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9 言語界の骨董品とアホなおっさん(後)

 さほど広くもない噴水の縁に正座すると、男はくるりと高志に向き直った。


「あなたが知るべきなのは、自分はもう子供ではないということです」


「もちろん子供じゃありません」


「親が教えてくれなかった色の翼が、自分にはあるのだと知ることです」


「親が……ですか?」


 小首を傾げる高志に、男は大きく頷いた。


「子供ではなくなったあなたは、親や周りの言葉に惑わされることなく、どこへ行ってもかまわないのだと、自由なのだと認識することです」


 言葉がすとんと、胸の狭い穴の中に落ちていく。


『仕事なんて好き嫌いでするもんじゃない。生活のために働くのが仕事だ』


『安定した収入があってはじめて最高の仕事といえるんだぞ。だから公務員になるのが一番いいんだ。お前の幸せのためだ』


 幼ころから幾度となく、父親に聞かされた言葉。


「大丈夫ですか?」


 男の声に我に返った。


「小さい頃から聞いてきた、父の口癖を思い出して」


 男は高志の次の言葉を待つかのように、静かに耳を傾けている。


「日常で聞かされていた言葉は、確かにぼくの中に根付いています。もしも翼というものがあるなら、そんな言葉に毎日毎日、一本ずつ羽根をむしり取られて、気づかないうちに翼があったことさえ忘れているのかもしれませんね」


「大丈夫です。一度気づいたら、気づいていなかった頃には二度と戻れませんから。そして気づくことは翼に栄養を与えます。抜け落ちた羽根さえ、元通りにする力をもっているのですよ」


 男が微笑む。


「不思議だな、少しだけ息がしやすくなった気がします」


 恥ずかしそうに微笑んで、男は良かった、といった。


「これがあなたの仕事なら、人生相談とかの看板を掲げて店を開いたほうがいいのでは?」


 高志がそういうと、男は寂しそうに首を横に振る。


「ずっと永いこと一箇所に居を構えて、人々の話に耳を傾けてきたのですが、最近は、とんと誰の姿も見なくなりまして。そのとき思ったのです。誰も来ないのなら自分から出向いていこうと」


