40 分かつ川
喧しいほどの鳥の鳴き声と、隙間だらけの小屋の中にまで漂ってきた煙臭さに目が覚めた。
黒楽茶碗は、昨夜置いた場所に物言わず鎮座している。
「ほお、なかなかの腕前じゃな」
「水気は好みませんが、見ているだけなら和むねぇ」
小屋の外から聞こえるすずとバッテンの声に、高志は眠い目を擦りながら木戸を開けた。
もくもくと流れる白い煙の出所は古いドラム缶の真下で、すずとバッテンは煙を避けるように少し離れた所で眺めている。
煙の根本に目を向けると、思いも寄らぬ人物が地を這うよう姿勢を屈め、汗が目に入るのも構わずに竹筒に息を吹き込んでいた。
「迷わせ小僧?」
高志が声をかけると、ぎょっと目を見開いて体をびくつかせた小僧は、視線をそらして立ち上がると、小さな手でドラム缶の中で湯気を上げるお湯をくるくると掻き混ぜた。
よし、という風に頷くと、そそくさとすずの後ろに身を隠す。
朝日が顔を見せるまで少しは間がありそうだが、東の空はすでに淡く色を変えていた。
「ほれ、自分で言わねば意味がなかろうよ」
くしゃくしゃとすずに頭を撫でられた小僧は、襷の端をいじりながら口をへの字に曲げて、ちらりとだけ高志をみる。
「風呂をわかした。入ってもいいぞ」
「これ、入って下さいじゃろうが?」
くすくすと笑うすずにいわれて、小僧はぷっくりと頬を膨らませる。
「ぼくのために、沸かしてくれたのかい?」
「入りたけりゃ、勝手に入れよ。別に、湯焚きの練習をしただけだからな。しないと腕が鈍るんだ」
そっぽを向いたまま小僧がいう。
「早く入ってやらぬか。せっかくの湯が台無しになるぞ」
まったく意味がわからないまま、高志は小屋の中で服を脱ぎ、腰にタオルだけ巻き付けた恰好で表にでた。
ドラム缶に張られた湯の底には簀の子がひかれ、浮かばないように石で押さえてあった。
「では、お先に失礼します」
足場代わりに積まれた石を登り、足先から湯に入る。
肩まで浸かると、たっぷりに張られた湯が、ざぶりと音をたてて溢れ出た。
「うわぁ、気持ちいい。すごくいい湯加減だ」
その言葉に嘘はなく、ひんやりとした朝の空気に冷えた体が温まるにはちょうど良い湯の温度で、森中に響く鳥の鳴き声が開放感を後押しする。
「気持ち良いそうだぞ?」
小僧の顔をすずが覗き込むと、への字にしていた小僧の口元が僅かに緩み、鼻がぴくぴく膨らんでいる。
「夜遅くから火をおこしていただろ? これだけの湯を沸かすのは大変だったろうに。ありがとな」
小僧の緩んだ口元に、少しは口をきいてくれるのかと声をかけた高志だったが、あからさまにぷいと顔を背けられ、小僧は向こうの茂みに姿を隠してしまった。
「こりゃ、そうとう嫌われてるな」
そんな様子を見て、バッテンとすずが可笑しそうに笑っている。
「一人で川の水を運んだようだが、この桶でそれだけの水を運ぶのは大儀であったろうよ」
すずが手にしている桶はバケツよりも小さく、いったいどれだけの回数を往復すれば、これだけの湯を張れたのかと、考えただけで筋肉痛になりそうだった。
「それにしても、なんだってこんな苦労までして風呂なんて」
もしかしたらこれは、殺そうとしたことへの謝罪なのだろうか、と高志は思った。
体はすっかり温まったが、茂みに入ったまま小僧は出てこない。
「ああ、いい湯だった。これだけの湯を沸かせる御湯番見習いなら、いつかはきっと、この世で一番の御湯番になるんだろうな!」
独り言とはいえないほどの大声でいうと、茂みの中でぼきりと枝の折れる音がして、次には何かにぶつかりどさりと尻餅をつく音が響く。
ひとり笑いをかみ殺していた高志は、ここで追い打ちをかけた。
「こんなすばらしい湯加減の湯を沸かせる御湯番見習いがいたならぜひ、その手で沸かした猿湯に入ってみたかったな!」
茂みの奥を、ざざざっと駆け抜けていく音がした。
逃げられたかと思ったその時、離れた所で小僧が茂みから飛び出し姿をみせた。
朝焼けに染まりだした東の空からは、もういつ朝日が顔を見せてもおかしくはない。
小僧が真っ赤になった頬で唇をきゅっとつぼめ、仁王立ちになって高志をみている。
「いっぺんくらいなら猿湯に入れてやらぁ! ただし人の子ごときが、二度も游湯屋に辿り着けたらだけどな!」
