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1 日暮れ時の訪問者

 山裾に鬱そうと広がる森にしとりしとりと雨が降る中、茂る木々の足下を縫うように走る細道の脇にその小屋はあった。

 覆い被さるように伸びてしなだれる、枝葉の下に置き取り残されたようなそのぼろ小屋の屋根から、自らの重さに耐えかねた雨だれが、ひとつまたひとつと落ちては土に染みていく。


「おまえ一人では、どうにもならないのだろう」


 小屋の中に、落とすような男の声が流れる。


「ここから出してやるとして、なにを望む」


 組み替えた胡座の膝に煽られて、橙にともる蝋燭の灯りがわずかに揺れる。


「もう終いにしたい」


 先とは違う男の声が、多少の怒気を含んで吐き出された。


「聞きたいのは、それをどんな終わりにしたいのかということだよ」


 問われた男が言葉のでないままの唇を震わせて、ようやっと口を開きかけたとき、入り口の引き戸が不意に開けられた。


 開け放たれた先に驚いた顔で立ち尽くしていたのは、二十歳前後の青年だった。

 中にいるのが人であることを見て、青年は大きく息を吐き出し愛嬌のある瞳でにっこりと笑う。


「良かったぁ、先客がいた。ぼくも一緒にいいですか?」


「どうぞ、濡れるから早く入りなよ」


 男が人好きする笑みで手招きすると、青年はちょこちょこと頭を下げながら入ってきた。


「君みたいに若い子が、どうしてこんな山の中にきたの? 迷ったのかい?」


 髪をしっとり濡らした青年に、タオルを差し出しながら男が聞く。


「この森の入り口でバスを待っていたら、小学生くらいの男の子が森の中に入っていくのを見かけて、こんな時間に危ないだろうと思って後を追いかけてきたら、ここまで来ちゃいました。小屋に気をとられた隙に子供の姿は見えなくなるし、雨は降るし。それに、ここまでの道は多少の細い脇道もありましたから、暗がりで戻るのは危険だと思って」


「それは災難だったね。あの子のことなら心配いらないよ。近くの村の子で、この森はあの子にとって庭みたいなものだから。それにしても、しょうがない子だよまったく」


 良かった、と青年もほっとしたように口元を綻ばせる。


「でもね、この森の道にはでるらしいよ」


 ぎょっと目を見開いて、頭にかけたタオルの隙間から青年が男を見上げる。


「そんなに驚かないでよ。都市伝説ならぬ、田舎の森伝承なんだから」


 素直だねぇ、と男が声をあげて笑うと、青年も恥ずかしそうに白い歯を覗かせた。


「森の小道で人を迷わせる子供の話は、十年ほど前この小屋に立ち寄ったとき一晩を共に過ごした、山歩きの男に聞いた話の一部だよ」


「へぇ、おもしろそうだ。他にはどんな話が?」


 青年は若者らしい好奇心で、ぐいっと身を乗り出した。


「聞きたいかい? 繋がった一連の話だから、まるっと一晩はかかるよ?」


 いたずらっぽく片目を細める男に、青年はうんうんと首をふる。


「平気です。だって森の夜は長くて暗い、なにより暇、でしょう?」


 くくっと男はひとつ笑い、傍らにあった古い茶碗を手に取るとそっとひと撫でして反り返った床板の上に戻した。


 産まれたばかりの森の闇に染みいるような声で、男は語り始めた。

 蝋燭の橙の灯りが、男の横顔にゆらりと影をたわませる。

 いつの間にやら雨足は強くなり、木々の葉を打つ雨粒の音が、入り口の引き戸の格子の間から、ばらばらと小屋の中に響いていた。


                   

    ***


                    

 窓辺の椅子に腰掛けて雑誌をめくっていた高志は、顔を顰めて胸を押さえた。

 大学の休みを利用して久しぶりに実家に戻ったというのに、帰ってきてからどうにも体の調子が良くない。

 ずっと続くわけではないが、時折こうして胸の奥にちりちりと針で刺したような痛みが走る。


 寮制の男子校に行って大学に通う今まで五年以上、実家は生活の場ではなく、帰るべき場所になっていた。

 一人で暮らす父親の様子が気にならないわけではないから、もう少し帰省の回数を増やしたい気もするが、顔を合わせると公務員試験の勉強は進んでいるかと、当たり前のように聞いてくる父の言葉を聞くのが嫌で、何となく高校を出てからは足が遠のきがちになっていた。


