37 その意味は 手のなかに
時の流れに薄くなった文字は、それでもはっきりと読み取れる。
坊やが 元気いっぱい育ちますように
自分らしく 思い切り楽しい人生を
思うがまま、生きてくれますように
文面の最後に書かれていたのは、幼い頃に亡くなった母の名前。
父親は母さんのことを話したがらなかったから、高志の中には母さんの記憶どころか、聞き伝えに知った母さんの思い出話しさえ少ない。
唯一残っているのは押し入れの奥から見つけた、高志がまだ生まれる前の母さんの写真が一枚だけ。
他の物は写真も日記も、母を失って悲しくて苦しくて、心を失いそうになっていた父親が、全て焼き捨ててしまったから。
だから古い写真を見つけたとき、父親には内緒で高志は、こっそりと隠し持つことにした。
幼い頃は、ひとり写真を眺めて問いかけた。
母さんはぼくが好きだったのかな?
ぼくを、可愛いと思ったかな?
どんな大人になったら、母さんは喜んでくれるかな?
楽しい時も、辛い時も一枚の写真にすべてを語った。
写真の中の母さんに言葉はない。幼い頃は、それが寂しくてまた泣いた。
でも今は、その答えの全てがこの絵馬の中にある。
涙が溢れた。
とめどなく流れる涙を手の甲で拭い、高志は微笑む。
自分でがんじ絡めにして、身動きひとつ取れなくなっていた心をが溶けていく。
心が息を吹き返し、体に血が通う。
抱えていた問題の進むべき道も、ぼんやりとやり過ごしていた己の命を抱えてここから抜け出す意味も、全ては今、高志の手の中にあった。
「自分らしく。それでいい」
どの方向にいるのかさえわからない地主神に、高志は深々と頭を垂れる。
頭を上げると涙に滲んだ視界の中、夕焼け向かって歩きながら、小さく手を振る地主神の姿が見えた気がして、高志は慌てて涙を拭った。
夕日が刻一刻と、空の模様を変えていく。
そこに地主神の姿はないが、この夕焼けを見ているだろうか。
藍色の空と、影を落とした木々の葉が涙で綯交ぜになる中、高志は少しだけ丸まった地主神の背中を思い浮かべた。
今はただ、その背中に届かぬであろう想いを馳せた。
釣り道具を返して一旦宿に戻ると、すずとバッテンが姿をみせた。
「嬉しそうじゃの?」
鈴に宿っていても話は聞こえていただろうに、わざとらしくすずがいう。
「べっつに。もう大人ですから、冷静に受け止めています。はしゃいでなどいません」
「その割に、さっきから鼻歌が多いよ。耳障りだねぇ」
小指で耳をほじるバッテンの、提灯が入ったリュックに片足を乗せる。
「踏んでやろうか?」
伸びをした犬のように手を伸ばしたバッテンが、さっとリュックを掠め取り、高志を睨んで抱え込む。
「腹が減ったぞ。祭りを見るついでに、晩飯だな。イカ焼きをたべるぞ!」
見るついでといったって、どうせ見て回るのは高志一人だ。ひと目につく所で、二人が姿を現すことはないのだから。
「イカ焼きばっかり食ってたら、腹壊すって。消化悪いのに」
「イカ焼き!」
どうしてここまでイカ焼きが好きなのか知らないが、結局はすずの勢いに押されて、高志は祭り会場へいくことにした。
「遠いのに」
宿のおばちゃんの好意で、ふたたび自転車を借りた高志は、鈴をポケットのいちばん奥へと押し込み、できる限りサドルと尻でごりごりと潰すようにして走った。
これくらいでは、この鈴が壊れないことはわかっている。
ささやかな復讐である。
祭り会場は、思った以上の人出でごった返していた。
いくつか食べ物を見繕い、食べ物の屋台が立ち並ぶ域を抜けると、人の流れが少しだけ穏やかになる。
植木の叩き売りを懐かしい気分で眺めていると、小さな子供が五十円と付けた値に、親爺が「売った!」とハリセンで木の机を叩く。
周りを囲む客たちから、拍手が湧いた。
「田舎の祭りは、やっぱり面白いや」
人気のない場所を探すうちに、十数件がビニールシートに品を並べて売っている古物市を見つけた。
ビニールシートに並べているというだけでも、価値のあるものはなさそうだ。
売っている側もプロの収集家ではなく、家にあった古物を持ってきたという感じで、値段もフリーマーケットさながらの安さだった。
買ったイカ焼きが冷えてすずに文句をいわれそうだが、少しだけ見ていこうと高志は店を覗いて歩くことにした。
いくつかの店を巡るうちに、ひとりの男が高志の目を引いた。
その老人は並べられた商品を丹念に眺め、何も買うことなく次の店へ移るを繰り返していた。
その老人の手が、古びた硯の上でピタリと止まる。
「ほう」
微かに老人がため息を漏らしたのを、高志は聞き逃さなかった。
となりの店に居た高志は、自然を装って男の側に近づいた。
ガラクタばかりの中に、お宝が眠っていることがあるのが古物市。
それを見つけたのなら、見逃すわけにはいかない。
――あれ?
