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レクタルヴ~風花の大地と少女~  作者: 創作サークル猫蜥蜴
第一章 パラファトイ(執筆者:しずる)
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七 〈雨の御子〉

 降った〈雨〉はパラファトイの人々を大いに喜ばせたが、同時に、エルテノーデンの民を嘆きの底へと突き落としもした。二月をかけてエルテノーデン国土を浄化するはずだった〈雨〉が急に止んでしまったのだから当然だった。〈冬〉は大地の表へ居座り続け、〈雪〉は再び、土を覆い隠そうとしている。

 そして彼らは――〈雨〉を齎す雲の動きを観測するエルテノーデンの賢者は、彼らを見捨てた雨雲がパラファトイに向かったことを、数日中に真実として認める他なかった。嘆願に応じて東の地を湿らせながら西進していたはずの雨雲は、突如、エルテノーデンの地から引き上げて遠方の島国へと向かったのだ。

 そこに人の意思が介在したわけではない。神――角の主を置いて、誰が雲を操れるわけでもない。奪おうとして奪えるものではないはずだった。だから、奪われたと言うのは正しい話ではなかった。しかし心情としてはさしたる変わりも無い。

 このことで、パラファトイ人とエルテノーデン人の仲は急速に悪化した。商いのためにエルテノーデンの港に留まっていた船乗りたちは、様々な感情を綯い交ぜにしたエルテノーデンの眼差しを受けることとなった。

 ――港町でも北の山裾に〈雪〉が見え始めたとの噂が広まり始めた頃。火花が散った。

「なんでお前たちのほうに雨が降るんだ。へらへらしやがって」

 酒場の、痴れた頭と口での言葉の応酬が発端だった。日頃はパラファトイの船乗りたちに愛想よくしていた鍛冶屋の主が言葉を荒げ、ドンと椅子を蹴り上げた。

 薄暗くとも活気があった小さな酒場は、その声と音で束の間しんと静まり返った。笑声も、話し声も、食器が触れる音もすべて絶えた。その場に居た皆が彼のほうを見た。彼には、今も〈雪〉害で苦しむ東方の町に多くの親戚が居たのだ。パラファトイに降った〈雨〉の話を聞いて、大っぴらに喜ぶのではなくともどこか顔を緩めた船乗りたちが癇に障っていた。偶々隣のテーブルで飲んでいた、船乗りたちが。

「……アンタたちのほうが、見放されるようなことをしたんじゃないのか」

 売り言葉に買い言葉で誰かが言った。テーブルは拳に打たれて揺れ、たっぷりの葡萄酒が木杯の中で波打つ。静けさがひりつく緊張感を含み、間を取り成そうと動いた者が何人か居たが、遅かった。

「そっちこそ何をしたんだい? 僕らから雨を奪うなんて……」

「私たちは何もしておらぬ。お前たちの信心が足りぬのだ」

「よせッ!」

 まあ、と遮る声は薄く、唾棄と挑発が重なって罵声になった。葡萄酒が頭上からぶちまけられ、拳が空を切る。双方にあった苛立ちがそこでぶつかりあった。

「〈雨〉を返せ!」

 憩いの場は瞬く間に諍いの坩堝となった。流血し、骨を折り昏倒する者が出たが、命に係わる大怪我が出る前に軍人たちが駆けつけて場を治めた。

 場はどうにか治まったが、すべての事が治まることはなかった。

 エルテノーデンの上層部は港町の些細な――この時はまだそう思われた――揉め事にかまける余裕はなく、判断はすべて港町を統括している中間管理職に委ねられた。彼らは表向き公正に事を処理したが――パラファトイに対する負の感情は、彼らも持ち合わせていた。件の鍛冶屋の怪我の程度が酷いことと、それで仕事が出来なくなったことを理由に、パラファトイに対し何の相談もなしに船乗り二人を牢に叩きこんだ。

 賑わっていた港町は静まり返って、それでいて落ち着かない空気に満ちた。大時化の前のような、胸騒ぎのする様子だった。


 ベルシナーギン船長、ニシナの家主ペラツクの判断は早かった。残りの船員たちをさっと船に押し込んだ彼は、エルテノーデン側の荷も引きとらないままに海を引き返し、すぐに事の次第を仲間たちに伝えた。集会所に集まった男衆は聞いたあらましに皆渋い顔となり、口々に文句や意見を述べた。

「船を出そう。捕えられた者たちを取り返すのだ」

 やがて、ジヒタムが床を打って言った。

「我らも共に行こう」

 加えて言ったのはベサテルズだった。巨人が外に行く船に乗るのは、実に百年ぶりのことだったが――異例の事態には誰もざわめかず、固い面持ちで上座に座った巨人族の長を見つめた。

 そうしてサクランカ港にも争い事の気配が漂い始めた。エルテノーデンへの不満は彼らの心に、〈雪〉の代わりに根付き始める。

 ――まさか自分の生きているうちにこんなことになるなんて。

 今まで、〈冬の地〉全体が太平とは行かないまでも三国間の関係は落ち着いていると、フージャは捉えていた。特に二国と海を隔てて在るパラファトイは土地や覇権を求める争いからも遠く、海路を繋ぐには欠かせない、二国から見ても良い仲で居たい相手であるとも。だから一つ問題が起こったとして、すぐに争いらしいものに発展することはないだろうと――いうなれば楽観していたのだ。

 その甘い観測はここ数日で簡単に打ち破られていた。人質奪還の為のエルテノーデンへと出た後も連日行われた集会の議題は当然のように、「この後はどう出るか」というものに移行した。船の帰りを待ってそれから考えようという悠長さはどこにもなく、誰もが緊迫した調子で人員や武装についてを口に出す。

