01
困っている人を見つけると、放っておけない。これは間違いなく母の影響だ。お年寄りに座席を譲るとか、迷子がいたら声をかけるとか、彼女はそういう人助けに躊躇しなかった。そんな母から「思いやりを持ちなさい」と教えられ、私は母の振る舞いを真似てきた。その結果、二十代半ばの今に至るまで、私には『優しい子』という評判が張り付いている。
結論から言って、人に優しくする人が優しい心の持ち主とは限らない。私が困っている人を助けるのは、母の行動を見続けるうちに人助けが義務のようなものとして頭に刻み込まれてしまったからであって、同情や思いやりによるものではないのだから。
疲れきって辿り着いた電車のシートは、空席を探しているおばあさんが現れた途端、濡れたダンボールを積み重ねたもののような不快な感触に変わる。私の方が疲れているはずだなんて言い訳をしたところで、居心地の悪さを拭うためには笑顔でシートを譲るしかない。
気付きたくない見つけたくないと思いつつも、泣き声や困り顔は私の意識を引き付ける。背景と同化していた群衆の中、それは私の意識の焦点を引きずり込み、ひとりの人物として認識させてしまうのだ。するともう私は逃げられなくなり、迷える子羊に向けて叫ぶ。「私の近くで困ってんじゃねえよ!」と、心の中で。
私が強迫的な人助けの習慣を憎んでいようとも、困難に立ち往生する人間は悪気もなく私の前に現れてくれる。困難の種類は様々だが、今しがた視界に入ってしまった人物は、特に大きな困難を匂わせていた。真に優しい心の持ち主でも、これに触れるには覚悟が必要だろう。
誰もいない世界で生きるのは不可能だ。それでも私は誰かの困難を発見してしまわないように外出を避け、外出するにしても人気(ひとけ)の無い時間や道を選んでいる。特にコンビニへの近道となるこの公園は、夜中に人が居たことなど無い安全地帯。だったのに。
八月下旬、夜は涼しいと思える日も増えてきた。時刻は既に二十二時を回っている。
公園の片隅にある滑り台の下で、その人物は体育座りをして頭を膝に埋(うず)めた姿勢で気配を消していた。ダークグレーの半袖のTシャツに、濃紺のスウェットパンツ。男性のようだが、袖口から伸びる腕は細く、体格は頼りない。成長途中の未成年のようでもあるし、不健康な成人にも見える。
気配を消していると感じたとおり、夜闇と滑り台と服の色の全てを味方に付けた彼の存在感は薄かった。ベンチの脇に放置されているサッカーボールに近い。着ているTシャツが長袖だったら水筒程度になっていただろう。公園を横切りたいだけの通行人なら、その半分は彼に気付かないまま通り過ぎることと思われる。私は残り半分の気付く方で、公園の入口で足が動かなくなっているところだ。
気付いてしまえば非常事態だ。助けを望んでいるかは不明だが、どう見ても幸福の絶頂といった雰囲気ではない。変質者とは思えないが、健全な若者とも思えない。不良と言うには精彩を欠きすぎている。
家出、だろうか。例えば、厳しい父親に成績のことで責められて――。
『太郎、夏期講習の成果はどうだったんだ』
父の声に凍りつく太郎。母が対面式のキッチンから心配そうにこちらを窺っている。
『……それなりだったかと、思います』
『俺が何も知らんと思っているようだな。T大法学部のB判定が、それなりだと?』
声を低くする父。母が恐る恐るといった様子で声をかけた。
『お父さん、もう食事が出来ますから。ひとまず――』
『黙っていろ、百合子! そうやって太郎を甘やかしているからこうなる……叱らないことが愛情だと思っているのか!』
母は黙り込み、目を潤ませる。太郎の頭の中で何かが切れる音がした。
『……母さん。僕は母さんの愛情を疑ってないよ』太郎は父を睨んだ。『だけどもう、限界だ』