「それで営業ですか? 職種の認識が間違っています」


 シュンと背を丸める男に、高志は口を一文字にしてわざとらしく真面目な顔をつくってみせた。


「だいたいこの紙には、連絡先が書いていないのでしょう? 読めない上に連絡先もないなんて、職種うんたら以前の問題です」


「うんたら以前ですか?」


「うんたら以前です」


 男の背がさらに小さく丸まる。


「まずはお客さんに興味をもってもらって、自分の所に連絡してもらえるようにしないとダメです。これではお客さんがあなたに連絡さえできません」


 すると男は、急に背筋をしゃんと伸ばして首を横に振った。


「それならば問題ありません。興味を持っていただけたら、その時点でわたしにはわかりますから、すぐに飛んでいきます」


「そんなわけないでしょう? エスパーじゃあるまいし」


「そんなわけがあるのですよ」


 ほんの少し前に、実は素晴らしい人なのではないかと思った心をひねり潰した。

 この男にはやはり、アホの遺伝子が入っている。


「思い出してみてください。あなたが電話ボックスで紙を見てくださったとき、わたしはすぐに駆けつけましたでしょう?」


 そういわれれば、背中が見えないほどに遠ざかっていた男は、なぜ高志の存在に気づいたのだろう。

 貼られた白い紙に興味があるとわかったのだろう。


「百歩譲ってすぐに駆けつけられるとしましょう。だったら問題は紙に書かれた文字とその内容です。凡人にもわかるようにしなくては駄目です」


「大和言葉は美しいのです」


「でも読めませんから」


「大和言葉は、言霊そのものなのです」


 男が泣きそうに目尻を下げる。


「なおさら意味不明になってきていますよ」


 男は拳をぐっと握りしめて膝を打つ。


「読めなくとも、伝わるのなら構わないのでは?」


「読めなくては伝わりません」


「でもここに書かれた言葉には、それを必要とする者を引き寄せる祈りが込められていますから、問題ないと思うのです」


 高志を見つめる男の目はまっすぐに真摯で、そういう綺麗すぎるものを見ると、少し潰してみたくなるのが人間の心情というもの。


「いいことを思いつきました。もしそれが本当なら、あなたは自分が居を構えていたという場所に戻るべきです」


「誰もいないし、誰も来ないのにですか?」


 不安そうに高志の顔を覗き込む男に、大きく頷いてみせる。


「紙を新しく書き直して、それを貼るといい。あとはもと居た場所に帰って待っていればいいだけです」


「それだけ?」


「はい。だってあなたは興味をもった人を引き寄せる言霊が書けるのでしょう? だったらこう書けばいい。自分の中に眠る宝に気づきたい人は、ここにきてくださいってね。あとは自分がいる場所を書いておけばいいでしょう? 黙っていても人はいっぱい来るはずです」


 あなたがエスパーならね、という余分な一言は胸に収めた。

 そこまで悪人にはなりきれない、いわゆる中途半端な好青年を自負している。


「そうか、その通りです!」


 猛然と立ち上がり胸の前で手を打ち鳴らす男を、高志は唖然として見上げた。

 もういい、どうでもいい。


「ちゃんと看板をだしておいてくださいよ。お客さんにわかるように」


「はい、大丈夫です! トリイがありまあすから」


 トリイ? 新種の電光掲示板かなにかだろうか。


「今日から営業はやめます。その方法で上手くいきそうな気がしてきました」


「それは良かったです」


「いろいろと有難うございました」


 深々と頭を下げた男が、踵を返して立ち去ろうとする。


「あぁ、待ってください。相談にのっていただいたお礼を払っていません」


「それならもういただきましたよ」


 何もあげた覚えはない。


「駄目ですよ、仕事なのだからちゃんとお金を取らないと」


 すると男は面白そうに声をたてて笑った。


「近年はお金が多くなりましたが、昔は穀物や布なんていう時代もありました。だから何の問題もありません。十分です」


「ぼく、なにか報酬になるような物をあげましたか?」


「美味しく甘い飲み物と、珍しい味の握り飯を三つもくださったじゃありませんか。とても素敵な供物でしたよ」


「そうですか、それはどうも」


 まて、なんだろう。男の言葉の何かが引っかかる。


 それでは、といって男が歩き出した。


「最後に教えてください。トリイって、どんな種類の看板なの?」


 振り向いた男が、うーんと首を捻る。


「正確には看板とは違いますが、人にとっては同じ役目を果たすと思うのです。トリイでは発音が少し違いますよ。鳥居ですよ、あの紅く染められた鳥居」


 鳥居って、神社にあるあれか?


「あの、ちなみにお名前は」


 心なし、言葉遣いが丁寧になる。


「鈴鳴之命主と申します。では、お元気で」


 遠ざかる背を唖然として見つめた。


 よれよれだった背広のシワは、今ではすっかりなくなってる。

 あぁ、悲しきかな日本人の本能。

 立ち去る背に、高志は静かに頭を下げた。


 リーン


 尻の後ろで、鈴が澄んだ音で鳴った。


 


 ぼーっと一時間くらい座っていただろうか。

 腕章を付けたボランティアの人々が、所構わず不法に貼られた紙を剥がしていく様を眺めていた。

 町の景観を守るために、定期的に行っているのだろう。

 大勢の人の手であっという間に、雑然と貼られていた広告が取り除かれていく。

 ビニールを下げた人達が、次の場所へとおしゃべりをしながら立ち去っていくのを黙ってみていた。


 電柱には鈴鳴之命主が貼った、白い紙だけが残っている。


「本当に神様だったのか」


 おそらく必要のない者には見えないのだろう。

 透き通るように青い空が目にしみる。


「アホとか思って、申し訳なかったな」


 走る子供のリュックが揺れて、チリンと鈴の音が響いた。





読んで下さってありがとうございます!

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