001
全く寝られなかった。
嘘、偽り、一切なく、本当に一睡も出来なかった。
現に空は白み始めたというよりは、もう朝だ。
少し冬の気配を匂わすように、布団から出てる顔に冷気が纏わり付く。
何を隠そう、隣にいらっしゃった乙女さんと謎の牽制を繰り広げた結果の大惨事である。
私が少しでも動けば、彼女が悲鳴じみた声をあげる。
そして言うのだ。「それ以上動いたら殺す」と。
鬼気迫るその声色に、動いたら殺されるという意識で寝ることはおろか、休むことすら叶わなかった。
そんな乙女さんも早朝六時に大家さんからの折り返しの電話で、逃げるように飛び出していった。
帰り際に「この、みたらしが!」的な事を言われた。「女ったらし」だった気がするけど、「みたらし」と聞こえた事にしてくおく。
「……もう七時だよ」
少なくとも八時には家から出ないと遅刻してしまう。はぁ、もう起きなくては……
乙女さんの奇行によって睡眠時間を奪われた私は、惜しむように大きな溜め息を吐きながらベッドに別れを告げる。
「うわっ……っとと……」
ぐっと脚に力を入れた瞬間、突如として暗闇に意識を引っ張られてしまう。立ちくらみだ。
寝てなかったから当然だよな、あーもう。
あれ、てか、あれ、これやばいやつだ。
視界が全て黒で覆われる。世界から平衡感覚という概念が消え失せる。私から私という存在が、単色にぬりつぶされる。
ぐるりと内蔵が回る感覚に陥った。
手当たりしだい掴めるものに手を伸ばそうと試みる。しかし、視界が奪われ、平衡感覚がないに等しい今、何かには手が当たったが、大きな物音を立てただけで非情にも倒れる覚悟を決意する。
(あぁ、こりゃ駄目だ)
頭なんかを打たなきゃいいけれど、そう考えながら得体の知れない感覚に身を委ねた。
「……っと、大丈夫!?」
「うぇっ?」
間一髪、なのだろうか。そろそろ床に頭がぶつかるかなといった所で、後頭部に柔らかな感触を感じた。
「エアバッグ……?」
「は、初花ちゃん、寝惚けてるのかな……」
そんな私の戯言に、後ろから優しく抱き締めてくれた高性能エアバッグ様は呆れた様に声をあげた。さすが高性能、音声も出るなんて。いや、言ってる場合か。
「花野子……?」
「あぁ、いいよ立たないで! 立ちくらみだよね? 少しゆっくりしよ」
そう口にすると、立とうとした私の身体を自分の柔らかな太股に押し付けた。どうやら膝枕のような体勢になってるようである。
「……てか、なんで花野子いるの」
またぶっきらぼうな言い方をしてしまう。もし、私は私がいたら私をぶん殴る。まぁ、荒療治で治せるほど、私のコミュ障は簡単に治ることがないのを私は知っているのだけれど。
閑話休題。
「えぇと、ごめんね。私、昨日鞄を忘れちゃってさ、その中に宿題入ってて、その、扉の前でずっと待ってたら物音がして、そしたら鍵空いてたから……」
私の言い方から怒っていると勘違いしたのか、問いに対して申し訳なさそうに眉を潜めた。悪いのは乙女さんが出て行ってから鍵を閉めなかった私だし、そもそも花野子は助けてくれたんだから恩人なのに。
ああ、困り眉の花野子めっちゃ可愛い。めっちゃ可愛いけどなんでストーカーなの。なんで太股触ってんの。もうなんで残念なの、お母さん泣いちゃうよ。
「いいよいいよ。助けてくれてありがとう」
「うん、今まで何回も勝手に入ってごめんね」
「うん、大丈夫だよ。何回もね、何回……何回も!?」
「わ、いきなり起き上がったら大変だよ!」
これが起き上がらずにはいられようか!
立ちくらみなんてやってる場合か!
「何回も入ってたの!?」
「……えぇ、入ったことないよぉ。冗談、冗談」
「今、『うわ、引かれたヤバイ』みたいな顔したよね?」
「何のことやらさっぱりだよ、初花ちゃん」
もうこの子はどこまで本当でどこまで嘘なのかよく分からない。いっその事、全部嘘だといいのに。いや、本当に。
「それより、初花ちゃん。可愛いお目目にクマができてるよ? 昨日、寝てなかったの?」
「あー、そうなんだよね、昨日、乙女――」
――あ、やばい。
本能的に危機を察知するにはあまりにも遅過ぎて。
対面に座る花野子の目がすっと座るのを確認する。
もともと大きな黒目が瞳孔が開くことによって、私を飲み込まんとばかりに瞳に闇を広げる。
「乙女ちゃんが何?」
「……いや、べつに?」
刹那、視界が全て“花野子”になる。やぁ、昨日ぶりだねと床が後頭部に挨拶をする。この感覚はデジャヴ。
「ごめんね、荒っぽいことして」
押し倒されたのだ。また。今度は花野子に。
「……いや、べつに?」
そして、コミュ障であるが故の発声する場合の語彙力の少なさ。いやいや、単に私が馬鹿というだけではない。いや、べつに。
「一緒に寝たの?」
吐息がかかるほど、顔が近い。ひぃぃ。
「い、い、いや、べつに?」
「それじゃあ一緒に寝てたりなんかしないんだね?」
にこっと普段の笑顔に戻る。
なんとか命拾いはしたようだ。
「そう、そうっ! もちろんだよ」
「じゃあ、失礼」
突如、花野子は私の首元に顔を埋めてきた。洗面器に顔をつけるように、勢いよく。
「はっ、へっ!?」
理解が追いつかない。もしかして、花野子はやっぱりストーカーだったのか!? いやストーカーという事実は昨日も今日も揺るぎないけれども。もしかして私はこれから襲われるのか、もしかして私は今から犯されるのか、いや、安心しろ阿達初花、こんな三白眼の貧乳の田舎娘に欲情なんてするはずがないじゃないか、絶対大丈夫大丈夫大丈夫ダイジョジョジョ――――
「……………する」
「犯さないで下さいお願いします初めては結婚した人とって決めてるんですごめんなさい初めてだけはお願いしますごめんなさいごめんなさい」
「あの女の匂いがする」
「ごめんなさいごめ…………え?」
「初花ちゃんから、あの女の匂いがする」
ふと冷静になる。
純潔を犯されないという事実で胸を撫で下ろしてから、本件による焦りが吹き出してくるまでコンマ一秒。どちらにせよ、自分の立場が危ういという事実に気づくまでがコンマ二秒。
「な、何のことかな!?」
性懲りもなく嘘をつくまで、間を置いてしまう。
花野子の目が疑惑から確信の色に変わる。
「そっか、ふーん」
のらりと彼女が私から身体を離して立ち上がる。
私を冷たい瞳で一瞥すると、彼女は迷うことなく後ろに佇むベッドのシーツをさらっと撫で付けた。
「本当に、一緒に寝てないんだね?」
「いや、まぁ、ね?」
ベッドに彼女が腰付ける。床に無様に寝転ぶ私を見下すその様は、まさに主人と奴隷の図。
もちろん、奴隷は私である。言わずもがな。
彼女はさらりともう一度シーツを撫でた。
「なにしてるの……?」
そして、花野子はその重い口を開く。