椅子を蹴倒して玄関へ走る太郎の脳裏には、何年も感じることのなかった爽快感と、母の涙を見た強烈な罪悪感がめまぐるしく行き交っていた――――。
とか、あり得るんじゃないかな。ちなみに百合子は私の名だ。だが、太郎不良説も十分に生きている。『あのクソババア締め出しやがって。金盗んだくらいでよォ』の結果だとすれば太郎はたちまち危険人物だ。私のようなインドア派はどんな目に遭うか分からない。「あのう、大丈夫ですか」と声をかけたが最後、財布を奪われて宿代に使われるのがオチである。
物騒な時代だ。若者はキレる。何を考えているか分からない。若者は物騒。
太郎不良説に縮み上がった私は、尚も燻っている太郎不幸説を考えないようにしながら公園を通り抜けた。そう。自分を騙すことができれば、言い訳でお節介を回避することも可能なのだ。今回のような特殊な場合に限るのだが。
公園の入口で立ち止まっていた時間は思ったよりも短く、三分程度だった。それから「あのう……」と声をかけてしまうまでの時間は、三十分程度だった。
自己防衛のために太郎不良説を展開し続けたおかげで、コンビニの帰り道、まだ同じ姿勢でいる太郎を見かけたときにも立ち止まらずにいられた(帰り道で公園を避けなかったあたり、私も迷っていたということだ)。自宅に入ってほっと息をついたときも、太郎が寝ていたおかげでカツアゲされずに済んだのだと安堵したほどだ。
転機は気分を切り替えようと窓を開けた丁度そのときだった。突然の俄雨が地面を叩く音とともに、太郎不幸説が私の潜在意識から鎌首を擡げ、瞬く間に私の部屋をこの上なく居心地の悪い空間に作り変えてしまったのだ。
部屋の湿度が上がっていくのを感じた。それが錯覚であることは分かっていた。深呼吸をしても息苦しい。肺が酸素の取り込み方を忘れてしまったように思えた。この居心地の悪さは、時間をかけて少しずつ忘れるか、どこかで放っておいた人助けの事案を処理するか以外に解消する方法は無い。
私はまた、人助けから逃げられなかった。
胸の裡に湧き出すむかむかとした感覚は、玄関に向かうとき、靴を履くとき、自分の傘を掴み太郎用のビニール傘を引っ張り出したときに少しずつ晴れ、早足で公園に向かう頃にようやく消え去った。
太郎は滑り台を屋根にして、支柱に背をもたれて立っていた。スウェットパンツのポケットに両手を突っ込み、腕には長袖のオーバーシャツを引っ掛けている。まだ八月といっても、雨の中では剥き出しの細腕が少し寒そうだ。「そのオーバーシャツ着なよ」と言いたい。立ち姿も男性にしては華奢で、女の私よりは背が高いのに体重は私の方が重いんじゃなかろうかとすら思う。不幸説、一歩リード。
見知らぬ男性に向かう緊張を、逃げ出しても居心地の悪い部屋が待っているだけだという開き直りで追いやる。太郎は公園に入った私に気付くと、警戒と戸惑いの混在した視線を寄越してきた。私が近付くにつれ太郎から発せられる戸惑いはみるみる大きくなり、私が「あのう……」を発したときには静かなパニックの様相で、まるで私が変質者になったかのようだった。
「あ、怪しい者ではないのですが……」
怪しい声掛けの代表格だが、近年は一周回って怪しくないだろう。そう思ったのだが、太郎の視線は覚束ない。
「あの、さっきここで寝てるのを見かけたんだけど、雨が降ってきたから。これ、とりあえず」
とりあえず、ビニール傘を差し出す。それで、どうしよう。考えていなかった。傘を渡せば人助けは完了なのだろうか。できればすぐにでも帰りたいのだが、事情を聞くべきだったとか警察へ届けるべきだったとかで後悔するかもしれない。もしそうなるとその後悔は体調に表れてしまう。
太郎はというと、賄賂を差し出された気弱な議員がこんな感じだろうか、受け取ったらどうなってしまうのかと困惑しているような空気を醸し出している。私だって太郎くんほどではないだろうが困惑している。
