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02

 日本庭園を始め、英国式やフランス式の庭園を擁するこの広大な公園は、青い空がよく似合う。南中を目指す太陽に恐れをなした観光客達が木立から離れられないでいる一方、残り少ない夏休みを満喫する子供達は直射日光を浴びながら広場を走り回っている。思うに、子供の皮膚はソーラーパネルなのだ。

 そんな憩いの場で、私はデジカメと女の子を携え、鮮やかな庭園の写真を撮影して回っていた。有閑マダムの優雅なお散歩ではない。必要であれば日向に飛び込まなければならないし、デジカメは会社の備品で、女の子は会社の先輩。これはお仕事である。

 正午を過ぎて昼食のために敷地内のカフェを訪れ、私はネットブックをテーブルに乗せた。会社の先輩、美春がカメラのメモリーカードを差し込み、撮影した写真を確認しはじめる。

 私は週に一度、火曜日だけ、背景美術の小さな会社に出勤している。アニメやゲーム等で使われる背景を作っている会社だ。かつてこの会社が大きな案件を受注しようとした際に人手の不安が起こり、美春に誘われて臨時雇用に応募したのが始まりだった。案件が落ち着いた頃に私はお役御免と思いきや、人が良いからとかここで技術を磨けばいいとか引き止められ、結局は使い勝手の良い雑用係、または補欠要員として契約が続いていた。

 今日の仕事は資料用の写真撮影で、美春のチェックを受けながら庭園の遠景やベンチなどの設備を撮影した。資料用といっても庭園の構成や雰囲気を知るためのもので、ここで撮影した写真を基に背景が描かれる予定はない。設備を撮影したのは、経験の少ない私にカメラ捌きを身に付けさせるためで、今回の主目的でもある。うちは教育熱心な会社だ。

 応用の利く資料になるよう気を使っていると、それだけで観察力も養われる。本業として個人でイラストレーターをしている私にとってもためになる作業だ。今日の写真は美春の評価も上々で、次は彼女の監督なしで出掛けられるかもしれない。楽しみでもあり、不安でもあり。

 美春は大雑把な確認を終えて、運ばれてきたハヤシライスのためにネットブックを追いやった。仕事は中断、休憩の間の私達はただの友人同士になる。

「ああ、かなり降ってたねえ。あれじゃあ、ほっとくのは無理だったかあ」

「無理だったよ……」

 昨夜の出来事を語る私に、美春は慰めるように添え物の人参を私のプレートに乗せた。人参が私の好物だと言った覚えはないし、そもそも好物じゃない。

 昔から事ある毎に私の愚痴を聞かされてきた美春は慣れたものだから、私が「絶望の具現化のような人影を見つけちゃって」と切り出した時点でその後の展望を察し、スムーズに同情をくれる用意をしていたことと思う。だが、私の話が進むにつれ、ハヤシライスをつつく美春の手は固まっていった。

「本当に野宿するしかないみたいだったから……うちに」

 ついに美春はスプーンを置き、オレンジジュースを一口飲んで、より冷静になった上で言った。

「お人好し!」

「仕方ないの!」

「でも……うーん。百合子ならそうなるかなあ、仕方ないのかなあ……」

 美春は納得したような、納得したくないような顔でハヤシライスの消費を再開する。

 私の人助け病を彼女は知っている。同級生がいじめられていると気付いたが手を出せず、そのせいで身体のむずむずが起こって夜通しのたうちまわったという一件で、その同級生というのが中学生時代の美春なのだ。そのいじめにはなんの理由も無かったので、私が一緒に行動するようになると嫌がらせは無くなった。よく話すようになってから私達の趣味が合っていると判明し、大人になって互いに上京してからも仲良くやっているわけだ。