真っ赤な頬で、小僧が笑う。
屈託のない、笑顔だった。
日が頭を覗かせ、枝葉の間を縫って光の筋が差し込んだ。
「ごめんな!」
小僧が手を振る。その目は真っ直ぐに高志を見ていた。
「きっと游湯屋に帰るからな。ありがとうな!」
きらきらと差し込んだ朝日の中、大きく手を振る小僧の姿が霞んでいく。
「こっちこそ、いい御湯をありがとう」
今だぱちぱちと火の粉をあげる薪だけが、確かに小僧はいたのだと、小さく叫んでいるようだった。
一人前になった小僧の姿を想い浮かべながら、は湯の中で高志は目を閉じる。
「ねぇ、すず。あの茶碗、この小屋に置いていこうかと思うんだ」
湯をでて体を拭きながら、高志はいう。
「割らずに、生かすのか?」
すずは反対している風でもなく、淡々と尋ねる。
「うん。思うんだけど、この小屋はたぶん普通の人だけでは、立ち寄ることができないんじゃないかな。だから、置いていこうと思う。彼には、時間が必要なんだ。なにも考えないままでは、死ぬことも自分を許すこともできないよ。だから、時間をあげよう。どうしたら、悔いのない終わりを迎えられるか」
「あいつが自分を許すことなんて、あるわけないと思うねぇ。馬鹿なことをしたが、馬鹿な奴ではないからねぇ」
バッテンが、考えるように顎に手をやった。
「それにしても、殺されなくなったとして、どうやって家に帰るかだよな。神さま七人を助けるとか、ぜんぜんできなさそうだし。なあ、この先どうしたら帰れるのさ」
「もういつでも帰れるぞ」
不思議そうに小首を傾げるすずの横で、バッテンも当たり前のように頷いている。
「何がどうして帰れるわけ? 帰れるのは嬉しいよ、嬉しいけれど神さま七人ていうのはどうなったの? 意味わかんない」
「七人の神の役に立てば良いとはいったが、もうすでにおまえの事を役にたったと思っている神は七人を超えた。それと同時に、ここから抜けられぬ結界を張っていた当の黒楽茶碗があの様では、すでに結界など意味を持たぬであろうよ」
神さまの役に立った記憶が丸でない。神さま相手におにぎりを配りまくったような気がするが、それで御利益が得られるほど、神仏界は甘くないと思うのだが。
納得できず首を捻る高志は、頭の隅ではじけた疑問とその答えに、ぽんと手を打った。
「すず達は理に縛られているといったよね? 答えて欲しい時に答えてくれなくて、ひょんな時には当たり前のように教えてくれるのを、妙だと思っていたんだ」
ほぉ、すずが肩眉を上げた。
「ぼくのきき方が悪かったのか。答えを知りたいなら、具体的に、だろ?」
すずとバッテンは、答えることなく顔を見合わせ笑った。
「具体的な内容で直接尋ねられなければ、答えることはできない。それが理じゃないのかな?」
「今ごろ気付いても、何の役にも立たんな。すでに家に帰る道は開けたし、身の危険もない。藥師屋へも迷わずいけるであろうから、体の不調も取り除かれる」
そうだった。当初の目的である藥師屋へいって、体の中にあるという苦緑神清丸を何とかしなくてならない。高志は息を吐いて、首を掻いた。
「よし、ここをでたら、薬師屋を目指そう。最近胸の痛みは治まっていたけれど。それにしても、胸の痛みはどうして急に始まるのかな?」
「まったくアホウだな。胸が痛むのは、命に関わるような輩が近くにいることを、苦緑神清丸が知らせているのだろうが。己の宿主の命を守るためだ」
いわれてみて振り返ると、まさにその通りだった。高志は頷いてあぁ、と声を漏らす。
「だということは、やっぱり黒楽茶碗はもう力を失っているか、ぼくを襲う気がなくなったかのどちらかだ。少し前からまったく胸が痛まなかったから、すでに力は衰えていたのかもしれないね」
高志はふと目を閉じて、考えにふけり何度も腕をくみ直した。
「何でも答えてくれるとはいっても、中には答えられないこともあるよね?」
「もちろんだよ。それに、全てを知っているわけではないからねぇ」
バッテンがいう。
「なら、これには答えられる? ぼくが迷い込んでいた世界を、完全に抜けて家に帰ったとする。そのあと、またこの世界へ戻って来ることは?」
「戻って来られるのは七年後だ。人の子にはそれが限界。当たり前のように此処におるつもりだろうが、そうではないことが家に帰ればわかるであろうよ」