老人の手が持ち上げる寸でに、使い古された硯が、身を捩らせるように僅かにづれたような気がした。
「わしと来るか?」
硯を手にした老人は囁くようにいって、シワだらけの指で墨の染み込んだ表面を優しくなぞる。
古物の中でも、カスに属するものだったのだろう。片耳に聞こえてきた値段は、ただ同然のものだった。
高志は興味もない茶碗を手に、純粋な客のふりをした。
だがそんな小芝居は、老人の一言で見事に粉砕される。
「おまえさん、見えたな? こいつが身じろぐのを」
老人の顔は、高志の方には向けられていない。
素知らぬ振りで立ち去ろうとした高志の肩を掴むように、老人の声が背後からかけられた。
「逃げなさんな。同じ人間がいたのかと、少し嬉しく思っただけだよ」
可笑しそうに笑う老人は、高志を追い越して歩きだすと、誘うように視線を向けた。
軽く頭を下げ、横に並んでゆっくりと歩く。
「これを引き取ったのは、わたしの我儘だから。このまま人と触れることなくいた方が、これのためだったかもしれないが」
「ただの硯ではないと?」
「これが身じろいだとき、おまえさんは驚いて息を吸い込んでいたじゃないか。なのに今更聞くのかい?」
やはりあれは、気のせいではなかったのか。
「この国には、古き良き時代の遺産がたんまりと眠っている。これはまだ目覚めたばかりの赤ん坊みたいなものだね」
鬼集家かと思ったが、老人は違うといった。
「わたしも先は長くない。この硯も多くの人の手を渡って、再び市に並ぶ日が来るかもしれない。それでも、ほんのひと時でもいい。日の目を見せてあげたいと思ってしまうのだよ」
この硯に宿る者を知りながら、それを大切にしようと老人がしているのを感じて、高志はなぜだかほっとした。
一度何かが宿ってしまった物は、魂を持つ。
悲しみ、笑う。
「そううそう。呼び止めたのは、もう一つ理由があってね」
一件の店の前で立ち止まった老人は、無造作に籠に詰められた煙管の中から一つをつまみ出し、高志に見せた。
「この店にはまだ立ち寄っていないだろう? この煙管がやたらとおまえさんを呼んでいたのでね。微かな声だったが間違いないよ。何に力を使ったのか、かなり弱っているみたいだね」
煙管をよく見ようと受け取った高志は、急に熱を持った左手首に思わず顔を顰める。
「この煙管、確かに知っています」
バスの中で、女が猩々非の帯に差していた煙管だった。
「この人の元にあってこそ。そんな物もこの世にはあるのからね。これは、おまえさんが持つべき物だと、わたしは思う」
老人は店主に値段を聞くと、金を払い穏やかに笑った。
「あの、お金はぼくが払います」
慌てて財布を取り出そうとする高志を、老人のごつごつとした手が抑える。
「気にしなくていいよ。その煙管とおまえさんを、引き合わせることができて良かった」
硯を大切そうに懐にしまうと、ひらひらと手を振って老人は去っていった。
老人が横を通り過ぎたとき、懐から小さな声がした。
「何処にいくの?」
その声は明るい、男の子の声だった。
煙管を手に眺めながら、人の少ない公園の隅まできた。
ほとんど人気のない立木の裏に腰を下ろし、すずとバッテンに夕飯を食べさせようと思ったとき、目の前にある林の中からすっと風が吹いて、高志の前髪をさらりと揺らした。
「あの人だ」
高志は手の中にある煙管と、猩々非の帯を締めてゆらりと林の入口に立つ、赤い紅の女を見比べる。
表情のないまま、女が高志を手招きする。