 父親とのやりとりに思いを馳せていると、玄関の呼び鈴が鳴った。


「またかよ」


 これでもう三日目だ。げんなりした表情を隠すこともしないまま立ち上がった高志は、気のない返事をして玄関へ向かった。


 この家に帰ってきた夕方からそれは始まった。

 夕暮れ時になると見知らぬ人がやってきては、訳のわからない話をくり返す。


――苦緑神清丸を譲って欲しい。


――ほんの少しげほりとやって、苦緑神清丸を吐き出してはくれないか。


 口を揃えたよういうことは同じ。


 のらりくらりと廊下を歩いていると、焦れたように呼び鈴が鳴らされた。


「はーい」


 一日目は着物の襟に長い何かを差し込んだ女性だった。扇子で隠された顔を一度も見ないうちに、彼女は姿を消した。


 二日目にやってきたのは、祭りの季節でもないというのに竹灯籠を肩に担いだ若い男。


 この奇妙な話に高志が真っ先に思い浮かべたのは、父親の顔だった。

 父親の悪い癖で、買い集めたガラクタに飽きると何でもかんでもすぐに売ろうとする。 今度も妙なモノを売ろうとしているのかと、珍客を待たせて父を呼んでくると玄関には誰もいなくなっている。

 そんなことが二日も続いたのだから、嫌気もさそうというものだ。


 ドアノブに手をかけ、わざとむすっとした顔でドアを開けた高志はあっ、と小さく声をあげ、慌てて笑みを顔にはり付けた。


「どうしたの?」


 押し開けたドアの先に立っていたのは、透き通りそうなほどに白い肌の少年だった。年の頃は、十歳くらい。

 俯いている少年の表情は高志からは伺えないが、その小さな手が震えていることだけは見て取れた。


「ごめんね」


 少年の細い声は今にも消え入りそうだった。


「ぼくはいったんだよ。みんな誤解しているって。あんなやつのいうことを信じちゃいけないって。でもね、だれもぼくのいうことをちゃんと聞いてくれないんだ」


 あのクソ親父、こんな子供の耳に入るほど妙なモノを売ろうとしていたのか。なにがここ二、三年はなにも売っていないだ。

 苦虫を噛みつぶしたように鼻先に寄った皺を指先で押さえる。


「ごめんよ、父さんに悪気はないんだ。ただ信じているんだよね、江戸時代のどこそこにあったモノだとか、誰それにゆかりがあるとか。ひどいときなんて、恐竜の爪なんてものを大喜びで持って帰ってきたこともあるんだよ。兄ちゃんがちゃんと叱っておくからね」