七年も戻れないのか、と高志は息を吐く。妖にとっては束の間でも、人にとっての七年は長いものだ。
「もうひとつ。唐傘の女将がこの先の宿屋にいるだろう? 連れて帰ることはできるかな?」
するとバッテンが寂しげに睫を伏せ、ゆっくりと首をふった。
「こればかりは、あの茶器の力が弱まっても何ともならないよ。坊を逃がすために、唐傘の姉さんが自ら受け入れた呪いだからねぇ。その呪いが終わるとするなら、呪いの元である茶碗の命がつきる以外には考えられないねぇ」
唇を噛んで、宿屋がある方へ高志は視線を向けた。
「なら、もう一度女将に会うことはできるかい?」
「今なら、大丈夫だろうさ。いってみるかい? わたしも唐傘の姉さんに用があるからちょうどいい。いってみようじゃないか」
薄く微笑んだばってんが歩き出すのを見て、高志もあとに続いた。口を挟むことなく眺めていたすずは、少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、高志の横を静かに歩く。
しばらくして森を抜けると、見覚えのある古い宿屋が見えてきた。以前と違うのは宿と森を分かつ川の幅が、驚くほど狭くなっていることだった。
前は靴を脱いで渡ったのに、今ならひょいと飛べば飛び越えられそうだった。
「坊、川の水に足を浸けずに飛び越えるんだよ。水に触れると、あちら側からもどれなくなるからねぇ」
そういったバッテンは、川の水を漕ぐようにゆっくりと水に足をしたして渡っていく。妖と人では縛られる理が違うのだろうかと、高志は首を傾げつつバッテンの言葉に従い一気に川を飛び越える。
小屋の戸口をバッテンが叩くと、中から出てきた女将は高志達をみて目を丸くした。
「何やってるんだい?」
「心配しなくて大丈夫さ。唐傘の姉さんには、寂しい思いをさせちまったねぇ」
バッテンが頭を下げると、唐傘は泣きそうに顔をくしゅりとさせたが、ばかだね、と小さくいった。
宿の奥から出てきた男を見て、驚いたのは高志だった。
「あのときの」
目の前で目尻に深く皺を刻んで笑っているのは、小屋で初めてあった男だった。
「あなたは、いったい」
「番傘だよ。しがない番傘だ。あのあとすぐに、唐傘の元に戻ったのさ。本物の雨で水かさが増すしょうな川じゃないんだよ、あれはね」
おそらく高志が戻らないようにと、嘘をついたのだろう。
騙されました、と高志も笑った。
「ところで、何をしにきたのさね? あいつは弱ってるんだろ? 流れてくる気でわかる」
唐傘がいいながら眉を顰めた。
お入り、といって小屋の中へと戻っていく唐傘のあとに高志も続く。
「唐傘、ぼくは黒楽茶碗をあの小屋に置いていこうと思うんだ。そうしたら唐傘を今すぐ連れて帰ることはできなくなるけれど、許して貰えないだろうか」
俯く高志の顔を覗き込んだ、唐傘の目元が笑ってる。
「あたしを連れて帰ろうと思ったのかい?」
「うん。今の家は狭いアパートだけど、将来は広い家を造るよ。建築家を目指すって決めたからね。父さんが売ったりあげたりして、みんなばらばらになってしまったけれど、みんなで一緒にいた方が楽しいだろ? 噂を聞きつけて、昔の仲間も消息を知らせてくるかもしれない」
「傘の骨ひとつ直せなかった坊が、建築家ねぇ。まさか糊で貼りつけたり、紐で柱をくっちばって建てる気じゃないだろうね?」
「誰がそんなことを。ちゃんと建ててみせるさ」
背をそむけて、肩を揺らし笑う番傘をちらりと見やって、唐傘は高志に濃い茶色の古い番傘をさしだした。
「静かに開いて、中の骨を見てごらんな」
確かに勢いよく開けば、張られた油紙がぼろぼろと破れそうなぼろ傘だった。
高志は慎重に傘を開き、骨の張られた内側を覗き込んだ。
「何だこりゃ?」
丈夫な造りの番傘は張られる骨も多いが、その一本が折れたことがあるらしい。 細く切ったもので骨をぐるぐる巻きにしているのは、煤けてた包帯だった。
しかも巻かれた包帯の端から、余程の量を塗りたくったらしい乾いた糊がのぞいている。
「何だもクソもないよ。坊が直したんじゃないか。もっとマシなやりようがあるって、あたし達は止めたってのに、決めたらがんして聞きやしない」