 ジヒタムもタナマンも、ベサテルズもベサルバトも、フージャもそれを口にした。そして結論した。

 もし向こうが謝罪をしなかった場合は、船を止めてやればよい。それで困るのは向こうに違いない。それでもし攻めてくるようなことがあっても、海でやりあえば負けることはないだろう。自分たちは大陸の土地は欲さない。それならば迎え撃てばよいだけである。――パラファトイがこれより軽んじられ、エルテノーデンに利のある事態は訪れまいと。

 フージャに、戦争への実感はない。未だにもしもの話を捏ねているだけの感覚だ。それでも今までに触れたことのない、突くだけでも緊張感のある議題だった。話し合いだけで体が疲れていくのを、彼は感じていた。

 集まらずには居られないと、男衆は暇ができれば集会所で膝を寄せる。今日でもう四日目だ。すぐに引き返してこれたならば、エルテノーデンに向かった船もそろそろ帰ってくるはずだった。

 フージャは長く続いた集会の小休憩で外に出て、硬く強張った体を解して空を見上げた。夕暮れの朱に染まる雲が広がっている。落ちる水滴も玉のように輝いて、それはそれは美しい。物々しさの失せない集会所の中と違い、心の安らぐ景色だった。

 雨の感謝を伝えに角の地へ行きたいと、フージャは思う。本当であれば、争う前にするべきことがいくらもあるはずなのだ。神への祈り、感謝、日々の営み。

 それらも怠って、エルテノーデンはどうしようというのか――

 意識せずとも聞こえる男衆の声から逃れるように、庭から台所の側へと回って。ふうと息を吐いて下げた視界に白いものが見え、フージャはどきりとした。

「オルカ。家に居ないと駄目だろう。母さんも心配するぞ」

 声をかけると飛び上がる。白い頭の特徴的すぎる少女は、今日は服も白かった。目の色に合う、お気に入りになった黄色の帯もとても目立つ。

「あれぇ、こっちからなら見つからないと思ったのに……フージャにはすぐ見つかっちゃうなー」

 さすがに集会所での煮炊きはオルカに手伝わせる者も居ない。家での留守番に飽いて出てきただけの彼女は、隠れていたのにと唇を尖らせた。

 隠れていようがいまいが、いつもこうだった。何処かに行ったオルカを見つけるのは、最初に会った時のようにフージャの役目のようになっていた。

「……オルカ」

「……うふふー」

 オルカはフージャの少し怒った顔を見て誤魔化しに笑ったが、ちらりと、戦の発起集会に近い喧騒のほうを見て俯いた。彼らの話は幼い彼女には分からない部分も多かったが、幼い彼女でも大筋は分かる。

「雨が降ったから、エルテノーデンと、喧嘩してるの? なんで? 変だよ。角様の雨はなぐさめてくれる雨なのに」

 再び唇を尖らせて言葉を零す子供の様に、フージャは眉と肩を下げる。

 〈雨〉の降る景色を見、飾らない言葉で神の御心を説かれ、彼は少々困惑した。慈悲の神である〈角の主〉はこの喧嘩――戦争をどう思うのだろうかと、考えてしまったのだ。

「本当はさ、今の時期雨が降るのは、エルテノーデンだから。……だからうちに降ると、ちょっと変なんだ」

 口調がきつくなりそうなのを感じ、フージャは平静を装ってオルカの背を押した。家に戻れと促すその手に、オルカはまたむうと唸る。

「そっちは変じゃないよ。きっと、オルカのためだよー。角様はオルカのために雨を降らせてくれるんだもん。オルカがパラファトイに居るから、角様が雨もこっちにくれたの」

「え……?」

 言い訳じみた声音、その中身に、フージャは言葉を失って立ち止まった。オルカは振り返り顔を上げ、呆然と立つ少年をその目に映す。

「お兄ちゃんが言ってたの。角様はお優しいから、オルカのために温かい雨を降らせて、雪を溶かしてくれるんですよって……本当だよ! 言ってたもん!」

 金の目が瞬くのは、雨垂れが落ちて弾けるのに似ていた。オルカはフージャの疑うような顔を見て声を大きくする。

「お兄ちゃんは角様のお友達だから角様のことなら何でも知ってるんだよ! 角様とおそろいで偉いんだから!」

 続いたその一言に、フージャは凄まじい衝撃を受けた。眩暈がする思いだった。〈角の主〉の友達、お揃い。――〈角の民〉。

「お前まさか、ベサーブーキに乗ってきたのか? 〈角の地〉から来たのか、お前!」

 華奢な肩を掴み、裏返り絡んだ声でフージャは叫んだ。オルカは驚き息を詰める。答えは返さなかった。

 それでもフージャは確信した。〈角の民〉が住まい生活しているのはあの土地だけで、あの時丁度角の地から戻って来たフージャの持ち船は港についたばかり。身分の低くない子供には違いないのに、エルテノーデンに尋ねてもジノブットに尋ねても素性が知れない。それも、どちらの国でもなく〈角の地〉から来たのであれば筋が通る。十一にもなるのに住んでいた町の名前も知らないのも道理だった。〈角の地〉には〈角の地〉以外の地名はないのだ。

 忍び込んだ子供に気づかず船を出した確認不足の不精者は、彼だったのだ。

「お前が〈雨〉を連れてるのか?」

 〈角の地〉から来た少女。彼女の為に、〈角の主〉は〈雨〉を降らせる――

 幼い言葉を繋ぎ合わせ、フージャは震える声を吐いた。ためらいがちに頷くオルカを見て、再び無言となって呆然とする。

「まさか」

 少年には、妹のようだった少女が急に遠くへ行ってしまったように感じられた。

 ベルシナーギン帰着の報を遠くに聞きながら、彼は随分長く、そのまま立ち尽くしていた。

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