 家族よりも互いを分かっていると言っていい関係。絵を描くようになったのも、絵が好きで美術が得意だった美春に影響されたからである。

「少なくとも悪人ではないって思ったからそうしたんだよね?」

「むしろ私が疑われてたって感じ。朝には警戒も解けてたけど」

 今朝、私が起きた時に太郎はまだ眠っていた。ふてぶてしいようでもあった目からは力が抜け、熟睡する様子はあどけなく見えた。起きてきた彼は陽の光のおかげかもしれないが顔色も良くなっていて、トーストをあっという間に食べきってしまったのは流石男の子といったところ。生気を感じる姿を見て、昨日は本当に弱りきっていたんだなあと再確認させられた。

「それで? ちょっと元気になった不幸太郎くんは帰ったの?」

「さあ。帰るなら電車賃に、帰れないなら昼食代にって五百円あげた」

 私が家を出るときに太郎も外に出し、大体の帰宅時間も伝えたが、彼はうんともすんとも言わないまま私を見送った。

「じゃあ帰れなかったって言われたらまた泊めてあげるわけ」

「そうなったら皿洗いくらいさせようかな」

「泊めるのね……心配だけどなあ」

 分かるさ。美春が同じことをしていたなら、私は絶対に考え直させる。しかしそうすることで美春が私のように体調を崩すとなれば、「心配だけどなあ」と注意を促すしかできないだろう。

 美春の心配を理解する一方、太郎の様子を直に見た上ですっかり開き直っている私は、もう何泊かさせてもいいと思っている。乗りかかった(乗るしかなかった)船、面倒臭くなったからさよならとはいかない。私だって強迫的な義務感に追われるばかりでなく、太郎の悲壮を和らげてあげたいと願う気持ちにもなれるのだ。

 私より先にハヤシライスを食べ終えた美春が、「このラフ、アナログ?」と尋ねながらネットブックの画面をこちらに向けた。

 げっ。

「うん……それはラフのラフだ」

 ラフは絵の工程のひとつで、下書きの下書きみたいなものだ。これはその更に下書き。気の向くままに紙にラフを描くと必ずごちゃごちゃとして無意味な線ばかりになってしまうため、スキャンしてからパソコンで整えようと思っていたものだ。

 私のパソコンでスキャンしたものは、ネットブックや美春のパソコンと共有している、オンラインのフォルダに入る設定になっている。これはその消し忘れだろう。いつもはほんのちょっと見栄を張って、共有フォルダに残すのはパソコンで整えた方だけ。それを第一段階のラフに見せかけているのだ。

 それを知って美春は「私は毎回、キャンバスを金ダワシで埋めたみたいなラフ見せてるじゃん」と、ころころ笑った。

 そういう問題じゃないんだ。同じ密度のごちゃごちゃでも、美春の方には私のとは比べ物にならないくらい情報が詰まっている。恥じる私に対し、美春はラフの存在意義や活用の可能性を語り始めた。これは姿勢を正して拝聴せねばなるまい。

 美春は私の先生で、切磋琢磨しあう相方。互いが互いのファンでもある。私達は絵の話をしているときが最も盛り上がる。昼休みの終わるギリギリまで、ラフ論議にキリを付けることはできなかった。


 階段を上がりきるまでに心の準備をしたつもりでも、二階の廊下の突き当り、自室の玄関扉の脇に座り込む男を見たらば溜息は抑えられない。服装に変化なし、手に持ったオーバーシャツもそのまま。帰宅は試みなかった模様。

「起きてる?」

 太郎はびくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。どこでも眠れるのか。羨ましい。

「おかえり……」

「ただいま。いつからいたの? お隣さんがびっくりしちゃうでしょ?」

「びっくりされた」と太郎。遅かったか。次いで「でも俺もびっくりした」とのこと。

 だから何。あっちもびっくりこっちもびっくりで、お互い様にできると思ったら大間違いだぞ。第一、太郎はお隣さんが現れることくらい容易に想像できたはずだ。対して、お隣さんが廊下に座り込む人影を予測するのは無理な話。判例こそ無いが、過失割合は十対〇だ。