 少年の顔を覗き込むように膝を折ると、小さな足が一歩後ずさる。

 少年はふるふると首をふる。


「なんでもいいからぼくに聞いて」


「なにを聞けばいいの?」


「知りたいこと全部。どんなことでもいい聞いてくれたら、ちゃんと答えるから」


 これには高志も返答に困った。子供相手になにを聞けというのかわからないが、ふざけた答えをするには違う気がする。それほど少年の纏う空気は真摯だった。


「大丈夫。今のところなにも困っていないよ。だから聞くこともないかな」


 一文字に唇を結び高志を見上げた少年の目は、いまにも零れそうなほどに涙がたまっている。

 自分の言葉のなにが少年にこんな顔をさせてしまったのかと、おろおろと目を泳がせる高志から視線を離すことなく少年の唇が開く。


 砂まみれのアスファルトを、小さな足が後ろへ後ろへと擦る音が、しゃしゃり、しゃしゃりと鳴る。


「ぼくはなにも守れないんだね。結局なにも。自分の祭りも、君のことも」


 踵を返す少年の口元がわずかに動く。ごめんね、高志にはそう動いたように見えた。

 走り去る少年の背中が、刻々と深くなる暗闇の向こうへと消えた。


「君かぁ。とりあえず、親父に説教だ」


 頭をぼりぼりと掻きながら家の中へと戻る。

 息巻いて畳の上で寝転がっている父親のもとへいくと、そんなモノは知らないし、ここ三年近くなにも売っていないのは本当だ、といって口を曲げた。

 呆れて水を飲みに台所へ向かう途中、高志は立ち止まって胸に手を当てた。


「痛みが引いている。いつもより早いな」


 次に胸が痛んだのは、一晩明けて日も高く昇った頃だった。

 この日表にいたのは、つば付きの帽子を目深にかぶった五十過ぎに見える男だった。

 小雨の降る中男は黒い着物を着て、煉瓦を積み上げただけの家の門に寄りかかっていた。


「わたしは、君のお母さんの古い知人でね」


 男が言う。


「最近、体が痛くなったりしないかな?」


 なぜそのことを知っているのか。亡き母の知人だというこの男に、高志は薄気味悪さを感じて半歩下がった。


「違っていたなら済まない。お母さんのことなど口にして、辛いことを思い出させただけになる」


 でもな、と男はつぶやく。


「頼まれていたから気になってね」


「なにを頼まれたというんです?」


「お母さんに頼まれたのさ、君のことをね」


 母さんがこの男にぼくを? 胸が杭を押し抜いたようにずきりと痛む。


「お母さんが、どうしてあんな死に方をしたのか、考えたことはあるかい?」


 どんなって、母さんは病気だった。


「幼い子を抱えて病に伏せっていた彼女は、なぜ山裾の道ばたに転がされたような小さな祠になど行ったのだろうね」


 そう、母さんはそこで息絶えた。古い祠に縋るような格好で息絶えていた。


「病気で亡くなったと聞いています」


「そうか」


 母さんが死んだのは高志が三歳の時だったから、詳しいことなど覚えているはずもない。

 父さんは母さんの死が辛くて辛すぎて、写真も日記も母さんに関わる物は全て燃やしてしまった。まるで母さんが存在していたことを、なかったことにしたがっているような、そんな鬼気迫るようすだったらしい。


「苦緑神清丸を彼らに渡してはいけないよ」


「今なんて?」


「苦緑神清丸だよ。覚えていないのかい? それを飲み込んでしまった日のことを」


 さして暑くもないのに、額に汗の膜が張る。

 胸が痛い。


「わたしも苦緑神清丸が何かは詳しくは知らない。だから、お母さんがいっていた言葉をそのまま伝えるよ」


 たった一言さえ知らない、母さんの言葉。


「苦緑神清丸を人に渡してはいけない。君が二十歳になったら、そう伝えてくれといわれていた」


「どうしてですか? 飲んだのならとっくに消化されているはずです」


「そうだね。でも彼らはそれを君に吐き出させようとしているらしい」


 馬鹿らしい。今どき小学生でも聞いたら笑うような話だ。この男は昨日までここに来ていた連中の仲間なのだろう。悪ふざけにもほどがある。放っておいて家に入ろうと高志はドアノブに手を伸ばす。


「吐き出せば死ぬよ。君は確実に死ぬ」


 呆気にとられて振り向いた高志を置いて、男は門の向こう側へと姿を消した。

 呼び止めようとしたのに、体が棒みたいに硬直していうことをきかない。詳しくは知らないといった男は、自分より遙かに多くのことを知っているように思えた。


「いっていることが本当ならな」


 深呼吸して体の力を抜くと、少しずつ緊張が解けてていく。

 あの男とどこかで会っている気がするが、思い出せない。母の知人というならよほど幼い日のことだろうし、三歳までの記憶などあってたまるかと思った。


 深呼吸が良かったのか、潮が引くように刺すような胸の痛みはなくなっていた。汗をかいた首元を擦りながら家に入り、部屋に入ってすぐにカーテンを引いた。本当の暗闇に窓の外が包まれるのを目にしたら、くだらないことの全てが現実の色を帯びそうで怖かった。



 カーテンを通して差し込む朝日の中、目を覚まして大きく体を伸ばす。

 胸に手を当ててみたが、なんの痛みも感じられないことにほっとして体を起こした。

 茶の間のテーブルの上には、袋に入ったままの食パンとバターが置かれていた。自分で焼いて食えということなのだろう。


「さっさと食べて準備するか」


 今日は隣町で年に一度開かれる古物市の日だから、二年ぶりに覗いてみようと思って早起きをした。早いといってもすでに時計は九時をまわっている。

 幼い頃から古い物が好きだった。鑑定書なんて関係なく、古いと言うだけで見ていて楽しくてしかたがない。あまりいいたくはないが、完全に父方の遺伝子だと思う。

 

