38 神でもなく 妖でもない者
猩々非の帯が男の放った黒い渦の固まりを弾き、鮮やかな深紅の残像を残して霧散した。
「おまえも、裏切るのか」
男の眉根が寄り、森の闇に似た黒い瞳が何もない虚空を睨む。
男が見据えた方へ視線を向け、高志は息を呑んだ。
ぽとりと地面に落ちていた煙管から、ふわりと煙が立ち昇り崩れ落ちたように震える手で体を支え、座り込む姿を現したのは半色の地に猩々非の帯を締めたあの女だった。
「裏切っちゃいないよ」
肩で息を吐く女の口の端から、とろりと血が一筋流れる。
「ならばなぜ、猩々非の印のみ刻まなかった。闇の中でもわたしには、はっきりと見えるのは気のせいか? 猩々非に混ぜて、半色の印がこの男に刻まれているように見えるが。裏切る気がないのであれば、刻まれるべきは猩々非の印のみ。違うかな? 濃艶」
男に濃艶と呼ばれた女は、心底嫌そうに顔を顰めると、血の混じった唾をぺっと吐き出す。
「勘違いしてもらっちゃ困るね。あたしはこのクソッタレ坊主に、土下座して詫びさせるといったんだ。てめぇの片棒担ぐなんざ、ただのひと言もいっちゃいないね」
猩々非の帯は結び目が緩んでほどけかけ、綺麗に後ろで束ねた髪もほつれて、細い顎先にはらりと垂れている。
「クソッタレ坊主の手首に、猩々非の印のみが残ったなら、それは生かしておいても、謝って貰う価値さえない野郎だってことさ。でもね、残ったのは半色の印だったろ。猩々非の印は、跡形なく消えたんだ。こんなアホウでも生かしておいて、あたしに謝らせてやるくらいの価値はあるってこったよ」
「この男に、己の運を任せたというのか?」
「あたしの生き方はあたしのもんだ。クソッタレ坊主がどっちの手を出すかくらい、とっくにお見通しさ。ただ、一度は猩々非の印を刻まないことには、てめぇが黙っちゃいなかったろう?」
濃艶が、この場に似つかわしくないほどの色香で微笑んだ。
「謀ったか」
「謀るのはてめぇの十八番だろうが。このクソッタレ坊主を、他人様の手で殺されちゃあ困んだよ」
「濃艶よ、この男をその手にかけるつもりか?」
ふらつく膝に手を当てて、濃艶が立ち上がる。
この世の色香の全てが宿ったように僅かにつり上がる大きな瞳が、地面に落ちて燃える提灯の灯りを受けて、ちろりちろりと妖艶に揺れた。
「殺したら、それで終いだろうが! あたしはね、絶対に殺してなんかやらないよ。一生かけて、謝り倒して貰うつもりさ!」
「袂を分かつか」
口元に袖裾をあてて、濃艶が声を立てて笑う。
「最初から触れてもいない袂ろうが。てめぇなんざに触れたら、あたしの綺麗なベベが腐っちまうよ!」
口の端で、男が嗤う。
男の周りで蠢きはじめた渦が、黒い着物の袖口をぶわりと広げ、裏から覘いた赤色は、血を舐めた舌の色を思わせた。
「ならば、もろとも死ね!」
男の手から、黒い渦の固まりがもぞりと生まれ、添えた手の指をぴくりと動かした刹那、弾かれたように黒い固まりが尾を引いて放たれた。
男の言葉が先か、放たれた物が先かなどわからないほど一瞬の出来事だった。
「坊!」
濃艶が、おぼつかない足では間に合わぬといわんばかりに、放たれた黒い固まりと高志の間に身を倒し込む。
背後でバッテンの草履が、しゃりと土を蹴る音がした。
――駄目だバッテン、来ちゃいけない。
人の体で反応できるはずもなく、高志は今度こそ身を捻る間もなく、男の殺意の矛先に晒された。
これまで、と目をきつく閉じたというのに、高志の体を襲うはずの衝撃も痛みも、一向に訪れはしなかった。
腕の隙間から恐る恐る目を開けた高志は、想像だにしなかった光景に息を呑んだ。
「今更何を。邪魔立てこそすれ、天狗の里でこの男を殺そうと企てた時も、鈴に身を潜めたまま、指一本動かさなかったではないか」
男の表情は変わらない。しかしその声は、明らかに苦痛に歪んでいた。
