの話にするな』と言ってしまい、『でっちあげの話はしてないですよ』と教えられて混乱したわけだ。
痴漢も示談金目当てのでっちあげも、あってはならない犯罪。どちらの方がより責められるべきかという問題ではない。これは彼にとって言うまでもないことだろう。すり替えじゃないのかだなんて喧嘩腰で言い返した私に、彼は一体どういう印象を持ったことか。
ごめんなさい、こんなことで電車一本遅らせちゃって。頭を抱えそうになる私の隣で、刑事は穏やかに立っていた。
――我々、ずっとこの話をしてたでしょ?
私のずれた言動に、彼はかなり早くから気付いていたのかもしれない。人の波が鎮まったホームで、私は身を小さくした。
「そう、ですね。明らかに怪しい動きでも無い限り、人の心までは見えませんからね……」
二転三転する私の態度にも、刑事は表情を変えない。変わらぬにこにこである。人の心は見えない。この刑事の心は特に見えない。
「ええ。俺が関わる場合、そこは気にしますね。しかし、故意じゃなかったとしても、被害を訴えた女性を責め立てるのは容認できない」刑事は笑みをやや弱めた。「女性が不快や恐怖を感じたことは事実です」
真剣味を帯びた声に、身の引き締まる思いがした。
悪意が否定されても、女性が身体に触れられた事実が無くなるわけではない。
私は痴漢行為を受けた経験が無いつもりだが、手が当たっていて不快だなと思ったことはある。相手が全く気付いていなそうでも、当たっている場所によっては肘でも拳でも少なからず気になる。そんなとき、わざと触っているのかもしれない、状況を利用しているのかもしれないと恐怖を覚えることだってある。
冤罪から身を守るために手の位置や身体の向きに気を付けるという男性は増えているだろうけど、防衛のためではなく、他者への気遣いとしてそうする人はどの程度いるだろうか。
痴漢やでっち上げの問題は、真面目に生きている人達を疑心暗鬼に陥らせている。混雑する電車の窮屈さと疑心暗鬼がストレスを生む。偶然によるトラブルでさえ、誰かが責められなければ収まらなくなる。
余裕が無いのかもしれない。多くの人が周囲を意識し、互いを尊重する余裕を思い出せればいいのに。そうすれば睨み合いのような現状も、少しずつ変わっていくのではないだろうか――。
「いやまあ」
刑事はふわっとした調子に戻って言った。
「痴漢については『疑わしきは被告人の利益に』なんて通用しない場合がまだまだあるんですがね。俺が言うのもなんですが」
そうでしたね。思いやりだけでどうにかなるなら、十年も昔にそうしているよね……。
刑事は頭上の電光掲示板を一瞥してから、笑顔で話を続けた。
「ところで、先程の彼はお知り合いで?」
「はい? なんでですか。知らない人ですよ」
「いえいえ。太郎くんとかおっしゃる」
「え、ああ……」
私が太郎と喋っていたとき刑事は駅員と話していたし、私も少し距離をとったはずなのに。千里眼に、地獄耳か。
私が誤魔化す方針を決定する前に彼は質問を始めた。
「弟さんで?」
「あ、はい。そうです」
肯定してしまった瞬間、甥にしておけばよかったと思う。いや、親戚と言う必要も無い。友達と言えば良かった。通勤電車で手ぶらの友達と一緒というのも不自然か?
「硬派なお名前ですね、太郎くん」
「まあ」
「あなた、百合子さんでしたか。そのお名前はどなたが?」
何故掘り下げてくる。読心術を買えるなら五千円までは払ってもいい気分だ。
「父です」
「はあ、でも太郎くんは?」
「母が、おばあちゃんと決めたそうです」
おじいちゃんにしておけばよかったと思う。いや、本名と言う必要も無い。ニックネームと言えば――いちいち後悔するのはやめにしよう。
「へええ、お母さんとお婆さん。俺のとこもそんなでしたよ」
「はあ、そうですか」
にこにことしてポケットを探る刑事。
「俺、小次郎って言いましてね、ほら」
所属、名前、警察署の住所と電話番号、内線番号。差し出されたのは警察官の名刺だ。所属、住所……私の住んでる地域じゃないか!
