18 猿湯の猿と 溺れかけのすずと
貧乏神と別れた高志は、山の隙間を縫うように走るバスに揺られながら、腐食したように色を変え、ひしゃげた鈴を手に握っていた。
すずはどうして自分が鈴に宿ったのか、本当のところはわかっていないのだと思う。
おそらく自分の正体が何者で、どこから湧いて出たのかも。
「ほんとにいつだって、湧いて出たように姿を現すんだから」
そして何よりも高志を守る理由を、すずは見つけられずにいる。
生意気で意地っ張りなすずは、アホを放っておけないだけだといったが、本当は自分の行動そのものに戸惑っているのではないかと高志は思う。
「意地っ張りだから自分のしたことで傷ついても、それを誰のせいにもできないで。肝心なときに文句をいわないんだから、馬鹿なすず」
いつもの胸の痛みはとんと止んでいるというのに、もっと深い所がみしみしと音をたてて痛んだ。
バスの着いた先は山間の小さな町だったが、山々に咲き乱れる桜を見に来たらしい観光客で賑わっていた。
「登山といえばお握りだな」
こんな田舎にも勢力を伸ばしているコンビニに感心しながら、ペットボトルの水と握り飯を二つ買った。
駅の中に併設された、小さな観光案内所のパンフレットを眺めていると、入口から吹き込んだ風に煽られて黄色いパンフレットが足元に落ちる。
机に戻そうとパンフレットを手にした高志は、手書き風の文字を見て手を止めた。
(お子様の足でも一時間かからずに、山頂まで登れるファミリーコース。ハイキングのつもりでぜひどうぞ)
「これかな、貧乏神がいっていた登山口って」
ファミリー向け登山コースの案内には、路線バスでの行き方もかいてある。
「もう一枚あるな」
手にしたのはネイチャーアドバイザーが同行する大人向けのコースのパンフレットで、岩場や川を渡り山頂まで約四時間とかいてあった。
「こんな難所だとはいっていなかったよな」
お子様の足でも一時間というフレーズが、高志の心を鷲掴みにしていた。
迷うことなく、ファミリー向け登山道に向かうバスを探す。
とっくに三時を回っていたが、少しでも早くすずを湯に浸けてやりたかった。
「無理なら今日は下見だけでもいいや」
高志以外にも三人ほとが登山口でバスを降りると、勝手知ったるといった調子でさっさと山道を登っていった。
山道入口に立てられた看板には『みどり公園登山道入口』とかかれている。
エベレストとかヒマラヤとか、命懸けな感じがしないのがいい。
ゆったりとした傾斜の道には燦々と日の光がふりそそぎ、あちらこちらから綺麗な鳥のさえずりが聞こえてくる。
さほど広くない道の先に立ち並ぶ、木々の間に目を凝らしながら高志が進んでいると、なだらかだった道は徐々に傾斜がきつくなり、三十メートルほど枕木で造られた階段の道を経て、ふたたびなだらかな傾斜へと戻った。
「侮るなかれ、ファミリーコース」
運動不足のふくらはぎがパンパンになった高志は、周りに人がいないのをいいことに道の真ん中に大の字に寝転んだ。
息を整えて、シャツの袖で額に浮いた汗を拭う。
下から見上げた木の枝は、日を浴びてきらきらと葉を輝かせている。
「あ、見つけた」
寝転びながら見回していた高志の目に、木に括りつけられた看板が飛び込んできた。
獣道のように細い脇道の少し奥に取り付けられたそれは、真面目に歩いていたなら決して目に留まることはなかっただろう。
「游湯屋って、たぶん温泉だよな」
古びた木の板に書かれた文字は、掠れていたが何とか読み取れる。
高志は立ち上がると看板のある脇道へと入っていった。
三分ほど歩くと、最初より大きい看板が現れた。
『大地の湯 游湯屋』
この道で間違いないと確信した高志は、足取りも軽く先を急いだ。
鈴に姿を隠したままのすずが、今この時にも姿を消してしまわなとは限らない。
自ずと先へと足が進む。
そのあと看板は五回、高志の前に現れた。
回を増すごとに大きくなる看板は、木の板に美しい文字が手書きされており、それはとても心惹かれる巧みな筆遣いだった。
最後の看板にはこう書かれていた。
『游湯屋へようこそ。足元の石段にお気をつけください』
看板の一歩先へ足を進めた高志は、圧巻の風景に息をのんだ。
