23 黒い天の川(前)
「どうした? 何かあったのか?」
その声に我に返ると、狭い床下で無理矢理姿を現したバッテンが、湿っぽい地面に這いつくばったまま、心配そうにテンテンをみていた。
「大丈夫だ。おら別に、どうもしちゃいないよ」
「ならいいけれど、ここへ戻ったままいくら待っても動こうとしないから、何かあったのかと心配したのだよ。本当に大丈夫だね?」
テンテンはこくりと頷くと、白い歯を覗かせて少しだけ微笑んだ。
「お客様が来ていて、雲海天狗様には会えなかった。だから、情報がつかめなくて」
「かまわないよ。さて、これからどうする?」
どうしたらいいのだろう。
自分の胸も頭も空っぽで、問いかけても何の答えもでてこない。
いっそ如月の兄様のところへ戻って、事の真実を話してみようかと思ったその時、頭上の床上を幾人もの足音が騒がしく行き交い、御留守番役の怒声が響いた。
「罪人を捕らえたぞ! 手の空いている者は、崖上の極刑場へ向かえ!」
誰かが人の子を捕らえた。
雪崩のような足音が響く中、テンテンは何度も息を吸い込んだ。
胸が裂けそうなほど吸い込んでいるというのに、呼吸は苦しくなるばかりだった。
「落ち着け、急いで息を吸いすぎだ。そのままでは手足に痺れがくるぞ」
胸が苦しくて、見えている周りの景色を織りなす色が、滲んで混ざり合う。
何か話しているのはわかるが、バッテンが何をいっているかは理解できなかった。
バシリ!
横薙ぎに、テンテンの小さな体が飛んだ。
じりじりと痺れる頬の痛みで、バッテンに打たれたこと知る。
テンテンの頬を張り飛ばした、右の拳を振るわせていたバッテンが、もう片方の手でその拳を強く握った。
「しっかりするんだ。ここの仕来りをわたしは知らない。どうにかしたくともその方法がわからないのだよ。テンテンだけが頼りなのだから」
衝撃に一瞬止まった肺が、少しずつ落ち着きを取り戻して空気を吸い込んでいく。
「わたしはどうしても助けたい。提灯などに何ができるわけもないが、それでも助けたいのだよ。テンテンには助ける義理などないだろうから、彼らの近くでわたしを放りだしてくれて構わない。今しばらく、付き合ってはくれないか?」
床上の足音が徐々に引いていく。
屋敷の表で叫ぶ声があった。
「みなの者急げ! 里の長からの伝達だ! 日暮れを待たずに、刑が執行されるぞ!」
里の長からの伝達とは、つまり天上天狗様の命令ということ。
胸を刺すほどの衝撃が、テンテンの体を雷のように抜けた。
「崖上の極刑場へいこう。でも、見物に行くわけではないだろう? 足を踏み入れたら最後、おらはバッテンを守り通す自信がない。あの場にいったらもう、引き返せないぞ」
「あぁ、望むところだよ」
「すずのねえちゃんは、おらに優しかった。泣いて打たれたことはあったけれど、泣いているおらを、黙って抱きしめてくれた人ははじめてだった。母様はおらを産んですぐに死んじゃったから、本当に初めてだったんだ」
「わたしにとってはあの男、坊も似たような存在だ。湖が死にかけていたとき、救ってくれたのも、苦しかったみなに希望を与えてくれたのも坊だった」
「ねえちゃんが、おらに希望をくれたんだ。生きていたら、またこの様な優しさに会えるかもしれないって」
「わたしは掴んだ希望を手放したくない。子供の頃に湖の辺でわたしを拾い、家に持ち帰ったのが一度目。裏切りの代償に、魂が抜けそうなほどに身を裂かれていたわたしを、坊はまた拾ってくれた」
バッテンが浮かべた笑みは嬉しそうだというのに、伏せた睫に悲しみが滲む。
「死ぬのは怖いな。痛いのは、嫌だな」
「わたしもだ。いくつになっても、恐ろしいものだね、痛みも、死も」
異形の者といわれても乾いたままだった、テンテンの目に涙が浮かぶ。
「でもさ、ねえちゃんが苦しいのは嫌だ。ねえちゃんが悲しむのは、もっと嫌だ」
バッテンは、まっすぐに前を見据えるテンテンの頬に手を当てた。
己で打ち据えた跡が赤く残る頬を、そっと撫でた。
「わたしも坊が泣くのは見たくない。笑っていて欲しいのだよ。あの祭りの夜の笑顔のまま、無心に踊るように生きていて欲しいと願うから」
テンテンは、提灯の柄をぎゅっと握った。
「いじめっ子から逃げ回って生きてきたから、足腰なら誰にも負けない。おら、天狗が飛ぶより早く、崖上の極刑場まで走ってみせるさ」
ひとつ頷くと、バッテンはすっと提灯に身を潜めた。
「怖いことなんてないや、もう、失うものすらないもの」