不安が大きくなる。太郎の身辺を調べることはないだろう、多分。でもこの刑事、何を考えているのか全く分からない。すごく怪しい。向こうからするとこちらの方が怪しいのかもしれないけど。
あれ。私が不安になる必要、あるだろうか? 警察に言えないような後ろ暗い事情は無い。太郎は成人しているわけで、調べられたとしても特に何か不都合があるわけではない。家出の直後は誰にも急かされない環境が必要だったが、今は自ら実家に戻ってみているところだ。そうだな……問題になる可能性があるとすれば、太郎が実は十八歳未満だったなんていう場合くらいか。
また両手をポケットに仕舞い、刑事は言う。
「その内線、俺が居なくても誰かが出ます。そんで伝言も頼めますんで、お困りの際はどうぞご相談ください。もちろん、緊急時はひゃくとおばん、でしょうが」
「はあ」
「あなた、百合子さん。しばしば警察に協力してくれてますよね?」
「はあ?」
「いやあ、交番のお巡りさん達、あなたに何度もお世話になってますでしょう? 正義感が強くて優しい方だ、噂通り」
「はあ!」
「その性格がトラブルを呼び込むんですかねえ。まあ、お巡りさんに任せづらいことがあればその内線に。お節介ですけども……おや」
トンネルの奥を覗くような仕草をした刑事は改まって礼を言い、にこやかに去っていく。
刑事と入れ替わるように電車が到着し、私は慌てて開いた口を塞いだ。
今日は、今年に入って最も疲れている日かもしれない。
お昼休みの時点で机に突っ伏したくなったが、美春に何もかも話したい気持ちには負けた。太郎の回復傾向に、今日が彼のターニングポイントになりそうなこと。そんな彼を激励するタイミングを痴漢騒ぎに潰されたこと。私が地元の警察署で何人かのお巡りさんと一人の刑事に記憶されていること。何もかもだ。
二人でコンビニのお弁当を食べながら、私はそれらを報告した。相槌を打ち慰めの言葉をくれていた美春は、初対面の刑事に名前を知られていた話のときには同情するふりも忘れて大笑いしていた。予想以上に笑われてびっくりするのは、美春との付き合いではよくあることだ。
過呼吸の一歩手前で「逆指名手配……」と意味の分からないことを呻いた美春は、しばらくの沈黙をもって澄まし顔を作った。
「百合子が名誉区民な話は置いといて」
「名誉区民なんて言ってない」
すかさず訂正を入れると、美春はしゃっくりのような音を鳴らし、上がった口角を咳払いで下げる。自分で言ったくせにツボに入りかけたようだ。
「別れ際がドタバタになっちゃったのは残念だけど、太郎くんが落ち着いた様子だったのが確認できたのはよかったね」
私は神妙に頷く。太郎は私の心配こそすれ、取り乱した様子は無かった。
「でも、あれが最後になるんだろうと思うとすっきりしないんだよ」
「心配なら電話番号でも教えとけば……あ、教えてる?」
「でんわ……」
数秒見つめ合った後、美春はにこっと笑う。癒された。
「こないだの絵の表情、どきっとしたなあ」
「そ、そうかな?」
あからさまな話題の切り替えに私は乗った。今更どうしようもない過去の出来事を悔いて止まない面倒な私には、他の話題で気を逸らしつつ、時が経つのを待つことが有効である。『気にするな』を様々な表現で言い続けるという方法もあるが、本件には最適でないと判断したようだ。彼女のマネジメントはいつも正しい。
こないだの絵、とは、思い詰めていた太郎の暗いオーラが影響してしまったイラストのことだ。男の子は甘酸っぱいばかりの片想いをしているはずだったのだが、ラフを下書きにした段階で、気付かない内に表情に暗さが混じってしまったという曰く付きの絵。しかし改めて見るとその表情は中々に魅力的で、絵の設定が表情に沿って変更される結果となった。私はこの変化を歓迎していたのだが――。
「掲示板では『表情が中途半端で分かりにくい』って言われた」
あの絵は色塗りまで終わらせて、イラストのSNSと自分のサイト、そして絵の評価をしあう掲示板に投稿した。美春という先生がいるため、技術面の指摘は細かい部分だけなのだが、表現については多様な感想がある。
美春は首を傾げて言った。
「そんなに不評だったの?」
「ううん……そう言ってたのは一人」
「そうだよね。中途半端にしか描けてないわけじゃないし、その人には感情の想像が付かなかったってだけでしょ」
「想像が付かなかったのは、絵の雰囲気作りに不足があったとも考えられるかなあと……」
「その評価を気にしたら……自分の理想に近付ける?」
あ、まただ。これを言われるのが何度目になるかは数えきれない。
「理想に近付くため、より良い評価を目指しての心がけならいいと思うけど――」気にしないことを選べない私に、美春は何度でも言ってくれる。「もし悪い評価をゼロにしたいと思うなら、投稿を辞めるしかないよ」
感情を伝えるためには、受け手に相応の感受性が必要になる。人の感受性は十人十色で、その差は単なる強弱だけではない。どんなに繊細な表現をしようとも、どんなに単純な表現をしようとも、個性豊かな感受性の全てには対応できないのだろう。
どんな層の需要に対応するのかを含めた自分の理想を前提に置いて、その理想へ近付くために有効な意見を取り入れていく。その取捨選択が大切で、それができないのなら、投稿する度に自分の理想を削り落としていくばかりになってしまう。
誰とは言わないが、自分の表現に絶対の自信を持ち、感性による意見の違いはばっさりと切り捨てられる人もいる。やりたいことの部分を否定する意見は不要、という人だ。誰とは言わないが、お隣さんはクリエイターの多くが羨むメンタルを持っているのかもしれない。
「百合子は絵の中の人に魂を込めるのが上手だよ。小手先の技術ばっかの私より」
だから百合子の描くキャラクターを、もっと、ずっと、見せてほしい。
打たれ弱すぎる私が掲示板への投稿を続けていられるのは美春のおかげだ。避けようのないマイナスの評価に気を取られて立ち止まりそうになっても、そのまま進んでいいんだと言い聞かせてくれる。鬱陶しそうな素振りなんて見せず、何度でも。彼女は人の気持ちを浮上させる才能を持っている。
義務感だけであちこちに気を使う私とは根本的に違っているのだ。重たい悩みや迷いの中にいる人に必要とされるべきは、彼女のような思いやりのある人間だと思う。
彼女なら、うまく事情を聞き出したり心の整理を促したりできて、器用に相手を落ち着かせられるのだろう。会ったこともない人を優先させて繋いだ手を離すこともなく、連絡先も忘れず伝えておく。
じゃあ、彼女が私の立場にいるとして、その日の内に太郎と再会した場合はなんと声をかけるだろう。右のこめかみを血で汚していて、なのに憑き物が落ちたかのような穏やかさで佇んでいたら。
私は「おかえり」と言って、笑顔で彼を迎えた。私にできる精一杯の思いやりだ。