2.ミツイ、衛視になる(その1)
三井晃良は日本人である。
エルデンシオ王国首都の衛視見習いだが、日本人だ。この国にやってきたのはおそらく何かの間違いだった。
少なくても本人はそうとしか思い至るものがない。
平凡な高校生が朝起きて、学校に向かう途中、ふと気づいたら草原で寝ていた。日本ではついぞ見ないほどの快晴の下、呑気に寝ていたのだ。雑草が良い布団になったらしく、実に心地よい眠りであった。
寝ぼけて辺りを見回したところ、イヌ科の生き物が走り寄ってくるのが見えた。ダラダラと涎を垂らしつつ、犬というには大柄で、犬歯の鋭さも尋常ではなく、目が四つもある。また発せられる殺気には、自分を襲おうとしているのが明らかだった。
彼は逃げた。犬なのか狐なのか、はたまた外国のイヌ科動物なのか想像もつかなかったが、とにかくあの牙に噛み付かれたら食われる以外の未来が見えない。彼はテレビでサバンナの動物たちの狩りを見たことがあるのだ。自分の血肉など哀れな草食動物よりもあっけないだろう。
平凡な高校生の脚力で逃げ切れるかどうかなど考える余裕もない。必死に逃げている間、声がした。
「狼ども!逃がすな!」
なるほど、あれは狼か、と彼は納得した。納得はしたが安心はできない。誰か知らないが、自分は狙われて襲われているらしい。冗談ではない。
「おれなんか食っても不味いぞ!他をあたってくれ!」
叫んではみたが状況は好転しそうにない。とにかく逃げなくては、と彼は足を動かす。
隠れるところはないかと顔を上げた瞬間、前方に城が見えた。
西洋風の、ディズニーランドのシンデレラ城をもっと質実剛健にしたような建物だった。
あの建物なら耐えられるはずだ。獣の牙に耐えない城など意味がない。
彼は力を振り絞って城に向かった。高い外壁に囲まれている。門らしきもののそばに、人らしき姿がある。
「そうだ、人だ。人里だ。人に紛れりゃいいだろう」
少なくても狙いが分散されるはずだ。群れを作る生き物に特有の結論に達した彼は、とにかく急いだ。
外門に近づいたあたりで追っ手の気配がなくなっていたが、そのようなことを考える余裕はなかった。
外門に近づいた彼は、そこにいた厳つい顔にぎょっとした。
身長は2メートル以上あるだろう、肩幅が広く皮鎧を着ており、手には3メートル近い長さの槍を持っている。
またその風貌は直立した熊にしか見えなかったのだ。
ぎくりと身を強張らせ、彼は迷った。狼口を逃れて熊穴に入るだ。どちらに行っても助かる気がしない。
また一度立ち止まってしまったせいで、疲労が一気に足にきている。がくがく震えて動けない。
どうしよう、どうしよう。逃げるか、どこに。とりあえず身を隠すにはどうしたらいい。
視線をさ迷わせる彼に、熊の方が先に気づいた。
「どうした、坊主。迷子か?」
かけられた声は予想外に優しそうで、心配する気のいいおじさんといった風だった。
唖然として見上げる彼を見下ろし、熊は心配するなとばかりに笑った。笑い顔も熊にしか見えなかったが、厳つくて毛深いだけでよくよく見れば人間のようだ。年齢は不詳だが年上なのは間違いないだろう。
「こう見えてもこの街の衛視団だ、怪しいもんじゃない」
いい人そうだ、というかこの熊、人間だったのか。
彼は失礼なことを考えながら、改めて自分の格好を見下ろした。
制服の白いシャツに、黒いズボン。ズボンの尻ポケットに財布と携帯が入っているが、カバンは持っていない。はじめから持っていなかったのか、逃げてる最中に落としたのかは分からない。狼から逃げてる時にはすでに持っていなかった気がした。
「あの、ここ、どこなんだ?」
とりあえず聞いたのは、そんな平凡な言葉だった。
結論から言えば、ここは異世界であった。
彼が最初に辿りついたのはエルデンシオ王国の首都と呼ばれる街。他に第二都市、第三都市があり、それ以外には大小さまざまな村があるらしい。
ゲームやアニメ、小説などで見たことのある異世界召喚というやつだろうか、と最初に彼は考えたが、召喚陣を見た覚えもなければ、召喚先でお姫様や巫女様が「よくおいでくださいました勇者様」などと迎えてくれたわけでもない。ついでに超パワーが身についていたり魔法が使えたりもしそうにない。
正しく、迷子だ。帰り方が分からない。
彼の見たところ街中は平和であった。魔王の脅威に脅かされている風には見えない。
ということは、やはり勇者として召喚されたなんてこともないのだろう。
つまり、事故。偶然。たまたま。運が悪かったね。原因不明の神隠し。うわぁ、マジかよ、勘弁してくれ。彼は誰かに叫びたかったが、叫んだところで好転はしそうにない。何しろ無一文である。食事をするにも宿をとるにも、金がない。保護してくれそうな知り合いもいない。