自分に向けられた、異形の者という言葉の響きが、親無しっ子だということより、虐めっ子よりも強烈な痛みを伴って、テンテンから帰るべきはずの里を奪おうとしていた。
「わたしもだよ。失って惜しい命など、持ち合わせてはいない。坊を失ったら、この世の何処にも、居場所などないのだから」
提灯から微かに、バッテンの声が流れる。
「いくぞ!」
床下を抜けだし、テンテンは走り出した。
上空を飛ぶ黒い影が崖へと向かっている。
テンテンの足が、滑車のごとく回る。
その速さは、さっきまで右にぶらり左にぶらりとしていた提灯が、突風に吹かれたように真後ろになびくほどのものだった。
崖上の極刑場は、本来翼で飛んで行くものである。
極刑場ということもあり、飛べない小天狗が行くことなどないから、空路以外の道は確保されていない。
地上から崖の上に行くには、崖と反対側の険しい岩場を登らねばならなかったが、石の転がるでこぼこの岩場を、もろともせずにテンテンは走った。
見咎められることを気にしている余裕も、時間もなかったから、テンテンはただがむしゃらに走っていた。
八合目あたりまで登ったとき、耳を劈くような男の悲鳴がこだました。
これに似た悲鳴を、テンテンは前に聞いたことがある。
その男は片目を抉られて、これと同じ悲鳴を上げていた。
「くそ! 間に合え!」
曲者や咎人に刑を執行するにしても、今回はあまりにも仕来りが無視されている。
崖の上に辿り着くまでに、何があってもおかしくはなかった。
駆け上った勢いそのままに崖の上に躍り出たテンテンは、己の目を疑った。
肩に引っかけて握っていた、提灯の柄が小さな手をするりと抜け、乾いた砂を纏う岩場の上に、ばさりと音を立てて落ちた。
「どうしてだよ!」
悲鳴にも似たテンテンの叫びに、その場にいた者が一斉に振り向いた。
その中には、先ほどまで屋敷に居られた雲海天狗様の姿もある。
「如月の兄様がなぜ?」
赤く血走った眼でテンテンを睨む如月の横には、鉈で切り落とされた漆黒の両翼が転がっている。
「どうしてこんな酷いことをしたんだよ! 仲間じゃないか!」
その叫びに答えたのは、天上天狗。
「如月は我らを裏切った。死を持ってしても、償い切れるものではない」
優しくて仲間思いの如月の兄様が、いったい何をしたというのか。
翼を落とされた者は、激痛にのたうち回り、最後には飛べぬのを承知で崖から突き落とされるときいたことがある。
想像しただけで、テンテンの背筋に痺れが走った。
「思わぬところで役者がそろったな。さあて、どうする気かな」
聞き覚えのある声に、テンテンははっとして顔を上げた。
雲海天狗様の床下で耳にした声、テンテンを異形の者と呼んだ男の声。
男は黒い着物を着て、今にも落ちそうなほど崖の縁に立っていた。
その男の手が握り立たせている者を見て、テンテンは凍り付く。
男の手が吊すように握っているのは、探していた人の子だった。すずの姿はないから、鈴に籠もっているのだろう。
「誰かちゃんと説明してくれよ。おらには全然話が見えないよ。どうして如月の兄様がこんな目にあわなくちゃならないのさ! どうして人の子まで巻き込むのさ!」
虐められても追われても、ただ逃げるだけだったテンテンが放った怒声に、その場にいた誰もが寸の間息を吞む。
「威勢がいいな小僧。どれ、わたしが説明してやろう。おまえが慕い続けた如月という男の本性を。優しい口ぶりと面の奥に隠していた本音をな」
男の黒い着物の裾が風にひらりと捲れ、毒々しい赤い裏地がちらりと覘く。
「余計なことを!」
岩を砕かんばかりに響き渡った天上天狗の声が、森の空気を震わせ天狗達はお声をかけられた時のためにと身構えた。
「わたしの申し出を断った時点で、おまえ様はすでに蚊帳の外。事の成り行きは、わたしと、この小僧が握っている。わたしが勝てば幾人かは命を落とすだろう。そして、小僧が勝ったなら大勢の者が助かるか、あるいは天狗の里そのものが姿を消すか」
突然に名をだされて、テンテンは目を剥いた。
襟を掴まれ声がでないのだろう。
人の子がまっすぐテンテンを見て、微かに口元を動かした。
逃げろ、テンテンにはそうみえた。
「如月が死に、小僧が命を落とした後の里など空箱同然。神の集う湯浴処を抱えるこの山が、わたしにはどうしても必要でな」
ゆっくりと腰を屈めて、テンテンは落とした提灯の柄を手に取った。
震える腕を押さえつけ、苦しげな人の子に無理矢理の笑みをみせる。
「さあどうする、異形の子。五百年に一度の厄災と呼ばれし者よ」
読んで下さったみなさん、ありがとうございました!




