14 水底の祭りと 顔の無い面と(前)
相変わらずなんの手がかりもないまま、町から街へと移動していた。
変わったことといえば左腕が鉛のように重く、日に数度は軽い吐き気に襲われるということ。
「つわりか?」
公園のブランコに腰掛けて、口を押さえている高志にすずがいう。
「男には関係ない現象だと思うけど」
水を飲んで少しだけ落ち着いた高志は、澄まし顔で空を仰ぐすずをみた。
腕を上げて伸びをすると、袖の裾が捲れて二の腕の側面に薄れた茶色の傷が覗く。
あの日立ち聞きしてしまった、縁結びの神とすずの会話の真意を聞きたくて、何度も口を開きかけたけれど、結局は今日まで何も聞けずにいた。
高志が聞いていたことを知らない筈の小さな背は、それでも問われることを拒絶しているように思えて仕方なかった。
「なぁ、すず。この町で今日はお祭りがあるらしいよ。桜が満開になる季節に合わせて開かれていて、今年で三十二年目だってさ。行ってみようか?」
となりのブランコに腰掛けて、つかない足をぶらつかせていたすずは「祭りか」と、一言落として黙り込んでしまった。
「祭りごとは好きだろう?」
「好きだがな、見境なく好むわけではないぞ。祭りというのは気道を、そして鬼道を繋ぐもの」
「キドウ?」
「そうだ。おまえのような体質の者は、望まなくとも通じてしまったその道に惹かれるものだ。他者の気と通じ、鬼道を通じてこの世のものではない場所へと繋がる道が開けるのだよ。道が開いているかどうか気づくのは、ほとんどの者にとって、その道を通り抜けてからだ」
「厄介なのか?」
「厄介に成りうる場合もあるということだ。ありもしない祭りにいって呑んだくれて帰ってきた男の話しなど、昔は捨てるほどあったものだ。帰ってくるなら良い。害がないなら良い。だが、その後どうなったのかわからないものを、神隠しというのだ」
「神隠しか」
そう呼ばれる現象に、高志は幼い頃に幾度か遭遇している。
断片しか覚えていないが、一定の季節に祭りにいくと、必ず父親とはぐれて朝になると家の前で眠っていたらしい。
「もう半分大人だから、大丈夫さ」
「好きにしろ」
あまり乗り気ではないらしいすずは、霞が消えるように鈴へと戻って姿を消した。
左腕が重い。
なにか気晴らしが欲しかった。どうせ道が見えないなら動いていたい。
昼過ぎから始まっている祭りは、さほど多くもない町の人々が総出かと思うほどの賑わいだった。町のはずれにある広場に桜舞い散るなか、楽しげな声が響く。
「ママ~、ぼくのママはどこ?」
大人に手を引かれる迷子の男の子が、半べそになって母親を呼んでいる。
――大丈夫。きみの声はお母さんに届くよ。きみのお母さんは、きっとすぐ側にいるから。
キョロキョロと不安げな顔で人ごみを歩いてきた女性を見つけると、男の子は涙でグショグショの顔を、笑顔でいっぱいにしながらかけ寄っていく。
ほっと目尻を下げながら、母親が男の子の頭を撫でた。
「良かったな」
無意識に自分の頭に手を当てていた高志は、苦笑いしてやりどころのない腕を下ろした。
母親に頭を撫でられるのは、どんな気持ちなのだろう。
そんな年齢はとっくに過ぎた今でも、宝物のように思えるその感覚を探してしまう。いくら探しても、高志の中に母親の指の感触など、見つけ出せはしないというのに。
少しずつ日も落ちて、会場の提灯に明かりが灯りだす。
「なぁ、すず?」
高志は尻に入れた財布からぶら下がる鈴をパシリと叩く。
「ひとりで祭りにくるくらい、つまらないものはないんだぞ? なにか食物と飲み物を買ってやるからさ、人のいなさそうな林の中にいったら出てこいよ」
リンとも鳴かない鈴を、高志はもう一度叩いて揺らした。
「このへそ曲がり」
それでも自然と、すずが好きそうなものに視線がいってしまう。
「いか焼きに、甘酒か」
人の波から抜け出ると、ライトアップされた林の手前に、他の屋台とは少し離れてポツリと店があった。
「お客さん、ホタテの串焼きはどうだい?」
オヤジが声をかけてきた。
手に持たれた串に刺さる大ぶりのホタテからは、美味そうな香りの汁が滴っている。
だが、ひと串で八百円は高い。
「美味しそうだけれど、貧乏学生には高値の花です」
そういって立ち去ろうとする高志を「まぁまぁ」と、オヤジが引き止める。
「こんな満開の花の下で、シケたことをいっちゃ男がすたるよ」
男がすたれても、財布の中身がすたれるよりはましだ。
「実は野暮用で、店終いするところでね、最後のひと串だからあげるよ」
「えっ、いいの?」
「冷めないうちに食ってくれよ」
オヤジに礼をいって林の中に足をすすめる。
振り向くとオヤジは、本当に店をたたみ始めていた。
「いい人もいるんだな」
林の入口はまだ数人が歩いていたが、すずに取られる前にと高志は急いで串に齧り付いた。
柔らかいホタテに、甘じょっぱいタレが最高だ。