 玄関の鍵を開けてドアノブを掴むと、太郎がもごもご言いながら立ち上がった。

「何?」

「汚いから、その、あんまり……」

「何が?」

 私の部屋が? まさか。自分の身なりを棚に上げて何を言う。

「俺が……」

 そうね。正しい理解だ。だって太郎は――。

「……そっか!」

 私は気が付いた。そういえば太郎くん、風呂に入っていない。それは良くない。だったら私が風呂を貸さなきゃならないのか? 出会って二日目の他人に? じゃあ私はどの風呂に入るんだ。銭湯か。いや、太郎が銭湯に行けばいいじゃないか。でも、太郎の身体には刺青よりも不審を抱かせる模様が入っているんだった。

 掴みっぱなしのドアノブを睨んで悩んでいると、太郎が右手の拳を差し出してきた。手首の痣が目に入る。

「泊めてくれてありがとう。残りはいつか返すから」

 彼は滑らかに告げて私の手のひらを開かせ、そこにコンビニのレシートといくらかの硬貨を落とした。硬貨は温くなっている。ずっと握っていたのだろうか、ここで渡して去るために。

 はっとして振り返ると、彼の背中は短い廊下の半ばを過ぎ、階段へ向かっていた。

 ――もう大丈夫なの?

 家に帰ると決めた様子ではなかった。昼食のお釣りを返してしまって、夕食はどうするつもりなのか。お金も身分証も無いのに、どこへ行くつもりなのだろう。今夜はどこで寝るのか。風呂はどうする気でいるのだ。

 予想外の展開だった。私は引き止めなくていいのだろうか。彼の気力はそれなりに回復していたようだが――。

 もし疲れを溜めて戻ってきたり、雨の日に野宿しているのを見かけたりしたらまた泊めてあげる、それでいいのか。これ以上は本当にお節介なのかもしれない。痩せていて頼りないけれど、彼も未成年ではなく、大人だ。

 彼は大人だけれど、今にも崩れてしまいそうに危うく見える。無理をしているように見える。

 胸の血流が狂ったような寒気によろめき、壁に手をつく。太郎の姿はもう見えず、存在を感じさせるのは階段を下る遠い足音だけ。何もしなければ後悔する。苦痛に襲われるのが怖い。怖いだけじゃなくて、太郎の悲壮を和らげてあげたいと願う気持ちにも、なってしまっているのだ。

 私は足を踏ん張った。息を吸い込む。そして――。

「あ……?」

 階段を駆け上がってくる慌ただしい足音に、私の勢いはしゅるんと萎んだ。

 十数秒の別れを経て再会した太郎は、早足で私にずんずんと近付いてきたかと思うと背後に回り、もごもご気味の声で「いぬ」と囁いた。直後、階段から姿を現す犬。

「おかえり、百合子ちゃん。男の子も、まだ居たんだね」

 喋ったのは犬でも太郎でもなく、犬と共にこちらへ向かってきた派手な髪色の男性だ。彼は私のお隣さん。薄着を好んでいるらしく上半身はノースリーブのTシャツ一枚だが、靴だけは年中しっかりした作りのミドルブーツを履いているので、暑がりではないと思う。割と特殊なキャラクターを持っている人である。ともあれ私が居ない間に太郎をびっくりさせたのは、この男性ではなく犬だったようだ。太郎は後ずさりで壁に背中をめり込ませようとしている。

 中型の白いミックス犬、ロックは私の脚に頭突きした後で桃色の舌をぺろっと垂らす。その舌は何のアピールだい? ご主人様の頭髪とおそろいだって言いたいのなら同意はできない。ロックの舌の色は可愛らしい桃色だが、飼い主の髪の色は蛍光のピンク色。夕焼けに淡くなる景色の中でも輝いていて、サイリウムによく似ている。

「髪の色、今度は明るくしたんですね」

 ロックを撫でてやりながら飼い主に声をかける。先週見かけたときまではモスグリーンだった。

「今書いてる曲がテクノ系でさあ」と誇らしげな蛍光ピンク。「髪の色を合わせるとモチベ上がるんだよね」

 テクノ系って、電子音がピコピコ鳴るようなやつだっけ。じゃあモスグリーンの頃はどんなジャンルのモチベが上がっていたんだろう?