大小の山々が織りなす谷間に石造りの小屋があり、その周りには大小様々な形の露天風呂が、ゆらゆらと湯気を立ち上らせていた。
「神様のお湯場にもシーズンオフがあるのかな? 誰もいないなんて」
石段を一歩ずつ下りながら湯に近づけば近づくほどそれは立派なもので、人っ子一人いないのが不思議だった。
露天風呂というより、連なる大小の湖といったところだろうか。
「煙だ」
真ん中に立つ石造りの小屋の煙突から、白い煙が立ち上っている。誰かいるのだと思うとほっとした。
広大な露天風呂の淵を廻り込んで石造りの小屋までいくと、入口には燕脂の暖簾に游湯屋と書かれていた。
暖簾を掻き分けようと手を伸ばした高志は、ひっと声を詰まらせて大きく後ろに飛び退いた。
「いらっしゃいませ」
巨人の妖精がいたらこんな声だろうと思える、太く嗄れた声がした。
心臓が跳ね上がって動けずにいる高志の前に姿を現したのは、想像を裏切って驚く程の小男だった。
――小さな貧乏神が、普通の大人に思えるな。
暖簾から顔を出し恭しく頭を下げていた小男は、固まったままの高志を見上げて太い眉をハの字にした。
「お客様ではないのですか?」
湯の流れる音が耳をくすぐるなか、情けない声が無駄な余韻を残して響く。
「いいえ、客です」
何とか小さな声を絞り出した高志をみて、小男は一瞬にして顔を輝かせ強引な客引きよろしく、高志の手を引き小屋の中へと入っていく。
勢いよく高志の手を引いていた、小男が不意に立ち止まった。
不思議そうに自分の手を眺めていた小男は、はっとしたように小さなその手を嗅ぎはじめる。
「そんなぁ」
小男はがっくりと膝を折ると床に座り込み、じんわりと涙の浮かんだ瞳で恨めしそううに高志を見上げた。
「八百万の神様ではないのですね?」
小男はウェ、ウェっと声をあげて泣き出した。
泣き続ける小男を前にどうしていいかわからず、高志は頭を掻く。
「あなたは人の子でしょう? どうやってここへ来たの? 迷子になったって来られる場所ではないのに」
登山の途中で看板を見つけたこと、その先の看板をたよりにここまできたことを話すと、小男は大きく頭を振る。
「そんなこと、人の子には無理だもの」
疑わしそうに高志を見ながら、小男は頬を膨らませる。
「ぼくは神様の薬を飲んでしまったらしくて、人じゃないものが見えてしまうんだ。だから、ここへ来たのも貧乏神様にこの湯のことを教えてもらったからだよ」
「まさかあの二人組の貧乏神様?」
「うん」
「あの愛らしいお姿の貧乏神様?」
「えっと、まあね」
愛らしいの基準は人それぞれだろう。
あちゃー、と小男は頭を抱えた。
「今まで出会った神様はおまえに怒ったか? 怖いお顔でいらっしゃったか?」
その問に高志は首を振って微笑んだ。
「朗らかで優しい神様ばかりだったよ。まあ、泣き虫な神様もいたけどね」
値踏みするように高志の全身を睨めた小男は、腕を組んで大仰に頷いた。
「それならおまえ、悪い奴じゃないな」
そういうと小男は、高志の手をぐいっと引いて歩き出す。
「神の薬を飲んでも、のたうち回って死ななかったということは、おまえ悪くないやつだ。おまえは神々と縁があったのだな。きっとそうだな」
振り返って笑いかける小男の表情に、先程までの疑心は欠片もない。
ほっとして高志も微笑んだ。
連れて行かれたのは広大な露天風呂の端にある裏庭だった。
山道を歩いていたときには燦々と降り注いでいた日の光も、ここでは薄い雲に遮られ心地よい明るさとなっている。
小男に促されて、高志は太い丸太の上に腰を下ろした。
「ここは太古から神々が大地と繋がり、お体を休められるための湯浴処なのだ」
「そうか」
「そうさ。そしておれは、由緒正しきこの湯浴処の御湯番なのさ」
小男は誇らしげに胸を張る。
銭湯にいる番台のおじさんみたいなものかな、と高志は思った。
「実はお願いがあるんだ。この鈴を湯に浸けさせてくれないかな」
高志が鈴を見せるとじっと見ていた小男は、小さな目をどんどん見開いていった。
「大変だ、もう虫の息じゃないか。御湯、おゆ」
焦ってその場でくるくると回っていた小男がぴたりと動きを止め、高志をぴしっと指差す。