明るく照らされた林のなかを進むと、人の姿も見えなくなり高志はすずに声をかけた。
「すず? もう誰もいないからでておいでよ。甘酒が冷えちゃうぞ」
ホタテを食べられてヘソを曲げたのか、すずは姿を現すどころか指で弾いても、うんともすんともいわなかった。
「素直にでてこないと、ひとりで全部食べちゃうからな」
ぶらりぶらりと歩きながらいか焼きを食べていた高志は、足元を照らす灯りが色を変えていることに気づいた。
見上げると、ライトアップのために緑色で照らし出されていた林の道は、脇に提灯がぶら下がって並び、ほの明るい朱色に染められていた。
「この提灯、どこまで続いているのかな」
道の先にずらりと下がる提灯には祭りの風情があって、一人であることを忘れさせてくれる暖かさがあった。
提灯を眺めながら歩いていると、先の方から微かにお囃子の音が響いてきて、高志は立ち止まって耳をすませた。
「なんだか懐かしい音だな」
これだけ林の中の道に明かりを灯しているということは、林を抜けた先で別のイベントが行われているのだろう。
「いってみるか。すずも出てこないし」
高志は歩く足を早めて、お囃子の音のする方へと向かった。
林を抜けた先にあった光景を目にした高志は、感嘆のため息をもらす。
大勢の人達が面を付けて、輪になり踊っている。
男たちは着物の裾を端折り、女たちは背に艶やかな笠を背負っていた。
どうやって吹いているのか、お囃子の笛を吹く者たちもみんな面をつけている。
思い思いに踊る人々はみな楽しそうで、人々を囲んで照らす松明も朱色の火花を散らして明るく燃えている。
少し離れたところで眺めていた高志に気づいたのか、輪の中で踊っていた男が手招きした。
「ぼく?」
するとそれにつられたように、幾つもの面が高志の方に向けられ、ゆるりゆるりと手招きする。
祭りの場で頑なに断るのは失礼かと、高志は人々の輪の中へと入っていった。
周りの景色は見えないが、何に反響しているのかお囃子の音が全方向から聞こえてくる。
高志は見よう見真似で踊りだした。
――どこにでも似たような祭りはあるらしいけれど、この祭りはなんだか懐かしいな。子供のころ似たようなお囃子を、聞いたことがあるような気がする。
でもこんな面をつけて踊る祭りの記憶はないから、やはり似た祭りなのだろうと高志は思った。
吹き降ろしたような強い風が一筋抜けて、お囃子の音がはたと止まる。
あれほど楽しそうに踊っていた人々も、糸が切れた人形のように動きを止めた。
みな両腕をだらりと垂らし、一筋の線で目を彫り込まれただけの白い面を、高志へと向けている。
表情のない面の奥からどろりとした視線を感じて、高志の首筋を虫が這うように嫌な感触が走った。
「あっ」
突如に足元の地面が高志の体を支えることを放棄して、体がどこまでも沈みはじめた。
沈みゆく高志の体を見逃すまいとするように、幾つもの白い面が見下ろしている。
――息ができない。
冷たい水の感触が全身を覆う。
溺れているのだと、高志は薄れていく意識の片隅で思った。
沈んでいく先にある水底に、松明の灯りが揺れている。
白い面をつけた人々が、だらりと弛緩した佇まいで、顔だけをこちらに向けていた。
――水面にでないと。
左手が動かない。
右手で水をかいて進むのが早いか、息が潰えるのが早いか。だが必死で浮き上がろうとする高志の足首を、強い力ががしりと掴んだ。
いつの間に底まで沈んだというのか、恐ろしいほどの数の白い手が高志の足首を抑えている。
――もう息が持たない。
松明に照らされるだけの水底を、一筋の白い光が尾を引いて流れた。
弾かれたように高志の足首から、白い手が離れていく。
――自然に浮かび上がる頃には、水を吸い込んでるな。
視界が霞んで、松明のあかりと白い面が揺れては混ざる。
『愚かな、この人に手を出すことは、ぼくが許さない』
声変わりする前の少年の声。
『受けた恩を忘れるなど、人にも劣る』
聞いたことのある声。どこで会ったのだろう。思い出せない。
――人ではないな。
耐え兼ねた肺が今にも水を吸い込もうとした時だった。
リン
頭の奥の方で、鈴の音が鳴った。
引かれる腕の先に赤い着物の裾を見た気がしたが、それを最後に高志の意識は暗い闇に呑まれて消えた。
ヒューという自分の息で、高志は勢いよく体を起こした。
吸い込んだ水を吐いたのだろうが、まだ残る水が高志の呼吸を自由にはさせてくれない。
「あまり咽るな。こんな所で死なれては困るからな」
すずだった。
「呼吸だけじゃない。すごく、気持ちが悪い」
「だろうな」
「吐きそうだ」
「吐いたら、死ぬぞ」
いつもなら高志が困っていれば、怒鳴るかからかうことしかないのに、すずの顔には何の表情も浮かんでいない。
「そんな下賤のいうことを気にすることはない。吐いてしまいなさい」
声に顔を上げると、男が立っていた。
――さっきの屋台のオヤジさんか?