 私は「すごぉい」と軽薄な返事をしつつ、ロックが太郎に突進したがるのを制する。飼い主が大人しくするよう言ってくれれば助かるんだけど、期待はできない。

「太郎、怖いなら早く入りなよ。鍵開いてるから」

「いや、それは……」

「お風呂のことは後で考えればいいじゃん」

「よくない……」

 押し問答を覚悟したそのとき。

「えっと、なんか困ってんの?」

 お隣さんの蛍光ピンクが煌めいた。


 太郎が持って帰ってきたゴミ袋には、何着かの古着が入っていた。彼が現在身に着けているスウェットの上下を含め、お隣さんからの愛の手である。そして買ってきたばかりの下着と旅行用の洗面セットを放り込んで加え、太郎のお泊りバッグが完成。彼が隣でシャワーを借りている間に買い物に行ったのだが、レジに男性用下着を持っていくのは謎の緊張を伴わなければならなかった。

 立ち入り許可範囲を一気に拡大して居間に入ることを許し、賑やかしにテレビを点ける。太郎はおずおずとラグの隅っこに乗り、テレビの画面に視線を留めた。

 今日の夕食は肉まんだ。一袋五個入りの冷凍肉まんを大皿に出してレンジで温めながら、気になっていたことを訊いてみる。

「犬、苦手なの?」

「吠える」と、彼。小さい声だ。「小さい頃からよく吠えられる」

「ああ、声が怖いのね」

 幼少期からの経験によって刷り込まれた恐怖感は、その後の経験によっていくらかは克服できる。でも、完全に忘れられるわけではない。

「別に……怖いってほどじゃないけど」

 その補足が本当かどうかは考えないでおいてあげよう。

「ロックは吠えないよ」電子レンジが温め終了のメロディを鳴らし、私は立ち上がる。「声帯取られてるから」

 肉まんは湯気を上げ、皮の甘みを香らせた。大皿をテーブルに置き、二つずつ取り皿に乗せる。熱々だ。

 お先にどうぞと促すと、太郎は静かに食べはじめた。平気な顔でもぐもぐとやってくれるので温めにムラがあるのかと不安になる。欠けた部分からほわっと上がる蒸気を見つけてその不安は解消されるも、今度は太郎の感覚器官が心配になってきた。猫舌の私からすると、熱いものにぱくつく様子は見ているだけでひりひりする。

 少し間があり、太郎はロックの声帯除去の理由についてを尋ねてきた。

 理由。それはロックの元気な声が飼い主にとって邪魔な存在だったからだ。

「音楽関係の仕事だから、ヘッドホンしてても聞こえる声は集中が途切れて困るって」

 随分前に聞いた情報と変わりなければ、彼は音楽家で、作曲や楽器演奏を人生の主題としている。主な収入源はカラオケや着メロを作るアルバイト。外での仕事もそれなりにあるらしい。

 彼の音楽関係の知人がロックの元の飼い主だったが、その知人は経済的に困窮し、ロックを保健所に引き渡そうとした。それを可哀想に思ってロックを引き取り、一人と一匹でペット可であるこのマンションに引っ越してきたのが三年くらい前。私はその数ヶ月後にロックの変化に気付き、彼は手術の話を教えてくれた。手術を引き受ける病院が見つからないと悩んでいたが、誰かがペット関連の職業人を紹介してくれたらしい。その人が病院を世話してくれたため、悩みは無事解消された、と。

 説明を終え、「そんな飼い主でもロックにとっては大好きなご主人みたいだけど」と付け加えて、私は肉まんに手を伸ばした。

 太郎はテレビに視線を留めたまま、「そう」と言って二つ目の肉まんを手に取った。

 既に一つ目を食べ終わっていやがる……やはり早い。一口の大きさは普通に見えるが、次の一口までのインターバルが短いのだ。視線はテレビに向き、ぱく、もぐもぐ、ぱく、もぐもぐ。私は大皿に残っていた一つを太郎の皿に乗せ換えた。