笑いを堪えていた番傘が、とうとう押さえきれずに腹を抱えて笑い出し、着物の袖をまくって右の腕を晒してみせた。
「これって、ぼくが? 不器用にもほどがあるね」
番傘の右腕には、煤けた包帯が無様な様子で巻かれ、その下からはみ出た糊が肌を覆っている。
「だが、坊がこうやって修繕してくれていなければ、わたしは死んでいただろうよ。今じゃ、結構気に入っているんだ。この妙な巻き方の包帯がね」
「ごめんなさい」
しょんぼり高志が謝ると、笑い声が湧き上がった。
「このくらいでしょげていたら、あとで身が持たないよ。あたしら何てマシな方さね。他の連中の中には、もっと酷い修繕をされた者が大勢いてね。あの姿を思い浮かべるだけで、毎晩まくらを涙で濡らせるってもんさ」
親切もそこまでいくと、はた迷惑だったことだろう。これほどまでに自分が不器用だなどと、まったく自覚していなかった高志は、あまりのショックに自分の胃がひび割れる思いだった。
「それだけやらかしておれば、黒楽茶碗のことがなくとも妖に恨みを買うなぁ。せっかく生き延びたというのに、此処をでても、今度は恨み返しを恐れて生きる毎日とは、難儀じゃの」
のんびりというすずの顔が、ぴくりとも笑っていないのが恐い。
「坊のことは、あたしらみんなで育てたようなもんだからねぇ。母さんは寝込むことが多くて、そんな日はあたしらに坊をあずけて、体を休めていたものさ」
母さんにも、唐傘達が見えていたのか。
思えば幼い頃から、この世の者ではない何かを見続けてきた。遺伝、ということもあり得るのかもしれないと高志は思った。
「番傘なんて、危うくチャンバラごっこの棒代わりにされるところでさ、さすがにあのとは全力で坊を止めたよ」
懐かしそうに、目を細めて唐傘が微笑む。
「とにかく、あたしのことは気にしなくていいから、とっととお帰りな」
悔しいがそれしかない。いま高志にできることは何もない。それが悔しくて、高志は奥歯を噛みしめた。
「唐傘、七年だ。七年たったら、必ず会いに来る。その時連れて帰れなかったら、また七年後。連れて帰れるまで、何度だって来るから」
高志の言葉に唐傘は目を細め、形のいい唇が僅かに震える。
「生意気になったもんさね。ほら、商売の邪魔だ。さっさといっとくれ」
手のひらで高志達を払うようにして、唐傘はそっと目尻に着物の袖をあてた。
「行こうか」
川の縁まで、見送りにでた唐傘が、ひらひらと手を振る。
「川の水に、足を浸けるんじゃないよ」
唐傘の声に頷き、高志は一気に川を飛び越えた。勢いのままに数歩走って振り向くと、川の向こうにバッテンの姿があった。
「バッテン、早くおいでよ。番傘も、一緒にこれるだろ?」
バッテンがにこりと微笑むその手には、己自身である提灯がぶら下がっていた。
「勝手に抜かせてもらったよ」
バッテンがいう。
「バッテン?」
「わたしは、ここに残るよ。唐傘の姉様に寂しい思いをさせたくはないからねぇ。それに、わたしは川の水を踏んでこっちへ渡ったから、出て行けといわれても、もう戻れやしないから」
「わたしも残るよ。二人より、三人の方が、楽しいだろう?」
番傘がいう。
高志に川の水に足を浸けるなといったバッテンは、川の中を歩いていた。人と妖では違うのかと思っていたが、最初からここに残るつもりだったのか。高志はなすすべもなく、ほんの少しで手の届く場所に立つバッテンと番傘を黙って見つめることしかできなかった。
驚いてバッテンをみた唐傘も、何か言いかけて、ふぅ、と息を吐く。
「馬鹿だね、大馬鹿だよ」
それぞれが、己の道を歩き出した瞬間だった。
妖にとってはほんの一時、人にとっては長い時間を、同じ方を見ながらそれぞれに歩いていくのだろう。
「必ず、必ず迎えにくるから!」
手を振ふりながら後退っていくと、川幅が一気に増して、人では渡れぬ荒れた流れが双方を完全に引き裂いた。
みんなの姿を目に焼き付け、手をひとふりして精一杯笑って見せた高志は、背を向けて一気に走り出した。
迷わせ小僧などいなくとも、道に迷いそうなほどに視界がぼやけて、頬を幾筋もの涙がつたった。
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あと3話~