 隣町まではバスで行った。そこから山裾に昔からある寺院へ歩いて行くと、広い境内の中で市が開かれている。

 古物市と骨董市はまったく毛色が違う。

 立ち並ぶテントのあちらこちらから、店の親父たちの客を呼び込む声が飛ぶ。


「どうだいこの茶碗、渋い色だろう? たぶん江戸後期のものだよ、買わないかい、ほらどうだい!」


 堂々と客を呼び込む親父たちのこの~たぶん~というのがミソだ。古物市に集まる客達はその辺りのことも重々承知しているから、楽しげな掛け合いが響き文句はどこからも出てこない。

 ただし数件紛れ込んでいる、まともな古物商にとってはえらく迷惑な話だろう。

 でもまともな所より怪しさ満点、笑顔満開の親父たちの店に人が集まるのだから仕方がない。

 変わらない活気に満ちた古物市をぶらぶらと歩いていると、聞き慣れた売り口上が山と聞こえてくる。


 当たるも八卦、当たらぬも八卦市と親しみを込めて称される、紛い物市っぷりは健在だ。


 若者の姿は冷やかし程度にしか見られないが、気にせずおっさんたちに紛れて喧噪ぶりを楽しんでいると、畳一畳ほどのスペースで出している店の前で足が止まった。

 大抵の店が適当な品揃えながらも、竹細工、茶器、着物などある程度のジャンルに分かれて売っているのに対し、この店だけはなんの統一感もない品々が、まるでバケツをひっくり返したように乱雑に積まれていた。

 重ねられる物はいくらでも重ねて店を広げているというのに、それに構わず数人の客が熱心に品を手に取っている。


「なぁおじさん、このナツメは幾らだい?」


 眼鏡をかけたポロシャツ姿の男性が店主に声をかける。すると店主は白い歯を見せてにっと笑った。


「利休が使った物だから本当なら一千五百万はくだらないが、あいにくさ、今日は鑑定書を忘れてきちまって。だから二千五百円でいいよ」


「うそつけぇ」


 そんなやり取りと笑い声が響くなか、首を伸ばして商品を見ていたぼくは、細かい竹細工の籠の下に埋もれた、黒い物体に心惹かれて目が離せなくなった。


「おじさん、そこの黒い物見せてよ」


 おう、といって親父が竹細工の籠をのけた下から出てきたのは、古そうな硯。

 値段を聞くと四千円だという。さっきの利休のナツメより高いと文句をいうと親父は歯茎まで見せてにっと笑った。


「こいつは弘法様が使ったって噂の硯だ。本当なら目ん玉が飛び出るほど高い品だぞ」


 噂で売れるほど、骨董の世界はあまくないだろうよ。


「じゃあどうして四千円なの?」


 よくぞ聞いた、といって親父はぽんと手を打つ。


「こいつは立派な桐の箱に収まっていてなぁ、それに直筆の名が入っているんだが残念ながら今日は荷物が多くてよぉ、箱から出さなきゃ持ってこらんなかったわけよ。だから四千円」


 まわりの野次馬が手を叩いて喜んでいる。


「貧乏学生だから少しまけてよ」


 どうしてだろう、この硯に心惹かれる。視線を外せない。


「んじゃ三千五百円」


「もうふた声」


「ひと声で三千、ふた声で二千五百、どうだー!」


「二千円!」


「しょうがねぇや」


 まいどー、といって親父が硯を新聞紙で包んでいる。こんな物を買うつもりなどなかったから、財布の中がいっぺんに軽くなった。

 嬉しいようなさみしいような気持ちで歩いていると、なんだか疲れてきて市の外れにある飲食テントへと足を向けた。

 なけなしの三百五十円でうどんを買い、ベンチに腰掛けひとりすする。


 昼まではまだ時間があるからか、飲食テントを訪れる人の数はまばらだ。新聞紙でくるんで輪ゴムで留められた硯をだして眺めてみる。

 確かに古い物だとは思うが、弘法が使っていなかったことだけは断言できる。

 硯の裏を見ると名が刻まれていたが、すり切れてまったく読み取れない。

 そういえば、昔この市場で客が話していた。


――ここは紛い物ばっかだが、古本屋と同じさ。知識がないから売れそうな物は何でも集めるが、知識がないから価値のある物をそれと知らずに売っちまう。だからここにはお宝が眠ってんのさ。まあな、針の山から一本だけサイズの違う針を探すようなもんだけどよ。でも、あんだよ。万に一つだがな。