 テレビは小さめの音量で野球のナイターを流している。

 隣人は奔放な性格をしている。機嫌が良いときはにこにこしていて、機嫌が悪かったらむすっとしている。

 思っていることは遠慮無く口に出す。言いづらいことは存在しない。会ったその日に「人助けしないと苦しいって、損な性格。哀れっぽいね」と言ってくれるくらい。困っていた彼を助けたその日、私の家に場所を移し、残る複数の懸案事項について相談を受けているそのときにである。私が『損な性格』で『哀れっぽい』のは事実だろうから構わないが、劣等感を刺激するような言葉を投げられた人は他にもいるんだろうなと思い、見知らぬ被害者に同情した。

 思いやりという言葉を知らない彼だが、私に助けられたことは恩に感じているらしい。先程のように困っていないかと尋ねてくれたり、できる範囲で親切にしてくれたりする。

 殺されるかもしれない犬を急遽引き取り、飼育の準備もままならないまま、住んでいたアパートに入れなくなった音楽家。犬を連れての不動産巡りの途中、糞の処理ができず困っていた彼を見かけてコンビニ袋を渡したのが私。音楽家と犬の生活における必要条件を満たすペット可防音物件(つまり私の隣の部屋)を紹介し、給水器やペット用のホットカーペットをあげたのも私。その頃の私は飼い猫のペットロスのショックから立ち直ろうとしていた時期にいて、彼らの新生活の手助けをするにやぶさかでなかった。

 手術の事実を明かした彼の表情に後ろめたさはなかった。犬が声を発する自由なんて、彼にとっては尊重するに値しない小さなものだったのだろう。そのとき、私は純粋な価値観の違いというものを理解した。

 やりたいことをやってる。出会った頃の世間話の中で、彼は自分の音楽についてそう言っていた。なんらかの責任を負うシーンでない限り、需要なんてのはどうでもいい。自分の音楽は自分のセンスのみによるものであり、他者からの承認は必要としていない。純粋に好いてくれる人の期待に応えたいという気持ちは存在しても、それは作品に影響しない。

 音楽活動に対する彼の姿勢は一貫していると思う。しかし私は、彼が『承認は必要ない』と言いつつも、その実『承認を得られない現実を認めたくない』のではなかろうかと疑ってしまう。自分に都合の悪い声にだけ、聞こえないふりをしているのでは、と。

 このように、手術のことを知って以降、私は彼を正しく評価できない。もしも彼が自分への評価に一喜一憂し、賛否を問わず批評に耳を傾けているとすればどうだろうか。それでも私は後ろ向きな疑いを持とうとするはずだ。

 理屈を付けると複雑だが、感情で言えば簡単である。私はペットに対する彼の価値観が嫌いだ。それに引きずられるようにして、彼の他の部分を認めたくなくなった。

 だから、勝手なことだが、声帯切除の理由を聞いた太郎の反応が期待外れだったのだ。『大した話じゃなかった』といった様子の「そう」が、気に入らなかったのだ。

 ちびちびと齧っていた肉まんは程良く熱を逃していて、私は一口を大きくした。


「自分の洗濯物はコインランドリーで。シャワーは私より後。入った後は風呂掃除」

 太郎がお隣さんにお世話になっている間に、私はこれらの妥協点を見出しておいた。居間への立ち入り許可に続き、風呂場を解禁したのである。この変わり身には太郎もびっくり、そしてもごもご。「そこまで……流石に…………」と目を泳がせる。

 私は空いた皿とゴミをまとめながら、現状を整理して伝えた。

「細かくは言いづらいみたいだから想像するしかないけど、話し合いの用意も無いまま帰れるとは思えないな。でも野宿なんて、ご飯はどうするの。おうちに帰らないで自活するにしたって今すぐ生活は始められないよね」