途方に暮れている彼を気の毒に思ったらしい、熊に似た衛視団の団長は、仕事を紹介してやろうと職業紹介所なる場所へ彼を連れていった。
紹介所の職員エレオノーラが彼をミツイと呼んだので、彼は三井晃良ではなく、ミツイとなった。
□ ■ □
衛視見習いの一日は規則正しい。
朝6時に起床して身支度を整え、朝食を食べると勤務がはじまる。
衛視の仕事は大きく分けて二つだ。外門の警備と街中の巡回。当番制なのでずっと外回りしているわけではないが、内勤の者は詰め所で鍛錬を行う。既婚者は通いでやってくるが、詰め所で寝泊りしている独身者には毎食の食事当番もあり、風呂場掃除や部屋の掃除、洗濯なども分担して行っている。
ミツイは見習いということもあり、数日の間外回りは免除してもらえることになっていた。
「わっかんねええよぉぉぉぉぉ!」
ミツイが最初に悲鳴を上げたのは魔道具の使い方だ。
詰め所のトイレは水洗で、風呂場や調理場にも魔道具が設置されている。水洗トイレは魔道具なので魔力がないと水が流せない。風呂場も魔力がないと水を溜められないし、沸かせない。調理場で火を使うのもすべて魔道具だ。衛視の詰め所に魔道具が使われているのは、庶民からすると羨ましいことだったのだが、ミツイにとってはありがたくないことだった。
「簡単ですよ?この取っ手部分に手を触れて、魔力を注げば動きますって」
「だからその魔力を注ぐ、ができないんだよ!コツとかないのか!」
「そんなこと言ってもねぇ、五歳児でもできることだから、いまさらコツって言われても」
「くそう、絶対魔法使えるようになってやる……」
「目標が高いのはいいことなんですが、どうするかなぁ。調理場はいいから掃除でもしててもらいましょうか。箒の使い方は分かります?」
「分かるよ!箒も使えねえって、どこまで役に立たないんだよ、おれは!?」
ミツイの世話係はカークスという。物腰丁寧な20代の男だ。エレオノーラに紹介されたという経緯が良かったのか、自分から世話係を買って出たのだが、何をやらせようとしても出来ないミツイにさっそく音を上げてしまっていた。
「大部屋で雑魚寝なのも慣れないってのに……、なんでこんな、いきなり体育会系の合宿みたいなことになってんだ……」
「共同生活って意味では合宿も間違ってませんが。女っ気ないところなんであまり長くいたくないですよねぇ」
詰め所の掃除があらかた終わり、鍛錬のために外に出る。詰め所の庭には鍛錬のためのスペースが確保されていた。巻藁のようなものが立ててあったり、素振りをしている者がいたりと活気があるのはいいが、なにしろ汗臭い。ツンと鼻の奥まで響く、剣道の防具みたいな臭いだ。離れた場所にまで汗臭いのが届いてミツイは頭がくらくらした。
「インドアなおれにはキツイ……」
ため息をついたミツイの服装は、カークスから借りた運動服だ。ミツイにとってはごわごわした素材のジャージ、というところだろうか。肌に触れる部分がザラザラしているので、迂闊に運動するとそれだけで怪我をするのではないかと戦々恐々する。また汗の吸収力も低そうだ。どうやらこの国にはミツイの故郷にあるような良質の運動着は存在しないらしい。
「ともかくはじめましょう。基礎体力の確認からいきますよ。鍛錬場の外周を200周してきてください」
「あんたは走らないのか?」
「動きたくないから世話係を引き受けたんです、それくらいの特権は享受しますよ」
堂々と言われて言葉もない。仕方なしに走り始める。
5週目くらいまでは余裕があったが、徐々に息が切れてきた。20周を超えた辺りから足を進めるのも嫌になってきた。50周になったころには何周目かをカウントする余裕もなかった。80周目にはもう足を止めていいかとカークスの方をチラチラ見てばかりだ。
平然とした顔でこちらを見ているカークスには慈悲や慈愛の雰囲気は感じられない。というか隣で鍛錬していた衛視と喋り始めてこっちを見てもいない。サボってもいいんじゃないかと速度を緩めたところで、声が飛んだ。
「ほら、集中。余計なことを考えてるんでしょうが、気を散らせてると怪我しますよ」
ゴン、と何かが頭に飛んできた。さほど痛くはなかったが、ツッコミを受けたのは理解できる。そこから先は、ただ黙々と足を進めるのみだった。最後にはもう走れてはいない、なんとか足を前に出すだけで精一杯だ。
だいたいなぜ自分はこんなことをしているのだろう。確かに体力は必要だと思うが、別に衛視になりたいわけではないのだ。異世界ならチート能力とかあってもいいんじゃないだろうか。規格外の魔力があって、周りが驚いたり、そういうのはアリだと思うわけだ。
足がもつれた。声が出せないので頭で考えながら、ミツイはそのままぐったりと倒れこんだ。何周走ったのかは分からない。たぶん、200には届いていない。けどもう嫌だ、寝ていいだろうか。地面って冷たくて気持ちいい。このまま目を閉じて眠ったら、日本に還ってるんじゃないだろうか。