「わしも、理の内に存在しているのでな。あの時は手を出さなかったのではない。だせなかったのじゃよ。このアホウと縁のない、天狗達の目があったからのう」
「なに?」
まるで風車に手を翳すようなゆるりとした格好で、男の前に立ちはだかっているのはすずだった。
確かに男が放ったはずの黒い渦の塊を、持ち上げた片腕で容易に止めている。
「このアホウの命に関わるなら、周りに余計な者が居てはならぬのが理。わしがこの争いに手出しが許されるのは、それを目にすることが許された者のみが居るときに限られておってな。先におまえが放った物を止められなかったのも、濃艶の真意を測りかねていたからよ」
「濃艶の真意だと?」
みしみしとひび割れた瀬戸物が軋む音がして、男の顔を分かつように額から幾筋もの血が流れた。
「濃艶がアホウの手首に印を刻んだのは、鈴に身を潜ませていても直ぐにわかった。問題はその印じゃ。濃艶は異なる色を用いて印を刻んだであろう? そのせいで、敵に転ぶやもしれぬ濃艶の心を見切れなくての」
「濃艶がわたしを裏切ったことで、理に添えるようになったというわけか」
くくくっ、とすずが喉を鳴らす。
「たわけが。理に添うため側にいることが許されるのは、このアホウと共に過ごすとを心に決めた者のみ。こんなアホウの短い命が尽きるまで、その命に添い遂げようと濃艶は決めた。命まで賭けようとしたからの。だからわしはこうして、おまえに相対することができたのよ」
背を向けているすずの表情は、高志から伺い知ることはできなかった。
新緑に似た淡い緑色の光が、すずの体を覆っていた。
その光は淡く、風もないのに障子越しに揺らぐ蝋燭の灯りのようだった。
揺らぐ緑色の光を追っていた男の目が、零れんばかりに見開かれる。
男が切れ切れの息を漏らした音は、まるで笑っているかのようだった。
「妙だとは思っていた。わたしに逆らうにしても、在り方が尋常ではなかったからなぁ。神でもなく、妖でもない。おまえは……」
言葉の最後は自身の呻き声にかき消され、最後まで語られることなく消えた。
すずを覆う淡い光がその色を増す。
「人を呪わば穴ふたつ。おまえには、数多の穴が穿たれるのであろうな」
問うことも止めることもできず、高志は立ち尽くしていた。
目の前で起きていることだというのに、まるで現実感がない。
すずの悪ふざけと思った方が、まだ納得のいく光景だった。
「人と妖は相容れぬ。妖と神も同じことよ。おまえの願いなど、朝露より儚いものだと、なぜ気付かぬ? 愚かな」
それが男の最後の言葉だった。
すずの光に押されて、少しずつ縮まっていった黒い渦の塊が、水をかけられた蝋燭の灯みたいに一瞬にして姿を消した。
男を包み込むように広がった光は、爆発した炎がそうであるように一気に収縮する。
光が消えた後に、男の姿はなかった。
地面にころりと、黒い茶器が転がっていた。
いつもの軽口さえないまま、すずがふらふらとその場を離れる。
腰が抜けたようにどさりと座り込んだ濃艶は、天を仰ぎ瞼を閉じた。
本当なら直ぐにでも、すずに声をかけるべきだったと思う。
だが高志は黒い茶器に魅入られたように一歩、また一歩と茶器に近づいた。
バッテンがすずの肩に手をかけているのが、目の端に見える。
燃え尽きて燻る提灯の灯りを失い、薄い月明かりだけになっても、黒い茶器はぬらぬらと湿ったような艶を放っていた。
どうしようもなく、引き寄せられる。
高志はしゃがみ込んで、黒い茶器へと手を伸ばす。
「馬鹿者! それに触れるな!」
すずが叫んだのと、高志の指先が茶器に触れたのは同時。
駆け寄ってくる足音を聞いたような気がしたが、渦潮に呑まれる速さで、高志の意識は黒い茶器へと吸い込まれていった。
読んで下さってありがとうございます!
あと5話で完結です
最後までお付き合いいただけますように……