「おまえはこの男に毒を盛られたのだよ。だから、吐き気がする」
男を睨むすずの目に感情はなく、蔑みにも似た冷たさが宿っていた。
「ここで吐けば、共にに苦力神清丸も吐き出される」
ホタテの串焼きをくれたオヤジが、あの時とはまるで違う表情で高志を見下ろしていた。
――この男の声、どこかで聞いたことがある。どこだ?
息が苦しくて思考が上手くまわらない。
間隔を徐々に縮めて襲ってくる、吐き気と戦うので精一杯だった。
「あのまま水の底で死なせてやれば、こいつも楽であったろうに。おまえも酷なことをする」
男の言葉に、すずは口元だけでにやりと笑った。
「おまえが思うほど、こいつは孤独ではないぞ。このアホがどこで死のうと知ったことではないが、慕う者は意外と多い。そっちは無視できんのだよ」
「多いとは?」
「もう少し、こいつに生きて欲しいと願う馬鹿どものことだ」
「ほう」
「強くて利口なおまえより、力のないバカが捨て身になったほうが、強いということもあるのだよ。それが、束になれば尚のこと」
胃を突き上げるような吐き気に、高志は顔を顰める。
喉まで上がってきたモノを無理やり飲み込んで、男の顔を睨みつけた。
「苦緑神清丸を吐いたからといって、すぐには死なんだろうよ。それを吐いてしまえば、家路につくための道もすぐにみつかる。家に帰るくらいは、命の猶予もあろうさ」
男が下卑た笑いを浮かべる。
「吐かない」
「なに?」
高志と男の短いやり取りに、すずが声を上げて笑う。
「このアホは、おまえの思い通りにはならぬといっているのだ」
男も喉元を詰まらせたような声で笑った。
「その吐き気でどうやって生きる? 仕込んだホタテを吐き出さない限り、毒は体内に留まりおまえを責め続ける。人が長く耐えられるとは思えな……」
男の言葉は最後まで言われることなく、どさりという音と共に体が前のめりに倒れた。
何が起きたのかわからないまま、高志は吐き気に歯を食いしばりながら首だけ回して男の方をみる。
改めて見回すと辺り一帯は湖で、男の体は今にもその湖に引き込まれようとしていた。
草履を履いた男の足首を、白い手が握っている。
湖の中から伸びる幾本もの白い腕が、かき寄せるように男の体を水の中へと引き込んでいく。
「おまえたち、こんなことでわたしをどうにかできると思っているのか?」
逃れようと腕で砂を掻く男の声から、切羽詰った様子がないのがかえって気味悪かった。
「どうにもできないだろうね。それでも足止めくらいにはなるから」
水の中で聞いたのと同じ声。声変わりする前の少年の声。
「ふふ、覚悟はできているのだな? その者を助ける方法などたかが知れている。どれも一時しのぎにしかならんだろう」
男の体は、膝まで湖に呑まれている。
「そうだね。ぼくにできることなど知れている」
「もう二度と、人の形をとって祭りに加わり踊ることもできなくなるぞ」
「うん」
藻掻くことさえやめた男の指先が水に当たって、水面に波紋が広がった。
「きみは夕暮れ時に、家を訪ねてきた子だね」
ようやく話せる程度に息が通るようになった高志は、まじまじと男の子をみた。
「はい。水底でみんながしたことは、代わりにぼくが謝ります」
ごめんなさい、と男の子は頭を下げた。
「この水を飲んで。毒だけ吐き出すことができるから」
男の子が、大きな葉に貯められた水を差し出す。
「これを?」
「うん。ぼくを信じて」
ちらりとすずに目をやると、少し辛そうな顔で小さく頷いた。
葉に貯まる透明な水を喉に流し込む。
胃の中が松明が燃えたように熱くなる。
腹を押さえて蹲った高志は、石で腹を打ち抜かれたような衝撃に、胃の中のモノを一気に吐き出した。
ホタテやイカの欠片が地面に転がった。
「みんなを許してあげてね。反省しているから、さっきは助けにきてくれたんだ。みんなあの男に騙されていただけだから」
声のする方を見ても、男の子の姿はなかった。
「どこにいるの?」
「大丈夫ここにいるよ」
姿はなく声だけが聞こえる。澄んだ声が、湖面を渡る風のように遠くなっていった。
「すず?」
俯いたまますずは答えない。
吐き気は嘘のように止まっていた。
体がほんわりと暖かくなる。
不意に湖面が色を持ちはじめる。
お囃子が響いて、楽しげな合いの手が響く。
「あの子の記憶だ」
――そして、この光景をぼくは知っている。
現実の世界に重ね合わせたように見えるその風景を、高志は言葉もなく見つめていた。
神隠しという名のもとに幾度も迷い込んだ、遠い日の祭りの記憶を手繰り寄せた。
見に来て下さったみなさま、ありがとうございました!