「捨ててもいいくらいのやつなんで、本当に大丈夫、安心」
どう言えば受け取ってもらえるのだろう。となりのカンタが如く「ん!」とだけ言って傘を置いて逃げてしまおうか。傘を差し出している私の腕に雨が落ちて冷たさを感じはじめたとき、太郎は観念したように呟いた。
「ありがとう」
雨の音にも負けてしまいそうな遠慮がちな声が初々しい。お礼の言える子は良い子だ。
ほっとした私だったが、ズボンのポケットからそろそろと姿を現した太郎の手に視線を奪われ、ぎょっとした。ビニール傘の柄を掴んだ太郎の右腕に、いくつもの痣が見えてしまったからだ。中でも手首をぐるりと一周しているそれは、物理的な繋縛の跡にしか見えない。もしかしてと目を向けたもう一方の腕にも、手首のそれこそ無いが、黒ずんだ赤や青の痛々しい模様が刻まれている。
私の視線に気付いたのか、細腕は太郎の背に逃げ込み、太郎は気まずそうに顔を背けた。
どうする、百合子。想像以上の不幸太郎だ。できたてのほやほやばかりでないことは素人目にも明らかだった。いじめか虐待か。どちらにしても関わりたくはない。私には人助けの病気があるからだ。ああ、どうしてよりにもよってこの公園で野宿しようなんて考えちゃったのさ。やめてよ、私が見つけちゃうでしょうが。
「……おうちに帰った方がいいんじゃないかなあ?」
優しく諭そうと思っての言葉遣いだが、あまり丁寧に言いすぎると喧嘩を売る不良のようになるとは知らなかった。幸い、太郎の反応は喧嘩を買いたがる不良のものではなかった。
激しさを増した雨の音が彼の返事を完全に呑み込んでしまったが、小さく頷いたということは「うん」だろう。「ふん」とは言っていないはずだ。
しかし、太郎は滑り台の下から出てこない。
「家はどこ?」
ここで野宿はさせないぞという意思表示を兼ねて追撃する。そこに居座られてしまうと、私が気になって眠れないのだ。例えば学生時代、同級生がいじめられていると気付いたけど何もしなかった日の夜、ずっと胸の中がむずむずそわそわとしてしまい、のたうち回りながら夜を明かしたってくらいに眠れないのだ。
……返事が無い。
「家はどのあたり?」
気持ち声を張って繰り返すも、地面を見つめている太郎は口をへの字に曲げたままでいる。聞こえていないわけではないらしい。
「ええっと、親御さんの許可無く深夜に出歩くのはだめなの。それで、深夜っていうのは夜の十一時以降なわけね。分かる?」
子供扱いが気に障ったのだろうか、太郎は鬱陶しそうな目をしはじめた。私の中の太郎はもっとか弱い濡れた子犬の目をしていたから、少し意外だ。
「もうすぐ深夜になっちゃうのね。だから、私としても太郎くんを放っておくわけにはいかないの」
しまった。太郎くんって言っちゃった。太郎の目に反抗心が宿った気がする。太郎の口が開き、私は不良太郎のお目見えを覚悟した。
「それって十八歳未満だけだろ。俺には関係ない」
太郎という安易な仮名で呼ばれたことについては重要視していないらしい。私は案外強気な太郎の口調に気圧されつつ頷いた。東京都の条例における青少年とは十八歳未満の者を指す。
今度こそ「ふん」が聞こえた。生意気な太郎……確かに十八歳であれば高校生でも関係ないらしいけど、『高校生』と『未成年』は補導に十分値すると思うんだよ。もしかして、慣れっこか。お巡りさんのあしらい方に自信ありなのか。なきにしもあらず、だってこの太郎、年上の女性に「ふん」って言ったんだ。
じゃあ心置きなく野宿させられるかといえば、そんなことはできない。世の中はいつだって物騒だし、誘拐事件だって頻繁に起こっているし。こんなヒョロヒョロとした少年、悪人からすれば絶好のカモだろう。
