002
お洒落なカフェに入ると、彼女はメニューをみることなく呪文のようにすらすらと注文を終えた。勉強以外やってこなかった私はこんなお店に入った事があるわけもなく、魔法の呪文「オナジノデ」でなんとか事なきを得る。
初めて入るそのお店は、私みたいな田舎者が入ってもいいのかと、少し気後れしてしまいそうな佇まいだった。赤い夕陽の優しげな光が、また店内の雰囲気と合っている。
気後れはしてしまうものの、心が踊るのを確かに感じてしまうのは田舎者の性か。
というのも実は毎日、下校途中に見えるこのお店は気になっていたのだ。遠目から見るだけだった非日常に、私はいま紛れ込んでしまっている。
お爺様や、小洒落たカップル、あっちには……確かあれは私のクラスメイトの女の子だ。流石、都会の女の子は慣れている。
「あそこにいる人って初花ちゃんのクラスメイトだよね?」
不意に話し掛けてきた花野子さんに少し驚いた。
「あ、うん、そうだと思います。なんで知ってるんですか?」
彼女は眩しいくらいの笑みを浮かべて、まるでサプライズをするように口を開く。
「実は私ね、初花ちゃんのこと一年前から知ってたんだ」
「……え、どこでですか?」
なんでこんなぶっきらぼうな言い方しか出来ないのか。これだからクラスメイトの男子に『藁人形持ってそう』って影でひそひそ噂されるんだよ。
「いつも通学する時ね、アパートの前で毎日掃除してる女の子がいるなーって。毎日偉いよね」
「ひ、暇だから……」
「後はね、実は教室の花瓶の水を毎日変えてるとか」
「……同じクラスでしたっけ?」
「あー、違う違う。隣のクラスだよ! 何度か合同の授業で顔を合わせたことあるけど、その様子じゃ覚えてなさそうだね」
あはは、と彼女は屈託のない純粋無垢な笑顔をこちらに向ける。
「ご、ごめんなさい、私あんまり周りを見てなくて」
「いいよ、いいよ。それより敬語使わないでよ、同い年でしょ?」
「う、うん。わかったよ、花野子さん」
「あとさ、お願いあるんだけど……」
「なに?」
彼女はもじもじと両手をこねて、頬を朱に染める。
ぐぬぬ、やばい、なにかに目覚めそう。
「『花野子』って、呼んで?」
上目遣いで、恥ずかしげにこちらの表情をチラチラと伺ってくる。うるうるとした瞳は、まるで宝石が零れてきそうな輝き。効果ハ抜群ダ。
「う、うん。……花野子」
「……えへへ、大好きだよ初花ちゃん」
「だ、大好きって……!!」
「毎日、近所のお掃除する初花ちゃんも」
「うん」
「毎日、教室の花瓶の水を変える初花ちゃんも」
「うん」
「自分の可愛さ理解してないとこも」
「う、うん?」
「毎日、下校時間にカフェを羨ましげに見るとこも」
「え、え?」
「朝はパン派で、苺ジャムが好きなところも」
「なん、え?」
「舐めたくなるくらいの白い太股も」
「ちょ、ちょっと待っ」
「ぜ〜んぶ、愛してるよ!」
「はぁあああ!?!?」
思わず洒落たカフェには不釣り合いの大きな声をあげて、椅子から飛び退く。滝のように浴びせられるお客さん達の視線が私を突き刺す。いつぶりだろうか、こんな大声を出したのは。
いや、今はこんな事を考えている場合ではない!
「どうかしたの、初花ちゃん?」
惚けているのか、はたまた真の天然なのか。焦る様子もなく、慌てる私に眉を潜めて訪ねてくる。
「おかしいでしょう!」
「なにがかな?」
「な、なんで私のことそんなに知ってるの!!」
「一年前から知ってるって言ったよね? 私、初花ちゃんのこと……」
そして、まるで悪意なんてこれっぽっちも感じさせずに、ふわふわとした優しい笑みを浮かべて言い放った。
「毎 日 、 ず っ と 見 て た ん だ か ら」
背筋がゾッと冷えて、身体全てが凍ってしまったような錯覚を覚える。
脳が処理しきれない程の恐怖が波状となって、何度も押し寄せる。
悪気も、脅す気も、何もない彼女の微笑みは“狂気”そのものだった。
この人は、狂っている!!!!
