10 チョコとお猪口とちょこっと涙
「あまり端を歩くな。落ちるぞ」
「将来は立派な姑になれるぞ。子供のくせに心配しすぎなんだよ、すずは」
車道によればヤレ車にひかれる、崖の側によればヤレ落ちる。とにかくすずは小煩い。
「だいたいね、こんな崖落ちたって、すぐそこの木で止まるから心配ないよ。こんなに密集している木の隙間を転げ落ちれるのは、すずだけだよ」
口を尖らせて黙ったすずを放って、高志は足を早めた。
隣町までは歩いて一時間ほどだと聞いて、バス代節約のためにこうやって山の中を走る舗装道路のはしっぽを歩いている。
もうすでに一時間以上は歩いているから、一時間で着くという村人の情報も怪しいものだ。
じんわりと汗ばんだ体に風を送り込もうと、シャツのえりをつまんだとき、胸に桐で突いたような痛みが走った。
「大丈夫か? 腰をおろせ」
すずの言葉に返事もできないほど、肺の中の空気が絞り出される感覚。
――すずのいう通り、座って休もう。
膜を張ったように汗が滲む。
自分ではまっすぐに腰をおろしたつもりだった。
「このアホが!」
すずの声が聞こえる方向が奇妙で、尚更に平衡感覚を奪う。
真ん前に青い空が見えたとき、すごく当たり前にあぁ落ちるんだな、と思った。
「ばか者! そっちは……」
すずの声が途切れると同時に、音という音が消えてなくなった。
青と緑と茶色が目まぐるしく回るなか、どこまでも落ちていく高志には何の音さえ感じられなかった。
「おい、目を覚ませ」
すずに揺さぶられて目を開けると、まるで船酔いに似た気持ちの悪さにむかむかした。
「どのくらい下まで落ちたのかな。すずは大丈夫かい?」
「なんだ普通に話せるのか。余計な気苦労をかけるな」
すずが小さな足で蹴りをいれる。
「その足癖何とかしなよ。女の子だろ?」
さらに文句を重ねようとした高志は、自分が座っているほんの横に、小さな祠があることに気づい首をかしげた。
「この祠、見たことがある。でも、まさかそんな筈は……」
「その祠がどうかしたのか?」
気のなさそうなすずの問に、高志は尻を擦って後退る。
周りの景色を見回しても、家の近くにあったあの祠があった場所とは似ても似つかない。
あの祠があったのは町外れの山裾の道の脇だが、ここはどこまでも生い茂る木々に囲まれた森の中。
「この祠、そっくりなんだよ。母さんが最後に縋るようにして倒れて亡くなっていた祠に」
すずは何もいわなかった。
高志も人伝に聞いた話で、その時の様子を知っているにすぎない。
何度もなんども、母の面影を求めて眺めにいった祠だ。
見間違うはずがない。
「ここにあるはずのない物があっても、妙なことではない。落ちたとき、おまえは文字通り迷ったのだよ。ここは辻だ。たまにあるのだよ。全ての場所とものが交わる場所というものがな」
自分でも気づかぬうちに、涙が流れていた。
口の悪いすずが、そのことに一言も触れないのがかえってむず痒い。
「肝心な時に大人ぶるなっての。かえって恥ずかしいだろうが」
「いちいちガキの相手をする趣味はないのでな」
あぁ、まただ。胸が痛い。
痛くならない日もあるが、日に日に痛みが増している気がする。
痛みの中目をやると、薄暗い祠の中が見えた。
「祠の中に、お猪口がある」
すずが祠を覗き込んで「あぁ、神に酒を捧げるときにでも使ったのだろう」といった。
そして、ついと目を細めて口の端を僅かにあげ、こう続けた。
「この猪口、すでに百年の時を経ているな。さて、われらを呼び寄せたのはこやつかな?」
祠の中で、ことりとお猪口が身じろいだ気がした。
確かめたかったが、痛みに新鮮な空気を搾り取られた肺が軋んで、周りの景色が胡乱になり、高志は白い霧に閉ざされるように意識を失った。
視界が途切れる寸前に、小さなお猪口の上に淡い光を放つ緑色の玉を見たような気がした。
――ほっとする色だ。
意識を失う寸でに目にした玉の淡い色は、胸の痛みを攫うほどの安堵を高志に与えて、霧の向こうへと姿を消した。
***
いま姿を現して消えた二人は何だったのだろう。
主にチョコと呼ばれるこの者は、突然のことに小首を傾げた。
一人は人の子で、一人は人の子ではないことだけはわかった。
先まで眠っていたチョコは目覚めた途端に見知らぬ森の中にいて、見知らぬ者たちが目の前にいて、あたふたとするばかりだった。
――慌てるばかりで、あの二人の顔をさっぱり覚えていない。
情けないから、主には黙っていようとチョコはひとり頷いた。
いったい幾年ぶりに目覚めたのか。季節の変わり目だけでは計り知れない時を眠っていたように思う。