単なるお節介焼きなら「うちで暖まって、落ち着いたら帰りなさい」と誘えるかもしれない。同情して感謝されるつもりだった人なら「なんだその態度は。野宿して風邪ひけバーカ!」と捨て台詞を投げて逃げ帰れるかもしれない。だが私はどちらでもない。見知らぬ他人を家にあげるのも、痣だらけの太郎を野宿させた罪悪感にのたうち回るのも嫌なのだ。
そもそも何故私がこんなに悩まなくてはならないんだ。私だって不幸花子だ。相手はか弱い不幸太郎かと思ったら、ちょっと年齢を見誤っただけで「ふん」だなんて言うし、この調子なら夏期講習だってサボったのかもしれないし、だけど手首の痣は異常だし――。
考えている間に、雨が少し弱まっていた。
「鬱陶しいかもしれないけど、放っておいてはあげられないの。大人の事情があってね!」
イライラを含んだ私の語調に、太郎は僅かに怯んだようだった。
「あなたにどんな事情があるにしろ、野宿はさせられません。自宅には帰れないの?」
太郎は迷うように視線を彷徨わせ、小さく頷く。地面を見つめるか弱い太郎が戻ってきた。
「それじゃあ、頼れる親戚は?」
「いない」
「お友達は?」
「……いない」
もはや太郎の声は七割が溜息だ。太郎のプロフィールにひとりぼっちという言葉を加えておく。
本人に思い当たるツテがあるなら、こんなところで寝ようとはしないか……。
「せめて、ネットカフェで寝るとか……」
黙りこくる太郎の周囲には絶望のオーラが漂っている。これは本当に、最悪の事態かもしれない。
「お金持ってないの?」
太郎は地面に向かって「何も持ってない」と答えた。身分証も無いならネットカフェどころかカラオケも入れなそうだ。
「ほんっとうに、自宅は駄目なの?」
彼がひたすら地面を見つめているので視線の先を追ってみたが、そこにあるのはやはり濡れた地面だけだった。カンペはどこにも見当たらない。彼の返事を待つ間に、私は頭の中で最終確認を行った。お金あげるからファーストフードで夜を明かしなさいとリリースした場合でも、私はのたうち回る結果になりそうだ。確認はそれだけ。
太郎が何かをもごもごと言いはじめ、私は覚悟を持って耳を傾けた。
「母親の――」
「母親の、何?」
太郎の不安げな目がちらりと私に向けられ、再び何も無い地面に下りていく。
「家は、母親の彼氏が居る」
「母親の彼氏……」
そりゃ、やってらんないな! 私は手のひらを返した。家出少年を匿うことになるのだろうという鬱屈した気分も、同情心が制圧してくれる。
「帰りたくないっていうのはよく分かった」
母親の彼氏は気に食わない。それは自然な現象だ。
十年も前になるだろうか。私の母は遅い青春の機会に目を輝かせていた。亭主関白でモラハラ気味の夫が心筋梗塞で死んでくれて、ご機嫌な思考をふわふわさせていたのだ。そして恋愛経験の乏しい母に寄ってきて、ふわふわしているところを抱きとめた男が居た。数は時期を異にして三人だったが、いずれもこれといった取り柄の無い、私からすると胡散臭い男だった。
彼らは私の存在を邪険に思うならまだしも、あろうことかまるで父親の権利を得たとばかりに不遜になる。何もかも上から目線だったのだ。
思春期の気難しさが新しい家族を拒絶してしまうと聞いたことがある。それも上から目線な推測だ。そんなものは親気取り達が自尊心を満たしたくて、自分が認められない原因を子供に押し付けただけの姑息な意見だと思っている。
私の拒絶は気難しさが理由ではない。むしろ誰に対しても、初めは失礼のないよう対応してきた。相手がまともでないのだ。挨拶もそこそこにやたらと馴れ馴れしくなったり、遊びに誘ったりできる意味が分からない。恋人の家族にすら礼を失する連中、それが母親の彼氏だ。失礼な相手を失礼だと評価することが思春期の気難しさであるものか。母は私の成人後に再婚したのだが、私は新しい父について、戸籍上の関係と認めるまでにしている。