「神様の御湯に人の子が浸かることはできない、神様以外は許されない。だから猿湯に入らせてやる。その鈴と一緒におまえもはいれ」
「ぼくも?」
「少しの間とはいえ、神々のお集まりになる場に人の子がいるのだ。身を清めてもらわなければ」
そういうものか。とにかくすずさえ湯に浸からせることができるなら、高志はかまわなかった。
連れて行かれたのは広大な露天風呂の端にある庭の、さらに端にある湯溜まりだった。
「小さいが湯に変わりはない。ありがたく頂戴しろよ」
服を脱いで白装束を着せられた高志は、鈴を手にそっと足先から湯に入る。
視界の端に同じ湯に浸かる大きな猿が見えたが、この際気にしない。
「気持ちいいな。すず、神様のお湯だよ」
お湯は熱すぎることなく、白く濁ってまるで体に染み入るようだった。
上がらなくなった左腕がじりじりと痛む。
軽い火傷のような痛みに耐え兼ねて湯から腕を出そうとすると、小男にぐいと押さえつけられた。
「痛むのならその場所に、お湯が効いているということだ。我慢しろ」
鈴の様子が気になるらしく、小男は何度もどうだ、大丈夫かと聞いてくる。
白濁したお湯の中で見えないが、手の中にある感触で鈴を確かめる。
害はなさそうだが、猿がじわりじわりとこちらに寄っては間をつめてくるのが少し怖い。
「この猿、噛まないかな?」
「噛まないさ。だってここへ来る者は利口だもの」
いまいち信用ならないが、下手に動いて刺激するのも恐ろしい。
高志は黙って、手の中の鈴にだけ意識を集中した。
左腕の痛みは引くことなく続いているが、手の中にある鈴は身じろぎもしない。
「熱い!」
突如鈴の放つ熱が、湯の温度を超えて熱くなった。
「すず?」
次の瞬間、ほとんど高志の隣に陣取って湯に浸かっていた猿が、キィッと叫んで飛び上がった。
「おまえ、わしを殺す気か!」
逃げようと前足を掻く猿の背にしがみついていたのは、赤い着物を着たびしょ濡れのすずだった。
「すず! 大丈夫か!」
猿から引き剥がして自分の腕にすずを抱いた高志が、泣き出しそうな顔ですずの頬を撫でると、小さな手が飛んで高志の頬をぴしゃりと打った。
「目が覚めたらいきなり白い湯の中だ! 死ぬところだったのだぞ!」
高志が笑ってすずの腕を抑えると、足でばたばたと蹴り返してくる。
「いつものすずだ」
嬉しくてうれしくて、自分でも泣いているのか笑っているのかわからなかった。
ウェ、ウェっという声に振り向くと、小男が顔をグショグショにして泣いていた。
迷惑を被ったかわいそうな猿は、しがみついていたすずの手から解放されると一目散に山へと逃げていく。
「早く湯からあがるぞ」
「もういいの?」
「おまえの腕も治っているではないか」
高志は上がらなかった腕で、すずを抱きかかえていた。
「のぼせるだろうが」
「はいはい」
高志は猿湯からでて、小男にいわれるまますずの着物を乾かした。
鈴は元の色を取り戻し、形もまん丸く戻っている。
この鈴が元どうりになったということは、すずも体にも傷など残ってはいないのだろう。
溺れかけて猿にしがみついていたすずを思い出して、高志はひとり笑った。
「酒はないのか?」
「そんなものはないよ」
高志がたしなめると、すずはちっと舌を鳴らしてそっぽを向いた。
「だいたいすずは意地っ張りだ。どうしてぼくに溜まった毒を吸い出したりしたのさ。自分が死にかけていたらせわないっての」
素直に礼をいうのが恥ずかしくて、高志は憎まれ口を叩く。
「うるさい。命の恩人に口の利き方も知らんとは、アホじゃないな、無知なクソガキだ」
地団駄踏みながら文句をいうすずをみて、小男がおろおろしている。
「すず、気をつけないとだめだよ」
「ガキに注意されたくないわ!」
「気を付けないと……」
「だからなんだ!」
「落ちるよ」
どぼんという音と共に、すずが猿湯に落ちた。
お湯の中でバタつくすずを恩着せがましく助けてやると、小さなげんこつで頭を殴られた。
そんな二人を見ながら、小男だけが慌てたようにぐるぐるとその場で回っていた。
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