黒き者
「かったるいな・・・。」
この時間は、彼にとっての拷問だった。
ライラックはいつもシャーンの傍にいれるわけではない。
ライラックはもともと、人市と呼ばれる場所で売られていた奴隷だった。南洋の血を引くライラックのなめらかな褐色の肌は、多くの貴族の興味をうずかせた。しかし、それはわずかな時だけのもの。買われては売られ、売られては買われ・・・。ライラックはそんな無常の日々を過ごしていた。
そんなときに、伯爵家の婚儀の帰りだったシャーンと出会ったのだ。
普通、王宮には一般の市民は入れず、奴隷などもってのほかだった。侍女や執事たちも良い家の出ばかりだった。だが、シャーンの望みによりライラックは彼女の執事として、特別に王宮に出入りし衣食をしているのだ。
当然、条件というものがある。それは軍人として鍛錬を積み、帝を守るというものだった。
獣と暮らす南洋人の血をひくライラックにとって、国軍の鍛錬は朝飯前で、いつも他の軍人と大差をつけ、ひとり鍛錬を終わらせ、主人の元へ戻るのだ。
ライラックの性格も原因だろうが、彼の才能をひがむ者も多くいる。
その輩は彼を陰で、『枷あがり』と呼んだ。遠まわしに「奴隷風情が」と侮辱しているのだ。
しかし、それを直接言う者はいない。帝の皇女であり〈奇跡の君〉であるシャーンの執事だからだ。彼は、シャーンの名によって守られているのだ。
この日も、ライラックは他の兵士と大差をつけて、彼の帰りを待ち望む主人の元へ帰ろうとしていた。だが、今日は妙に胸が騒ぐのだ。
空気の匂い、風の流れ・・・。すべてはいつもどおりだった。ライラックは思いすごしか、と忘れようと残りの鍛錬にいそしんだ。しかし・・・
「ほっ、報告!!奴らが現れました!!く・・・〈黒き者〉一体がこちらに向かっています!!」
息を切らし、報告を読む兵士を見ても、周りのものは誰ひとり慌てなかった。それは鍛錬で積み重ねた冷静さではなく、自惚れにも近い余裕だった。
「イスマーイール帝の進軍ともあろうものが、〈黒き者〉一体ごときでその慌てようは何だ!」
中将らしき男が雷のように怒鳴る。報告兵は一瞬ひるんだものの、それを打ち消していくように、彼の顔に恐怖が広がっていく。
「恐れながら!あの〈黒き者〉は我々の知るものではありません!!恐ろしいパワーとスピードで追撃・・・」
事はあっという間だった。嵐雲のごとく。すばやく、あざやかだった。
報告兵は顔を自分の何倍もある黒い手に掴まれ、そのまま握りつぶされた。悲鳴もうめき声も聞こえなかった。
そのまま、その者はこちらを向いた。
「あれが、〈黒き者〉・・・!」
話には聞いていただけで、ライラックがその凍てつくような気配を肌で感じたのは、初めてだった。
はじめは黒い外套に身を包んだ人間かと感じた。しかし、その様は異様の一言だった。
その肉体は影のようで実体がなく、湖のように底が見えない。
手はやけに大きく、指は鉤爪のようにひん曲がっている。
そして、目だけがらんらんと赤く輝いているのだ。こちらをちゃんと、とらえながら。その目には、人と同じ意志のようなものが感じられた。
「ばかな・・・・!!〈黒き者〉があのようなパワーを・・・!!」
中将のさきほどまでの高揚感は消えうせていた。
「〈黒き者〉は我が軍の下っ端でも倒せるはずだ・・・!我々の敵になるなど、ありえん!!ましてや、一体だけなど・・・!」
中将は己の太刀に手をかけたが、そこで体は硬直した。恐怖と使命感がせめぎ合っているのだろう。逃げろと本能がうなり、立ち向かえと国軍中将としてのプライドがきしむのだ。
「たすけ・・・あああああ!!!」「いやだあああ!!!」「やめろ・・・やめっ・・・・」
王宮の鍛錬場はたちまち断末魔に染まっていった。
「中将殿、どうするんですか?」
ライラックはやけに冷静にたずねた。このような光景、彼にとっては故郷のようなものだった。
「ら、ライラック!貴様も戦わんか!それでも国軍兵士か!!ここで奴を食い止めねば、我らがイスマーイール帝を守れんぞ!」
「知るか。」
中将の胸ぐらをつかみ、ライラックは冷たく言い放った。
「オレは、あの人形野郎に仕えてるわけじゃない。」
中将を投げるように突き飛ばした彼は重い防弾衣を脱ぎ捨て、両手でサーベルを握る。
「けど、ここで食いとめねぇとヤバいってことは同感だな。」
にやっと獣のように笑うと、ライラックと〈黒き者〉は真正面から対峙した。一瞬のきらめき、ライラックはそれの心の臓にサーベルを突き立てた。そしてそれをすぐに抜くと、今度は背後に回り、背中を何度も突き刺し、最後は頭部に深々と突き刺した。
「へぇ、おまえも血。赤いんだな。」
ライラックは笑った。まさに刹那。30人がかかっても倒せなかった敵を、彼は瞬殺した。
中将はだらしなく泣きじゃくった後の顔で、ライラックを見た。畏敬の念がその目からほとばしっていた。
「じゃ、あとはよろしく。中将殿。」
「おお、おい・・・どこへいく・・・。」
彼はここから見える青い窓に向かいながら、祈るように、たったひとりの身を案じるように言った。
「シャーン様のとこに決まってんだろ。」
城内から国軍のトップクラスである〈帝の鎧〉が出動していた。
ライラックはそれを一瞥し、颯爽と横切る。
〈黒き者〉
生命という生命を喰らう者。強い力はなく、夜になると人と同じく眠りにつく。
ライラックの頭には〈伝承〉の一節がよぎっていた。・・・人と、同じ・・・。
翌日、事の詳細はシャーンとライラックにも伝えられた。
〈黒き者〉の遺骸はなく、その場に残っていたのは人間の薬指のようなものだったという。