「それとこれとは……」

「遠慮はいいの。私は困ってる人を放っておいちゃいけないってことになってるから」

 強引に言うと、太郎は真意を窺うように視線だけを私に向けた。睨み上げたのではないと思う。「大人の事情?」と訊く声は、諦めを含んでいる。

 私は頷いた。素晴らしい、その通り。単なる自己犠牲の精神で引き止めているわけではないのだ。負い目を感じる必要は無いと理解してくれると助かる。もうちょっと偉そうにしてくれたっていい。私は「私が言ったこと、よく覚えてたね」と感心してみせる。

「隣の人が言ってた」と太郎。どんな悪口を聞いたんだんだろう。黙って促すと、彼は続けた。「大人の事情っていうのは、困ってる人をほっとくと具合が悪くなる性格のことだって。あと……」

『あと、損な性格で哀れっぽい、って?』と引き取りたくなる衝動をぐっと堪える。

「そういう性質があるから世話を焼いてくれるんだけど、心配症で優しい人でもあるから、あまり心配させないように……って」

 なんと、まるで私が良い人みたいだ。本当にお隣さんがそう言ったのか。確かにお隣さんの転居問題に関わったときの私は、可愛いロックのためもあり、より親身になって接していた自覚はあるが……。

 私はなんだかこそばゆい気持ちになって、私の性格の実際のところを語った。

 この面倒な性格の概要。困っている人を放置したときの罪悪感の現れ方。強迫感と義務感が強いせいで、そこに善意や心配があるかは定かでないこと。

 間が悪ければ『困ってんじゃねえよ!』とまで思うと自虐風に言ってしまった後で、口を滑らせたことに気付いた。持ち上げられすぎている気がして落としにかかったけれど、嫌味を言っていると思われるのは本意ではない。

「いやいや、今のは話を盛りすぎたけど。太郎にそう思ったわけじゃ」

 冗談っぽく付け加える。しかし太郎は申し訳なさそうな表情を微かに浮かべてしまう。明らかな後付けを鵜呑みにするほど馬鹿じゃない。私はすぐさま背筋を伸ばした。

「訂正する。心の中で八つ当たりしちゃうときがあるのは本当。でも本心から責めてるわけじゃなくて、やり場の無いイライラをちょっと解消したいっていうか……太郎を責めてるみたいに聞こえたよね、ごめんね」

 彼は聞きながら表情を少しずつ困り顔に移ろわせ、考えるような間を取った。そして言う。

「別に……どっちにしても謝ることじゃない」

 この太郎、良い子である。訂正と謝罪を受け入れてくれたどころか、私のフォローまでしてくれた。

 配慮の無い発言は反省すべきだ。心の中で八つ当たりするのが事実だとしても、相手の気分を害することなら言わない方がいい。『自分を偽らない』という聞こえの良い言葉はあるが、相手の感情に配慮しない言い訳に使うものではない。相手との距離感を意識した上でなら、『自分を偽らない』気軽さもあっていいだろう。その意識があれば、先程と同じ内容の話をしたとして、私の言葉のニュアンスも太郎の反応も、それぞれ違うものになっていたはずだ。

 反省すべきもう一つは、私の失言に動揺した彼を、手っ取り早く嘘で丸め込もうとしたこと。今回の失敗は大きな問題になる前に取り返せたが、こういうところで得意の開き直りを続けていては、次こそ彼を深く傷付けてしまうかもしれない。

 私はこれまで、彼と自分の立場に高低を付けていたのではないか?