 これもそのひとつじゃないかと思うと、それだけで楽しくなる。


「よい硯ですね」


 ひとりにやついているところに不意に声をかけられ見上げると、老人が蕎麦を持ってにこにこと立っていた。


「となりに座っても構わないかな?」


「どうぞ」


 手で隣をすすめると、老人は腰をかけて蕎麦をすすった。


「わたしはね、あちらの店でこれをひとつ買いました」


 皺の刻まれた指先にぶらさげた根付けの鈴が、リンと鳴る。


「古そうなのに良い音ですね」


 そうでしょう、と老人は嬉しそうに頷く。


「しかしこれはやっかいな子でね、内が錆びてでもいるのか、鳴ったり鳴らなかったりで、まるでへそを曲げた子供のような鈴ですよ」


   リン


 老人が指先をふると、鈴の音の余韻が耳の奥で木霊する。

 一時、市場の喧噪が消えて、この世に自分と鈴だけが残されたような妙な感覚にとらわれた。


「気に入りましたか?」


「えっ」


 鈴の音に魅せられて、じっと見入っていたのだろう。面白いものでも見るように、老人が覗き込んでいる。


「なんだか不思議な音色で、少しぼうっとしてしまいました」


  リン


 まわりの音という音が吸われたように消えていく。頭を振って頬を叩くと、いつもの親父たちの声が戻ってきた。今日はどうかしている。使いもしない硯に惹かれたと思ったら今度は鈴だ。


「この鈴は二千円でしたが、よければその硯と交換しませんか? もちろん足りない分はお金で払いますよ」


「この硯とですか?」


「ええ。わたしは書道を嗜むので、その硯に惹かれます」


 硯に視線を落とす。最初に感じた魅力はひとつも衰えていない。


  リン


 響いた鈴の音に、手の中にある硯が身じろいだ気がした。


「寒いのかな? 手が少し震えているが」


 そうか、手が震えているだけか。


「この硯、あなたの元へ行きたがっているような気がしてきました」


 馬鹿らしい話だが本当にそう思えた。


「だって書をかけないぼくの手元にくるより、墨をすってもらえた方が硯も幸せですよね」


「良いのですか?」


「はい」


「幾ら払えばいいかな?」


 笑って高志は首をふる。


「弘法の直筆が入った桐の箱は持ってこなかったらしくて、値切って二千円です」


 老人が膝を叩いて笑う。

 それぞれの物を交換し終えると、老人はよっこらしょと声をかけて立ち上がった。


「その鈴は店主がいっていたような江戸期の物ではないが、幸運を運んでくれる鈴ですよ。年寄りの戯言と思って、しばらくは持って歩かれるといい」


「幸運ですか? なんだろう、彼女ができるとか」


「はは、幸運など過ぎてみなければ、それが幸運だったとわからないことが多いものです。辛いこと全てが、不運だとは限らない」


「限りませんか」


「ええ、幸運とは時に不幸の面を被って現れるものです」


 そんなものだろうか。


「大丈夫です。ぼくの幸せなんて安い物ですから。消費期限当日の肉が半額で売り出しているのに出くわしたら、次の日まで幸せ気分いっぱいで過ごせるお手軽人間です」


 高志が立ち上がると、老人は怪訝な表情で首を傾げた。


「胸が痛むのですか?」


 気付くと習慣で胸に手がいっていた。


「今は大丈夫です。ただ最近胸に、ちくちくとした痛みが走ることがあって」


 納得したように頷く老人は、何かを思い出したように手を打った。


「狭間という町にある薬師屋という古い薬屋に、良く効く煎じ薬を造る婆様がいるから行ってみたらいいですよ。あそこの薬は本当に効くから」


 ではまたいつの日かこの市で、そういうと老人は人混みの中に姿を消した。

 ぼくは手の中に残った鈴をぶら下げて、指先ではじいてみた。


「本当だ、鳴らない。お爺さんのいったとおりにへそ曲がりだな」


 今日はまだ一度も胸が痛くならない。それでも高志は、教えてもらった藥師屋にいってみたいと思った。


「明日いってみよう」


 ポケットに鈴を押し込んで、高志は市の喧噪の中に戻っていった。  


読んでくださったみなさん、ありがとうございます。

5話目からは、みょんな神様や付く喪神、妖ばかり登場します。

チョイ登場の脇役を入れても、この物語にでてくる人間はほとんどいなくて、9割方は人外です(笑)

入りは物語の繋がり上固いですが、5話目以降は違ってくると思いますので、お付き合いいただけると嬉しいです。

ほとんど酒ばかり呑んでいます(笑)

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