「今日はね、我慢出来なくて声掛けちゃったの」
思わず短く、小さな悲鳴をあげてしまう。純粋無垢かと思われた笑みは、底知れない闇の深層を覗いているかのようだ。彼女の目的が全く分からない。
「……私、女だよ」
「知ってるよ?」
「お、お金だってそんな持ってないし」
「毎日、節約してお弁当作ってるもんね」
「じゃあ、なにが目的なの……」
思わず固唾を呑みこむ。
確信という名の闇に、触れてしまう。
その闇に飲み込まれないよう、自然と固く拳に力が入っていた。
「友達に、なりたいなって!」
「……あ、あとは?」
「え? それだけだよ?」
「は?」
「え?」
お互いにぽかんとした、間抜けな顔をしてしまう。
「え、それだけ?」
「う、うん、駄目かな?」
「いや、あの、でも太股が〜とか言ってたじゃん?」
「体育のとき、短パン履いてた初花ちゃんの太股見て、すっごく綺麗だなって思ったから……引いちゃったかな?」
彼女は光悦した顔から一点、申し訳なさそうに視線を落とす。
「え、いや、え? でも朝ごはんとかなんで知ってるの?」
「ゴミ袋からパンの袋とかたくさん見えて……」
「だよね? ストーカーだよね?」
「ち、違うよぉ!!」
焦った様子で彼女はばたつく様に否定する。
「毎日話し掛けようって思ったけど、なかなか勇気が出なくて……」
「そ、そうなの?」
「それで毎日見てたら、なんか、その、す、好き?とかに、なって、きた、のかな?」
「はぁ!?」
彼女はしどろもどろ、視線を右往左往迷子にして、顔を夕陽みたいに赤く染める。状況が状況じゃなかったら、私は色んな意味で落ちてたのかもしれない。
「あ、でも、その、恋人になりたいとかは、明確には思ってなくてね? と、友達に、まずは友達になりたいかなって……」
最後につれ、消え入りそうな声で呟いた。
「駄目、かな?」
上目遣いで申し訳なさそうな困り眉で照れながら。その様子はイタズラがバレて怒られている小さい子のようだ。
どうやら、本当に彼女は私に危害を与えるつもりは無いらしい。少し、いや大分だけれども、人よりネジが外れてるだけなのだ。
なんだか悪意なんて本当にないと分かると、とても不器用な彼女が可愛く見えてきてしまう。
「あの、うん、友達に、ふふ、なろっ、か、ふふっふ」
「友達になる」という一文が、どうにも照れくさくなってしまい、羞恥が先行して変な笑いが混ざってしまう。コミュ障というより、これはまじもんの病気なのではないかと私は私が心配になった。
そんな私の笑いなんて露知らず、ぱぁぁっと曇天が消え失せて、晴天に変わってしまうような嬉しそうな笑みを浮かべて息を弾ませる彼女。
テーブルを乗り出して、私の両手をがしっと掴む。その際に珈琲を零して彼女の袖に付いたのだが、そんなことはお構い無し。
そして彼女は人目を気にせず、こう言うのだ。
「ありがとう初花ちゃん! 一生愛してるよ! 大切にするね!」
穴があったらマントルまで掘り進んで消えてなくなりたい。
カフェにいるお客さん全員がこちらを向いている。微笑ましいような顔でみるご老人、うんうんと頷くカップル、飽きれたようにこちらを一瞥するクラスメイトの女子。
「ハハハ、ソウダネ。アリガトネ。ア、コーヒーフカナキャネ」
周囲の目は気付かぬふりを決め込んで、彼女の袖をハンカチで機械のように拭く。
「ふふ……私の初花ちゃん……可愛い初花ちゃん……私だけの……ふふふ……」
今の言葉は聞こえなかった事にしよう。
もう色々と諦める。
こうして私は初めてのお友達が出来た。なんだか、初めてのお友達は色々とズレてしまっている人だけれども、今までの日常がガラリと変わりそうな予感はした。
良い意味でも、悪い意味でも。
願わくは、後者だけは外れてあって欲しい。