 寝床や食事を提供している側ではあるが、これは太郎に頼まれたからではなく、自分に強制されてやっているだけのお節介の結果。立場の違いはあるが、偉そうな態度をとっていい理由は無い。対等であるどころか、太郎は虐待から逃げてきたところなんだ。私の方から気を使って、太郎を緊張させないようにするのが普通の行動じゃないか。

 それがどうだ。なんか嫌だから立ち入り禁止とか、泊めてやってるんだから皿洗いくらいさせようかとか……。

 じわじわとダメージを受け、私は呻く。太郎が心配そうな顔を向けてくれたので、今度は誤解を招かないよう、言葉を選びながら自分なりに反省した内容を伝える。太郎は黙って聞いていた。私は独白気味に言いながら、彼の顔を見られない。緊張と、恥のせい。

「上から目線っていうか……自分は手を貸してやってる側だ、みたいな視点はあったかな」

 言い終えて太郎の様子を窺う。彼は表情を鎮めて私を見ていた。

「でも助けてくれた」

 芯のある声で彼は言う。

「俺は嬉しかった」

 彼の表情は喜怒哀楽のどれにも類わない、真摯なものだった。

 私は不意を突かれたような気分になってしまい、何と返せばいいのかが分からない。

「……どう、いたしまして」

 浅い思考が選んだ言葉でとりあえずの返事を済ませたとき、環境音と化していたテレビの音が雰囲気を変えた。ついテレビに視線を移すと、太郎も追うように目を向ける。野球中継が途切れ、明るい調子のCMが始まっていた。

 時刻は午後九時の五分前。野球は時間内に終わらなかったのかな。一旦テレビに気を取られたおかげか、食卓回りの雰囲気にも区切りが付いたようだ。太郎もそう感じたのだろうか、肉まんを食べていたときのように、ぼーっとした顔でテレビを見ている。

 食事の後は片付け、それから入浴。自分の習慣を思い出したところで、私はまとめた皿を持って「そろそろお風呂に」と立ち上がった。すると、はっとした様子で太郎も立ち上がる。

 私はそれを制した。

「もう外で待ってろとは言わないよ。先にこれ洗っちゃうから、トイレ行くなら今の内にね」

「じゃあ、皿洗う……台所に入っていいなら」

 太郎がぼそぼそと申し出た。

「え、好きに使っていいけど、気を使わなくていいってば。テレビ見てなよ」

「……自分の方が気を使ってるくせに」

「そんなことは……でも申し訳ないし」

「邪魔者扱いされてるわけじゃないって分かってほっとしてたけど」太郎は不満そうな顔を見せる。「腫れ物に触るみたいな扱いも嫌だ」

 突然やる気を出しはじめた太郎に困惑する私。迷惑だなんてこともないけど、存分にくつろいでいてもらう方が安心ではある。決めかねていると、太郎に皿を取り上げられてしまった。

 彼は意志の強さを見せつけるかのように一歩下がって、私から距離を取る。

「……優しくするのは得意なくせに、優しくされると疑うんだよね」

 う、疑うだなんて。

 突然やる気を出したかと思えば心理分析をしはじめる彼に、私の頭は追い付かない。それより、皿洗いの申し出は私への引け目じゃなくて優しさだったのか。

 太郎のもごもごが消えたと思っていたら、今度は私にもごもごが現れてしまう。

「あの、信じてないとかじゃなくて、ただ、遠慮して気を使ってるならと思って……」

 しどろもどろになりながら説明する私を見て、彼は口元をひくりとさせた。

「疑うってやつ、お隣さんが言ってたことだよ。結構当たってるな」

 私はぽかんと口を開けてしまう。

 お隣さん……他人に興味は無いみたいなこと言っておきながら、ちゃっかり性格の推察までしていたとは。自分以外は全て背景と思っていそうだったんだけど。いや、私が面食らったのはお隣さんの意外な一面に対してではなく――。

 太郎はいたずらっこのようににやりとして、小さく首を傾げた。

「だから百合子ちゃんは友達がいない、ってのも当たってる?」

「はあ!」

 あの蛍光ピンク、やっぱり悪口も言ってたんじゃないか!

「当たってないです。それはでたらめ。もう、着替えの用意するから向こう行っちゃって」

 わざとらしく拗ねてみせながら、私は内心楽しさを感じていた。

 太郎の笑顔を見たのは初めてだった。


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