主は、またどこかに遠出されているのだろうか。
――留守を守る身でありながら、情けない。
昔のこと、まだ神が神と崇められていた時代、この祠にお住まいになっておられた山の神に拾われてチョコはここへきた。
日々この祠へ参る人々も途絶えはじめたころ、主はふらりと遠出されることが多くなった。
留守を守っているあいだは誰が訪れることがなくとも、チョコは生真面目に主の留守を守り続けた。
――おや、これはなんと。
だから、幼い頃に婆に手を引かれて手を合わせにきていた少女が、すっかり大人になってこの祠を訪ねてきた時には驚いた。
すっかり大人になった昔の少女が、笑みをたたえたまま動かなくなったとき、祠の前には澄んだ緑色の珠が残されていた。
ふとすれば浮かんで天に昇って行ってしまいそうになるそれを、チョコは必死になって抱え込むように守った。
この珠がなんなのか、ものを知らぬチョコにはわからなかったが守らなくてはならないと、なぜか強く思った。
身の丈に近い大きさのそれを必死に抱きかかえるチョコの周りで、季節だけが過ぎていった。
秋の木の葉に埋もれ、白い雪にまみれてダルマのようになっても、チョコは決して珠を離さなかった。
もう年もかわろうかという、空気も凍てつく薄曇りの日に主は帰ってこられた。
雪にまみれたチョコの頭を御手で優しく払われて「あれまぁ」と笑われた。
チョコが守っていた珠を指でつまみ上げると、じっと魅入られた。
その様子はまるで、珠と言葉を交わされているようだった。
その様子をじっと見ていたチョコの頭を、主は優しく撫でられた。
「人は弱い、儚く脆い。だが、母という生き物のなんと強きことよ。子の為とあらば、開くはずのない重き戸を、押し開けてしまうのだから」
主は大切そうに、緑の珠を御身の纏う着物の袖に納められた。
「チョコよ、よくぞ耐えたな。あとはわたしの成すべきこと。ゆっくりお休み」
主の言葉にチョコは眠りについた。
そして――
目覚めたら奇妙な場所で、見知らぬ者を目の前にして狼狽えてしまった。
「おや、また眠くなってきた」
周りの景色が夢の入口の向こうへと消えていく。
顔は見えなかったあの二人からは、どこぞで嗅いでことのある人の匂いがした。
森の中からは、人の子の姿も、古ぼけた祠も、跡形もなく姿を消していた。
***
高志は、ちくりと針で刺されたような痛みを胸に覚えて目を覚ました。
「何だったんだ? すず? どこにいるの」
周りを見渡して、愕然とした。
森の中にいる。
森の様子は、明らかに前に見た時とは違うものだ。
そしてあの小屋があった。
「どうしてここに? 川を渡ってここに泊まって……」
「おまえの思っている通りだ。この小屋は、あの夜と同じものだよ」
すずがいつの間にやら、となりに立っていた。
「でも前とは様子が違う。前はこんな崖はなかった」
小道を挟んで小屋の反対側は、この間来たときにはうっそうと茂森であったのに、今ははるか下まで続く断崖絶壁となっていた。
「おまえが悪いんだ」
子供の声に驚いて振り返ると、小屋の前に小僧が立っていた。
寸足らずの着物に襷がけ、腰には竹の筒。
「迷わせ小僧?」
小僧は一歩ずつこちらににじり寄る。
「おまえのせいだ」
また一歩。
「なんのことをいっている? ぼくは君にないもした覚えはないよ」
高志は小僧の気持ちを逆撫でしないよう、囁くようにいった。
「おまえのせいで、おらはもうお湯番ができない。猿湯だって、立派なお湯なんだぞ。おらはやっとそれを任されたのに」
小僧が近づいてくる歩幅が大きくなる。
「もっと詳しく話してくれないか? 訳がわからないよ」
もう手が届きそうなほど近くに小僧は立っている。
「おまえ……逃げろ」
すずがいう。
「え?」
小僧にいったのか、自分にいったのかわからずに高志が聞き返すと、きっとすずが見返した。
「逃げろといっているだろうが!」
足が動かない。小僧がまた一歩近づいた。
「おまえなんか」
また一歩。
「おまえなんか死んじまえ!」
小僧が体当たりで、高志を崖の外に弾き出した。
「このたわけが!」
すずの声が聞こえる。
風圧で息が苦しい。
酸欠で意識が遠くなる。
――あの小僧、一緒に落ちてないよな。
意識の糸が切れる寸でに、高志が思ったのは小僧のことだった。
――ほんとうに、アホじゃ。たわけ……。
独り言のような、すずの声が聞こえた気がした。
月さえ見えないような闇に、高志は落ちていった。
読んでいただき、ありがとうございます!
次話は高志の将来のお嫁さん像がくっきりと。
高志にとっては残念な感じですが(笑)