太郎の場合は――どうだろう。太郎不幸説の芽であった厳格な父親との軋轢というシチュエーションは否定され、家族からの虐待や冷遇等の酷な家庭環境こそ生々しく想像される。そこに『母親の彼氏』という要素。暴力に耐えかねて、という可能性も低くないだろう。
傘を叩く雨音が再び強まる。思考が現在に帰ってきて、私は仕切り直した。
「あの、ね。大人の事情で、やっぱり太郎くんを外に放置しておくことはできません」
太郎は病院用のキャリーバッグに収められてしまった猫みたいな目になった。
「本来ならご家族に連絡するべきなんだろうけど、それは本当に嫌みたいだから……今日はうちに泊まって。これを拒否されると、警察に連絡しなきゃいけない。いいね」
私の提案は予想が付いていただろう。
命令に近い形で告げたのは、申し訳ないとかひとりにしてほしいとか言ってもごもごされても時間を無駄にするだけだからだ。今も多少のもごもごが見られるが、この程度の躊躇なら織り込み済みである。仮に「ラッキー!」と膝を叩いて意気揚々と歩き出されたらドン引きするしかない。
行くよ、と促すと、太郎は無言のままビニール傘を広げはじめた。細い。私の常識の男性像からかけ離れている。ともすれば傘は重くないかと声をかけてしまいそうだ。
「ねえ、本当に十八歳?」
「は?」
思わぬ返しに私は目を剥いた。何が起こったのか。さっきの発音は『何とおっしゃいましたか?』ではなく、『何をわけの分からないこと言ってんだ?』だった気がする。一瞬フリーズした私を見て、失言に気付いたらしい太郎は小さく「ごめん」と謝った。
私はかぶりを振る仕草で気にしなくていいと伝えた。貧弱な見た目に忘れさせられてしまっていたが、この子は尊大に「ふん」と鼻を鳴らせる子だった。「ふん」ができて「は?」ができない理由は無い。成績が落ちて父親と喧嘩した不幸太郎はとっくに否定されたのだ。
確かに、十八歳未満じゃないとは言われたが、だからといってきっかり十八歳だとは言われていない。受験生だった不幸太郎の幻影が先入観を作り上げていたわけか。
「二十歳、です。すみません」
太郎は取って付けたような敬語で呟いて、彼を守り続けた滑り台の庇護から抜け出した。
「二十歳、ですか!」
私はもう一度目を剥いて、敬語を取って付けた。未成年と決めつけてしまっていた。先入観とは想像以上に目を曇らせるものらしい。
「タメ口でいいです」
「え、うん。じゃあ、そっちこそ」
「……うん」
歩き出すと靴が重く、結構な量の雨を浴びてしまったことに気付かされる。
彼の母親の彼氏とやらの滞在期間が今日だけでありますようにと、自分のために願った。
「太郎でいい」
本名を聞こうとした私に、太郎は膝を抱えたままでそう言った。偽名か……まあいいだろう。本名を教えれば自宅を探されるのではと心配したのかもしれない。自らそんな捜査をするくらいなら警察に任せるのだが。
「母親の彼氏が泊まるのは今日だけ?」
「分からない……」
分からないですか。
太郎は廊下の壁にもたれて座り、紙皿を片手に食パンを齧っている。
家に連れてきておいて居間の扉はくぐらせないというのは酷いかもしれないが、私のパーソナルエリアは厳守しておきたかった。この1Kが狭いわけではない。狭くはなくともたった一つの自室だし、個人的なものもあるし、ベッドもあるし……座布団代わりのクッションは貸したから十分じゃないかな。本来は廊下も含めて私以外の誰も居ない聖域なのだが、太郎を外で待たせてシャワーを浴びた後で一時解除とした。トイレも廊下側にあるため、そのときはまた外に出てもらうことになるだろう。私は繊細である。言い換えれば、神経質である。
滑り台とイチャイチャしていたかったのを私の偽善に引き裂かれた上、傲慢な態度で振り回される、と、こんな風に思われていないことを祈るばかりだ。勘違いされないように大人の事情でそうせざるをえないのだと強調しておいたつもりだが。
「明日はどうするの」
