11 赤い糸の先はチンチクリンへと(前)
背中に弾かれたような衝撃を受けて転がった高志は、立木に頭をぶつけてさらにひっくり返った。
「いってぇ」
落ちてきた方を見上げると、木が生い茂っていて上までは見通せない。
本当にこんなところを落ちてきたのだろうかと、訝しんで立ち上がった高志は、足を放り出して手をだらりと下げたま項垂れているすずに気づいた。
「すず? すず!」
走り寄ろうとする自分の足が、絡まっては幾度も転ぶ。
――よく考えろ。斜面を転げ落ちたとして衝撃が弱すぎやしないか? 頭を打ったのはそのあとの話だ。
転がり落ちていた時の記憶は朧げで、それでもたった一つ体に残る感覚。
――誰かが、俺の背中を押した。
すずが項垂れて凭れかかっているのは、根元から折れた木。
鋭利に尖って折れた木の株と自分の間にすずがいたから、だから無傷ですんだ。
「すず!」
すずが高志の呼びかけに答えるようすはない。
もし飛び出ていた枝が、すずの体の方を向いていたら。
上に向けて切り立った折れ口と自分の間に、すずが挟まれていたら。
打ちどころが悪かったら。
「しっかりしろ! 目を覚ませよ。すず? すず!」
抱き上げた体から血が流れているようすはない。
それでも小さな瞼を開けようとしないすずに、高志はどうしようもない恐怖を感じた。
――すずが目を覚まさなかったら。
頬を撫でても髪を掻き分けても、すずはかくりと首をぐらつかせたままだった。
「おい、頼むよ。目を覚ましてくれよ」
高志はすずを胸にぐっと抱いて、歯ぎしりした。
「小僧が殺したかったのは、すずじゃないだろ? どうしておまえがこんなことになるんだよ。酒も好きなだけ呑ませてやるよ。減らず口たたいても、少し黙って聞いてやるよ。だから、目を開けて」
腕のなかで、すずの体がびくりと跳ねた。
ヒューっと息を吸い込む音と同時に、激しくむせ返る。
「すず? 大丈夫か?」
涙目のすずが、面倒臭そうに頷いた。
「よかった」
背中や頭を撫でまわして、怪我がないかしつこく確かめる高志の手を、すずの小さな手がぴしゃりと叩く。
「煩わしいやつだな」
いつものすずだ、とほっと息を吐く。
「ぼくを、助けたの?」
立ち上がったすずは「ふん」と鼻を鳴らして、細めた目で高志をみる。
「わしが飛び込んでいなければ、今頃おまえの腹から枯れ枝が生えているところだぞ」
「ありがとう」
「なぜ礼をいう? ぼんくらが怪我をしたら、わしに面倒がかかる。それが嫌だから事前に回避したまでのことだ」
「素直じゃないな」というと「誰がだ?」すずが真顔で返したので高志は笑った。
「それほど山奥じゃないのではないか? 人の声がするぞ」
すずに言葉に耳を澄ますと、近くで楽しげに騒ぐ女の子たちの声が聞こえた。
「本当だ、街の近くかもしれない。いってみようか」
人の気配を感じたからか、すずの姿はすでになかった。
人の声がする方へと歩きながら、ふと小僧に想いを馳せた。
どうして恨まれたのかはわからないが、自分を突き落としたとき、迷わせ小僧は泣いていた。
この顛末をどこかで見ているのだろうか。
またいつか、殺そうと向かってくるのだろうか。
高志は恐ろしいと思いながらも、なぜかもう一度迷わせ小僧に会いたいと思った。
訳も分からず恨まれて命を狙われるのは、恐ろしいよりも辛かった。
転げ落ちたのは、公園から繋がる林道の端だったらしい。
それほど歩かないうち、に散歩中の老夫婦や、高校生のカップルがうようよしている広い公園にへとでた。
手をつなぎながら、イチャイチャと歩くカップルの横を澄まし顔で通り過ぎながら、胸の前でげんこつを握りしめる。
「なんかもう、お腹いっぱいって感じだな」
虚しいため息が、風に押されて自分の顔面に戻ってきたのを手で払う。
迷わせ小僧に突き落とされた時に、時間も空間も狂ったのだろう。
落ちた場所はけっしてあの小屋から落ちた場所ではないだろうし、空もすでに茜色に染まろうとしていた。
素泊まりのホテルに入るにしても、もう少し暇を潰したいと思った高志は、腹立たしいカップルの間を縫いながら公園の外周をめぐる道を歩いた。
