001
「え、アカギさんのお家って二つ隣だったんですかぁ?」
私が部屋の鍵を開けようとすると、乙女さんは目を丸くして驚いた。それもそうだ、同級生の、ましてやクラスメイトが近くに住んでいたなんて私ですら驚いていたんだから。
まぁ、それも乙女さんの二面性やら何やらで、驚きの上塗りがされてしまったから、薄れてしまったんだけれども。これは間違っても口には出せない。
「入学式から住んでるんだけどね」
「えぇ、全然分からなかったですぅ」
そりゃそうだ。私の事を『アカギ』と呼ぶくらいなんだから、彼女からしたら会ったって気付きはしなかっただろう。
「乙女はぁ、今年の四月から一人暮らしなんですぅ」
甘ったるい声できゃぴきゃぴしながら微笑む。先程の“剛鬼さん”を思い返すと、多重人格ではないのかと疑ってしまう程だ。
……本性を知る手前、言ってしまうと、鬱陶しい。
「あ、あの、喋り方。普段の乙女さんでいいですよ」
「しまった」と思ってからではもう遅い。弱音を掴んだ、訳では無いが、“素の乙女さん”を知っていると言う心の余裕からか、思わず口に出してしまう。
殺られる!!!
身構えたその時、乙女さんはピクッと目尻を震わせたが、ぐぐっと口角を無理矢理あげて、
「やだぁ、アカギさんったら。これが、いつもの乙女ですよ、もぉ、馬鹿ぁ………………殺すぞ」
「え? こ、ころ……?」
「え、なんも言ってないですよぉ?」
なんだか最後の方にボソリと明確な殺意を示されたような気もしなくもないが、聞こえなかった事にしよう。あの凹まされた扉のようにはなりたくない。
「……乙女さんがそれでいいなら」
「はぁい」
諦めた私は乙女さんを居間にある安物へと案内して、自室から乙女さんに貸す着替えを用意する。少し小さいかもしれないけれど、一日過ごす分には平気だろう。
「これ、少し小さいと思うんですけどパジャマです。私はあっちの部屋で着替えてくるので……」
「わぁ、何から何までありがとうございますぅ」
ニコニコと笑顔を顔に張り付かせ、“乙女さんを演じる”彼女が窮屈そうに見えるが、本人が辞めない以上どうにもならないのは明白だ。
「……やっぱり、都会の女の子って怖いな」
ブレザーとスカートを脱いで、ワイシャツのボタンを上から外していく。
実は私が異質なだけで、学校でニコニコしている皆が乙女さんのような感じだとしたら……そう言えば都会嫌いの父が「都会は闇が深い」って酔うとよく言っていたが、実はこの事を暗に指していたのではないかと疑ってしまう。
あの可愛くて、ふわふわしてる花野子さんも実は……いや、彼女もそうか。あんな可愛いのに私のストーカーだった。都会って怖すぎませんかね。
「爽やかイケメンの白森くんも、実は」
「いま、“白森くん”って言いましたぁ?」
「わぁっ!?」
急に先程まで居間で大人しくしていたはずの乙女さんが、ひょっこりと顔を覗かせる。彼女自身もワイシャツ一枚のあられもない姿だったが、ワイシャツを脱ぎかけていた、もっとあられのない私はぎゅっと胸の前にワイシャツを手繰り寄せ、貧相な身体を見られないように身体を小さく丸める。
「な、な、乙女さん、い、いきなり……!」
「……ふぅん」
乙女さんはしゃがむ私を値踏みするようにつま先から頭のてっぺんまでをジロジロと見遣る。
そして、あっけらかんとした態度で――
「……胸、ないですねぇ?」
「なぁぁあああっ!?」
フッ、と鼻で笑って勝ち誇った顔をした。
言われてしまった。私のコンプレックスを。いや、事実だけれどもさ。人の部屋にいきなり入ってきて、その言い草は少し、いや、かなり酷いのではないか。そりゃ乙女さんは多少、いや、かなりまぁまぁそれなりに誇れる程には大きいかもしれないけれども……
「な、なんですか、いきなり……」
「…………さっき“白森くん”って言いましたぁ?」
「あ、う、うん。白森くん――」
そう返事をすると間髪入れずに一瞬で間合いを詰められて――床に押し倒されたと脳が理解するまでに数秒を要す。一瞬の出来事で目が白黒としてしまう。その細い身体のどこから力を出しているのか、押し付けられた両手首にギリギリと力を込められていき、もはや手首が悲鳴をあげている。痛いとか、そういうレベルの痛覚じゃない。
「痛っ……いっ、や、やめ…………」
そして彼女は、身体の芯から冷凍されそうな蒼い瞳を座らせて口を開く。
「白森くんは、私のだから」
私の? 彼氏、とかなにかなのか?