パンを食べ終えた体育座りの男は、むすっとして黙っている。恐らくだが、先の展望については考えてもいないし、考えても分からないのだと思う。
食事中にもいくつか尋ねてみたのだが、基本的にだんまりである。聞けたのは彼が大学生であり、今は夏休み中ということ。母子家庭になった経緯や兄弟の有無等は不明だが、現在は母親と太郎の二人暮らしということ。そして、「どこか、二駅くらい……」という不親切な住所の情報くらいだ。家で何かあったのかとか、どうして母親の彼氏が居ると嫌なのかとか、踏み込んだ質問には答えない。家庭内の状況については、雰囲気を察するに、言いたくないというよりは言いづらいといった様子だ。
身体の痣が喧嘩以外の暴力によるものらしいことは、私の頼りない観察力でも読み取れた。誰が暴力を振るっているのかは分からない。ただ、家出の原因について「母親が彼氏を連れてきたから」という言い方をしたので、その男は日常的に太郎宅を訪れていたわけではないと思う。母親の彼氏というワードが出てきたときには紛うことなき害悪と深く頷いたものだが、今や疑わしいのは母親の方だ。
お弁当を食べ終わった私は、太郎から紙皿を受け取り、台所のゴミ箱に捨てた。紙皿はこれが最後の一枚で、明日の朝の分が無い。私にとっては食器も聖域。朝食にはまたトーストを出すつもりでいるが、朝一番に紙皿を買いに行くっていうのはあからさますぎるだろうか。
ベランダへ続く窓を少し開けて外を覗くと、激しかった雨が大分静かになっていることが分かった。もう少しで止むだろう。地面はすっかり濡れそぼっている。二階にあるこの部屋の中からは、ベランダが邪魔をして真下の道路を見られないのだが、道路の向こうに佇む小さな公営墓地がそれを教えてくれた。
「明日も帰れなかったら、また泊まる?」
言って、私も随分開き直ったものだと我ながら感心した。そこに悩める子羊がいる限り、手を差し伸べる以外の道は取れない。そんな自分の性格を理解していても、私はいつもぐずぐずしてしまう。得体の知れない太郎を自宅に招いてやるなんていう面倒事なら尚更だ。
余裕が出てきたのは、太郎が得体の知れないものではなくなったおかげであると思う。悪知恵をはたらかせるんじゃないか、付け込まれるんじゃないかという心配も薄れてきている。未だに言葉を発する前に多少のもごもごタイムが必要なもごもご太郎だが、恥も遠慮も知らぬぺらぺら太郎よりは好印象だ。
「……泊まらない」
「えっ、明日はあてがあるんだ?」
「……あてはない」
浮かれ損だった。泊まらないと言ったのは遠慮のせいか。分かったからそんな顔しなくても。
「まあまあ、うん、気にしないで……そろそろ寝ようか」
もうすぐ、午前零時になる。
寝る前のお手洗いのため、太郎に外で待っていてもらう。お手洗いを終えて、彼を呼び戻す前におもてなしの用意を行った。細い廊下に冬用の掛け布団を敷き、その上に毛布を置いて寝床の完成だ。他に寝具は無い。狭かろうが固かろうが野宿と比べれば極楽のはず。
太郎に帰還を許すと、彼は既に出来上がっている寝床を見て驚いたようだった。もしやコイツ、トイレ長いな、なんて思っていたのでは?
「それじゃ、ドア閉めるからね。おやすみ」
声をかけると、太郎は布団の観察から我に返った。
「あ、おやすみ」
気の抜けた返事を受けてから、私は廊下の扉を閉める。油断したのか、もごもごするのを忘れたみたいだ。飼いはじめたばかりの猫が私の用意した寝床で丸まってくれたときのような小さな達成感。そして、私のお節介が少なくとも赤点ではないと分かった安心感を覚えた。
ベッドに入る前に明日の用意を簡単に済ませ、紙皿をどうするか決めていないことに気付く。買いに行かないに決定。朝食の前に紙皿を買いに行くなんて面倒だ。風呂やベッドに比べれば、食器くらい平気だろう。
私も少し、緊張が緩んだのかもしれない。