気高きこと
「シャーン様、大丈夫ですか。」
ライラックがこれを尋ねるのは、かれこれ六回目だ。その間に、時計の針はわずかにしか進んでいない。
「だ、いじょうぶよ。ええ、大丈夫。」
「声、裏返ってますけどね。」
乳白色のシャンデリアが輝くたびに、シャーンのドレスはさざ波を立てる。シャーンはマホガニーで統一された大広間はやけに冷たく感じていた。
「御上のおなりにございます。」
侍女が落ち着いた響く声で告げた。それは呪縛の蔓さながら、シャーンをより硬直させた。ぎこちなく立ち上がろうとし、こけかけたシャーンをライラックは笑いをこらえながら、抱き支えた。
「父上・・・!」
イスマーイール帝は金と紺の衣を召しており、長く伸びたヒゲと編みこまれた髪は一筋二筋白く染まっている。が、その威厳に満ちた身なりとは裏腹に帝は穏やかな声を発した。
「シャーン、大きゅうなったな。」
「はい、父上。お久しうございます。」
大きなしわだらけの手で、シャーンの翡翠色の髪を撫でる。父娘のわずかなふれあいにシャーンは嬉しさから頬を染める。
「シャーン、そなたを呼んだのは他でもない。」
向かい合ったふたりの間には、セリ妃のときとは全く正反対の空気が流れていた。だが、ライラックは帝の笑いじわでさえ疑わしいものに見えていた。
「そなた、ラ・イールを存じておるか?」
「はい、近頃勢力を伸ばしてきている反乱因子だと伺っております。」
「うむ、なら話は早いな。」
イスマーイールは赤い美酒を一口飲むと、いままで面を覆っていた父の仮面を脱ぎ捨てるように、国の主の顔になった。
「ラ・イールの勢力は増すばかりで、我が国軍を上回るほどだという噂もある。大小関係なく町や村々はラ・イールの助力となっている。そこで、わしはラ・イールに同盟を結ぶことにしたのだ。」
ライラックは胸騒ぎがし、不意にシャーンの瞳を覗いた。深い色の瞳は焦点があっておらず、どこか悲しそうだった。・・・〈奇跡の君〉の能力の一つであるマインドリード(読心術)を視ているのだろうか。
「当然、奴らが無償の同盟に応じるはずもなく・・・条件を突きつけてきおった・・・。」
父の言葉を紡ぐように、シャーンはささやいた。
「・・・人質。」
「さすがは〈奇跡の君〉。もう視えておったか。」
すると、イスマーイールの目は妙な熱を帯びる。ばっと立ち上がり、つかつかとシャーンの元へ行くと、その場にひざまづいた。
「奴らはそなた、〈奇跡の君〉がほしいといった。なぜなら、ラ・イールの主は〈王の王〉なのだ!・・・これは我らが〈伝承〉のお導き!やはり、〈伝承〉のとおりじゃ・・・。〈奇跡の君〉と〈王の王〉は出会うべくして生まれてくるのじゃな・・・!!」
そのときのイスマーイール帝の瞳は神々について語る敬虔な信者そのもの。
この男にとって、〈伝承〉は唯一神。絶対的な加護、実の娘の心よりも守るべきものなのだろう。
「ゆえに、わたしに人質になれ・・・と?」
シャーンは静かな目をした。あの目だ、ライラックが最も嫌う陶器のような・・・。
「人質などおぞましいことを申すな。これは気高きこと。〈奇跡の君〉が使命を果たす大いなる歩み寄り。・・・これは気高きことなのだぞ。娘よ・・・。」