「112周ですか……、五歳児並ですね」
カークスの呆れた声で振ってくる。悔しいのだが悔しがる余裕もない。
「では次は、剣と槍の扱い方を教えましょうか」
「まだやんの!?」
悲鳴を上げて顔を上げたミツイに、カークスが笑って返してくる。
「ほら、まだ体力があるじゃないですか。自分に甘いからすぐにギブアップするんです。限界ぎりぎりまでやらないと向上しませんよ」
「……」
「ちなみに私は自分に甘いので、向上しなくてもいいことにしてます」
「自慢げに言うな!?」
「それと私、男女差別する方なんで、いくら甘えても優しくしてあげません」
「ツッコむ気力もねえ……」
がっくし、と地面に頬をつけたミツイは、そのまま10分も見下ろし続ける視線に耐えかねて起き上がった。
幸い10分の休憩は体に余裕を与えたらしい。型を習うくらいはできる。
「両方やっても身につきませんしね、とりあえず振り方を教えましょう」
カークスはそう言って、長さ1メートル20センチほどの棒をミツイに持たせた。太さが均等なため、加工してあるようだがただの細い棒である。
「……え、剣、じゃ、ねえよな。これ?」
「杖ですよ。見てのとおり。刃があるように見えますか」
「いや、見えない。ってか、なんで棒なの?剣だろ?そうでなくても槍っつったよな?」
「棒ではなく、杖です。素人が刃物振り回すと危ないですよ。それに街中では剣より杖の方が有効なんです。剣は鞘から抜かないと使えませんが、杖はそのまま殴れますし。後、暴動起こした民衆を鎮める際に、剣だと殺しちゃいますが、杖なら当たり所が悪くなければ骨折か打撲で済みます」
つまりこれは警棒なのか、とミツイはようやく飲み込んだ。警察官が持っている警棒に比べるとはるかに長いが、子供のころにチャンバラで剣の真似事をしているのに近い。
「振り方はこうです。じゃ、素振りを50回してください」
「も少し丁寧な教え方とかねえのかよ!?変な振り方覚えたらどうすんだ!?」
「男を手取り足取りなんてごめんですよ。変な力の入れ方すると疲れますから、やりながら直した方がいいです」
仕方なくミツイは杖を振り始めた。
振り方は剣道の上段打ちをイメージしてみる。1メートル以上の得物は両手で持たないと支えられない。あまり勢いよく振ると支える手首を傷めそうになるし、遅く振ると杖が重くて腕が辛い。回数を重ねるごとに楽な振り方が飲み込めてきた。時折カークスが姿勢を正してくる。腰位置だの背筋だの、直接杖を持っていない部分が疎かになりがちらしい。
30回を数えたあたりで余裕が出てきた。ただ走るのに比べると、武器を振るってる感じがしてこちらの方が楽しいのだ。
「その調子で後1000回追加で」
「嫌だよ!?」
結局、体力の限界がくるまで続いた。最後には気を失って倒れた。
夕食時間が終わったころ、外回りをしていたメンバーが戻ってきた。
体力切れを起こしていたミツイはそのまま寝てしまっていたので夕食作りを免除された。
ミツイはまだ衛視団のメンバーたちを覚えていないが、団長のハボックだけは分かる。顔が熊に似ているのに加えて体格が一番いいのだ。気のいい男であるらしく、誰と話している時も厳つい顔に明るい笑顔が浮かんでいる。
「よう、ミツイ。今日はどうだった、カークスの野郎はサボってなかったろうな?」
「いっそサボってくれたら良かったのに。体力切れで寝てたよ……」
「がはははっ!ひ弱だなあ、おまえさん!そのうち外回りも連れてってやるから、まずは体力をつけろよ!」
「お手柔らかに……、って、あれ?」
ミツイは目を瞬かせると、ハボックの左腕を見やった。真新しい包帯が巻かれているのが分かる。
「ああ、こいつか?斬られちまってなぁ。実行犯を捕まえたはいいが、油断して仲間に逃げられちまった。臭いがしなかったし、かなり隠密能力のあるやつだな。おまえも気をつけろよ」
「え。え……、実行犯て、なんの」
「火事場泥棒だ。この街は魔道具を使えない連中がランタンとか使ってるからな、一度火事を起こすとかなり被害が出る。住民もみんな分かってるから、火事が起きるとすぐに逃げるだろう。そうすっと、荷物の類を落としてく連中も多いんだ。そこを狙った泥棒だな」
「そんなやつがいるのか……」
「ああ。火事場での行方不明者も出てるし、放火の線も考えてる。魔物も厄介だが、街中で悪さするやつのほうが衛視にとってはもっと厄介だよ。魔物は斬ればいいが、人間は現行犯でもなきゃ斬れないからな」
「それって、こないだの連中とは関係あるんでしょうか」
カークスが口を挟むと、ハボックは顔を曇らせた。
「わからん」
今ひとつ話が見えなかったが、話題はそこで終了したようなのでミツイは聞き返すのはやめた。
続きます