少しだけ迷った高志は、立ち上がって女の元へと近づいた。
力なくて招いていた指先がたらりと下がり、女の視線が高志の手の中にある煙管へと落ちる。
口を開きかけた女は、語ることなく煙管の中へと姿を消した。
「まさか本体が、古物市で売られていたとはね。このためにぼくを、この町へ呼び寄せるような真似をしたのかい? それとも、目的は他にもあるのか?」
物言わぬ煙管をリュックへ仕舞おうと、しゃがみ込んだ高志の顔に吐き出された白い煙がかかった。
手にした煙管から、白い煙がぶわりとあがる。
あっと思う間もなく、煙を吸い込んだ高志の視界が暗転した。
見覚えのある小屋の前に、うつ伏せに倒れたまま高志は目をあけた。
ジャリ、ジャリ
草履が土をする音に高志が顔を上げると、提灯を持った迷わせ小僧が立っていた。
空いた手に、先の尖った太い木の枝を握りしめている。
「死んじまえって言ったのに!」
木の枝が、頭上高くに振りかざされた。
「御湯番に会ったぞ! 游湯屋の御湯番だ!」
びくりと、迷わせ小僧の肩が跳ねる。
リュックの口を開け、大事にしまってあった手ぬぐいを取り出し、高志は迷わせ小僧に差し出した。
「これを預かった。渡してくれって。游湯屋へ帰れなくなったのは、ぼくのせいじゃないよ。神々が通る泉から游湯屋までを繋ぐ道が、山道が作られたせいで途中で途絶えていたんだ」
「そんな、そんな話ってあるかよ」
「本当だよ。御湯番さんが、途切れた道に看板を立て直しているはずだ。だからもうすぐ、游湯屋への道が繋がる。帰れるんだよ」
おずおずと小さな手が伸びて、手ぬぐいを掴む。
顔にぐっと手ぬぐいを押し当てた迷わせ小僧が、腰を抜かしたようにぺたりと座った。
「御湯番さんからの伝言だ。帰ってこいって。道が繋がったら、帰ってこいって」
いつの間にやら、すずとバッテンが姿を見せていた。
おんおんんと山中に響く声を上げて、迷わせ小僧が泣いている。
赤子をあやすように、すずがよしよしと頭を撫でた。
「迷わせ小僧は居なくなったな。ここにおる小僧は、将来の立派な御湯番じゃ」
天を仰いで小僧が泣く。
月がかなり高く昇った頃になって、ようやっと泣き止んだ小僧は、ぺこりと頭を下げ、何やらすずに耳打ちすると、提灯も持たずに闇の向こうへ走って消えた。
「何だって?」
くふふ、と笑いすずが小僧の消えた先を見やる。
「今夜は、この小屋に泊まっていけとよ」
たしかに、このままでは小屋に泊まるより他ないだろう。
「ちょうど食べ物もあるしね、中に入ろうか」
立ち上がって膝の泥を落としていた高志の背後に、ぞわりと首筋が泡立つほどの気配が立った。
「今夜だけといわず、ずっといれば良い」
すずとバッテンが、高志の前に身を滑らせる。
黒い着物の男が立っていた。
「ずっとだって?」
「屍となれば、ここが栖となろうよ」
一歩足を進めた着物の裾が捲れて、べろりと赤が覗く。
「生憎だったな」
「ほう、逃げる策があるとでもいう気か?」
「ないさ」
男が哂う。
「だが、生きてここを出る、意味を見つけた」
すると左手首に熱湯をかけたような痛みが走り、高志は歯を食いしばって呻いた。
抑えた手をよけると、半色の痣だけが残り、猩々非は立ち上る煙が姿を消すように、跡形もなく消えていた。
「死ね!」
男の声と共に放たれた、黒い塊を避けようと、咄嗟に高志は身を捩る。
男と高志の間に、猩々非の光の帯がするりと舞った。
読んで下さってありがとうございました!