兎にも角にも、だ。
「わ、わかったから離――」
――――ピンポン。
突如、来客を知らせるチャイムが部屋に木霊する。
誰かは分からないが、ナイスタイミングだ。チャイムに気を取られ玄関の方へと振り向いた乙女さん。手首を拘束する握力が弱くなった一瞬を見逃さず、馬乗りになっている彼女からスルスルと見事に抜け出すことに成功する。
「い、今出ます!」
呆気に取られている乙女さんを置き去りにして、小走りでワイシャツのボタンを掛け直しながら玄関へと向かう。
ピンポンと、もう一度催促されて少し焦りながら鍵を開けて、チェーンの掛かったままの扉を開けた。
恐らく乙女さんとドタバタしてしまった為、隣人が苦情を言いに来たのだろう。
「すみません遅れました、どちら様でしょうか……?」
軽く謝りを入れて、チェーンの限界一杯まで開いた扉の隙間を覗いた。
「あれ……?」
誰もいない――そう思った刹那、ぬっとチャイムを鳴らした主が姿を現した。
「か、花野子……!?」
「こんばんは、初花ちゃん」
にこにこと朗らかな笑みを浮かべて、彼女は扉の隙間から顔を覗かせた。
「ど、どうしたの……?」
思わぬ来客に吃ってしまいながら、彼女の顔を伺う。チラリと私の服装に彼女の目がいった。
「あ、い、いま着替えてて、ごめんね、こんなだらしない格好で」
「ううん、大丈夫だよ」
そして続けて、「そうそう!」とパチンと両手で手を合わせて、鞄から可愛いラッピングが施された小包を取り出す。
「それは……?」
「珈琲零しちゃった時に、初花ちゃん私の袖を拭いてくれたじゃない? だから、それのお礼! クッキーなんだけど、よかったら」
「えへへ」と恥じらいながら、チェーンの隙間から小包を渡してくれる。
「そ、そんな。良かったのに。ありがとう」
「ううん、こちらこそありがとうね」
「へへ、へ」
「ふふふ……」
見つめ合う。見つめ合う。見つめ合う。
じぃっと、笑顔のまま、見つめ合う。
じぃぃぃいっと、ずっと、永遠に……
「あ、じゃ、じゃあ、この辺で……」
多分、引き攣ってるであろう笑みでゆっくりと扉を閉め――ようとすると、花野子は自分の足がガッと扉の隙間に入れてそれを阻止した。
がしっと扉を鷲掴んで再びチェーン一杯まで扉を開く。
「か、花野子……?」
「なんかね」
「ん?」
にこにこと柔和に微笑んでいた顔が、一瞬にしてふと真顔に戻る。ただの真顔なのに、恐らく怖い顔に見えた。
「……隠し事の匂いが、するなぁって」
その言い方は酷く冷たく、透き通っていて。
心臓が胸を突き破ったかと思った。「ふっ」っと息が肺から漏れる。
「え、え?」
「誰か、いるの?」
「い、いないよ!」
心の中を覗かれるような底の深そうな瞳。花野子の感情を読む事が出来ず、思わず嘘をついてしまった。出来るだけ心を落ち着けて平静を装ったが、今にも心臓が過労死してしまいそうだ。
「ど、どうして?」
「……虫でもいたら潰してあげないとなぁって」
「む、虫!? い、いないいない!」
チラリと玄関の奥を除くような仕草。咄嗟に身を乗り出して視界を塞いでしまう。
「ふぅん、そっか」
「うん、そうだよ」
無言という名のプレッシャー。頑張って笑顔を繕うが、今の私はギクシャクとした物凄い顔をしてるはずだ。
そして、その静閑を破ったのは意外にも彼女だった。
「そっか、変な事言ってごめんね! じゃあ、また明日ね、初花ちゃん!」
にこっといつもの糸目な笑顔に戻る。
良かった、なんとかなった……
「うん、またね花野子」
今度こそ、ぎぃっと静かに重い鉄製の扉が閉まった。
思わず扉によし掛かり、大きく安堵の溜息を漏らす。
「た、助かった……」
いや、なにが助かったのかはよく分からないけれど。否、私は身の危険を確かに感じたのだ。これを“助かった”と呼ばず、なんと呼べよう。
「誰か来たんですかぁ〜?」
「わっ!!」
思わず心臓が飛び上がる。……今日で寿命は確実に半分縮まっただろう。死神の目を契約できるレベルで縮んでしまった。
そんな私を訝しげに、先程の威圧感を感じさせない乙女さんは胸元がはだけたワイシャツ一枚の姿で小首を傾げた。
「あ、いや、何でもな――」
「や っ ぱ り 、 虫 が い た ん だ ね」
今度こそ心臓が止まった。人生が終わった。
扉の向こう側から声が聞こえた。
どうしてだ。どうして彼女が帰ったのを確認しなかったんだ。極度の緊張が解けたことによる慢心だろう。私の馬鹿。
そして、冥界の扉が鈍い音をたてて開く。