できることならこのカップルども全員の背中に噛んだガムを貼り付け、歩く先には犬の糞をおいてやりたい。
独り身の若者にとって、仲のいい恋人同士ほど頭にくるものはないのだ。
ゆるいカーブを曲がると、間引きされたように立ち並ぶ木々の間に細い脇道があった。
看板が立っているが、文字が薄れて全く読めない。
公園から続く道なら危ないこともないだろうと、高志はその脇道にはいることにした。
奥へ進んでいくと、長い年月で色の剥げかかった小さな赤い鳥居がみえた。
そのすぐ側には二匹の狛犬が陣取り、その少し奥にはこれまた古びて小さな拝殿がある。
こんなに古びていても参拝する者は絶えないようで、拝殿の横には新しい絵馬が所狭しと奉納されていた。
その横に立てられた看板には『想い人神社』と書かれている。
「恋愛成就かぁ」
やたらとカップルばかり見せつけられて、いい加減むかむかしていたところだ。
ここはひとつお参りしてご利益にあずかろうと、ポケットから五十円玉を出して賽銭箱に投げ入れた。
柏手を打とうとしたそのとき、目の前の拝殿からガタン、バタンと音がして高志は思わずその場から飛び退いた。
観音開きの戸が、振動で開きかけては閉じる。
波打つ心臓を押さえて、高志は恐る恐る木の扉に手をかけた。
「誰かいるの?」
狸か狐でも迷い込んだのかもしれないし、こんな小さな神社でも神主さんが手入れをしているのかもしれない。
ゆっくりと木戸を開けた高志は、相当な間抜け面になっていただろう。
驚きと呆れた思いが混ざって声も出ない。
小さな拝殿の中にいたのは、赤い糸を全身に絡ませて胡座をかいた、白い着物姿の青年だった。
「申し訳ないのですが、この糸、解いて貰えませんでしょうか」
涙目の青年は、澄んだ声でそういった。
細い毛糸ほどの赤い糸は、小指にも満たない短いものから、ものすごく長いものまで様々だ。
あまりの絡まり具合に根を上げた高志が「切ってもいいですか?」と聞くと、青年は慌てて首をふった。
「切ってはいけないのです。縁の糸ですから」
そしてこうもいった。
「この世に不必要な縁などひとつもないのです。たとえ終わった縁でもそれは同じことです」
やっとの思いで全ての糸を解き終たころには、日が暮れていた。
拝殿の中が明るかったのは、いつの間にやら灯されていた行灯のおかげだった。
「ありがとうございました」
青年は丁寧に頭を下げた。
「どういたしまして」
流れる汗を手の甲で拭きながら、高志はげっそりと笑ってみせた。
「失礼ですが、どちらさまでしょう?」
青年が今更ながらに首を傾げる。
あぁ、まただ。いくら空っぽの頭でも学習した。
なにか言いかけた青年を、高志は手のひらでそっと制す。
「ぼくは白河高志といいます。あなたは、神様なのでしょう?」
青年は丸く目を見開き、それからぽろぽろと涙をこぼした。
「永いこと人と共にいて人を想ってきましたが、言葉を交わすのは初めてです」
ひとしきり泣いた青年は、恥ずかしげな笑みを浮かべると、周りに散らばった赤い糸を見回してから、すいと胸の前に腕を差しだし美しい動きで手刀を切った。
「手品みたいだ」
散らばっていた赤い糸が、春先に降った雪のように消えていく。
「わたしは縁結びの神です」
男も惚れそうな美しい顔立ちで、縁結びの神はいった。
返事の代わりに、高志の腹の虫がグウと鳴る。
涼しげな切れ長の瞳を細めて、縁結びの神が可笑しそうに笑う。
「あいにくここには何もないのですよ。昔は想いが成就した礼にと、酒を供えてくれる人もあったのですが、最近はさっぱりです」
この神様は酒が呑みたいと泣いていないし、物欲しげな目だってしていないのに、なのに。
「お酒を買ってきます。一緒に呑みませんか?」
縁結びの神に顔に、ぱっと花が咲いたように笑顔が広がる。
高志は全力で走ってコンビニを目指した。
「いったい何に負けたんだ? 自分!」
さっぱりわからないが、とにかく負けた気しかしなかった。
よんでくださったみなさん、ありがとうございました!