19.ミツイ、飛脚になる(その1)
イレーヌが捕まってみれば、またインドアな助手に逆戻りである。
雇用期間が終了する前に屋敷の掃除を終えてもらおう、とエル・バランが思ったかどうか。王城勤務を終えたミツイは屋敷の掃除に勤しんでいた。
連日の掃除に、掃除スキルなるものがあればかなりレベルアップしているのではないかと思ったミツイだが、この世界はスキル制ではないらしい。
「なあ、エルさん。そろそろ魔法を教えてくれよ。初級魔法を一個教えてくれるって契約に書いてあったよな。うやむやになって無しになったりしないよな?」
「おまえがどう思っているか知らないが、この国で契約というのは重要なものだ。最初に提示した条件を違えるようなことをすればペナルティが発生する。それは、イレーヌの問題が生じていた間、自分がほとんど魔法が使えなくなっていたように、かなり深刻なものがな」
「けど、『解呪』はできたよな?ほら、最初に石化直してたじゃん」
「あれは屋敷の増幅を使ったからだ。そうでなければ減退した自分の魔力では、自分の魔力でかけた魔法を破ることすらできない」
「……えっと?」
「魔法文字の石化魔法が中級としよう。それは自分の常の魔力量によるものだ。中級の魔法を『解呪』するには、中級以上の魔力が必要だ。だが、イレーヌの問題が生じていた間、自分の魔力は初級並だった。すると、そのままでは決して解けないのだ」
「屋敷の増幅ってやつを使うと、初級から中級に?」
「そうだ。だがそれをするには、屋敷を清掃して陣の効力を発揮する必要があったのだ」
「けど、それなら、なんでエルさんは普段から掃除しないんだよ?いざって時の備えなら、いざって時になってから慌てても遅いじゃねえか」
ミツイの疑問に、エル・バランはわずかに目線をそらせた。
この女性は宮廷魔術師であり、優秀な人物なのだろう。だが仕事ができる者が日常生活も完璧かといえば、決してそんなことはない。仕事はできるが料理も掃除もまったくできない人は、男女問わずいるものだ。まあ、そういうことなんだろうとミツイは納得することにした。
「んで、最初の話に戻るけど。おれに魔法を教えてくれよ」
「そうだな。以前から、おまえに向いているのではないかと思っていた魔法がある。一度体験してみるか」
「えっ!」
以前から、の言葉にミツイは浮き足立った。
他人に興味の薄そうなエル・バランが、ミツイに合うのではないかと思っていた魔法!うわー、ときめくわ。心にグッときちゃうわ。ちょいと年齢が上過ぎるけど、美人だし、ついでに胸も無さすぎるけど、美人だし、大事なことだから二度言ったけど、この人女というより男的美人なんだよな。あれ、ときめいたけどその次が続かない。
「何を考えてる……?」
「いや、別に」
□ ■ □
ミツイは外門まで移動させられると、手に一通の手紙を持たされた。
街中で丈夫そうな靴を選び、丈夫そうな服も購入した。給与がもらえるというのは良いものだ、エル・バランのところで働いている間は宿代がかからないので、衛視としてもらった給与を食事や風呂代に回していたが、衣服となると値が変わってくる。結果、エル・バランの助手としての給与の一部を前払いしてもらったのだ。
それまで着ていた服を荷物にまとめ、肩からかけた袋の中にしまう。リュックサックのようなものだが、もっと簡易なもので、細長い袋の口を紐で縛ってあるものだ。
外門のところで見張りを行っている衛視に軽く会釈し、「おつかれさまでーす」と愛想笑いを行い。
……はた、と我に返る。
「……あれ?」
「どうした」
「いやいやいやいや!?思わずそのまま来ちゃったんだけど、これ何?魔法教わるんだよな?街中じゃ無理ってのは納得だったから、素直に来たけど、おれ、新しい服まで買って着替えて、手紙渡されて何してんの!?」
「その手紙を届けて欲しい。ここから徒歩4日ほど行った先に、村がある。この道をまっすぐ進めばいいから迷うことはないだろう。手紙の届け先は村長で構わない。あて先は書いてあるが、おまえには読めないだろう」
「いやあ、それは助かるよ。村長さんつーと、あれ?美人の娘さんがいたりとか?」
「娘はいたと思うが、美人かどうかは個人の主観だからなんとも言えん」
「そのコメントは微妙だ。てか、どう考えても美人とは言えないけど、そう言うと失礼だから言わないって返答に聞こえる!」
「……まあ、それはおいておくとして」
「うわぁああ、否定しない!くそう、行く楽しみが半減だ!ってか、徒歩4日?今から?おれ、服と靴買っただけで、旅用の道具なんかなんも持ってねえよ?」
そうだな、とエル・バランはうなずくと、地面の上に丸を描いた。
「この上に立て。身体能力増強の魔法をかける」
「身体……?つまり、どういう?」
「体の機能を強化する魔法だ。片道徒歩4日の距離なら、1日弱に短縮できるほどの増強が行われる。単純に考えれば、足が速くなる」
「すげえ……。あ、あれか?イレーヌの身軽になる魔法みたいな?」
イレーヌが緑色の光を放つ時、その身はおそろしく身軽になった。王城の窓から飛び降りるような無茶でさえ、軽々としてのけたのだ。
「それとは異なる。イレーヌは風魔法の応用で行っていたのだ。風を纏わりつかせることで、体重を軽くして実現している。そのため筋力などには変化がないし、身軽と言っても空を飛べるわけでもないからな」
「あれ、でも宙に浮いてたことも……」
「それは風で体を押し上げていたのだ。浮いてはいるが、飛んではいない」
「……なんか、違いがよく分からん。まあ、いいや。風魔法じゃないんだな?」
「風の魔法であれば、緑色の輝きを放つ。ミツイは実際に何度か魔法を見たから覚えているかもしれないな。
火であれば赤、水であれば青、土であれば黄、風は緑だ。それ以外の魔法は白い輝きを放つのが一般的で、ごくごく稀に金や黒といった魔法もあるらしいが、そんなものを使いこなせる者はこの国にはいないだろう」
「今回は?」
「白だ。自分が得意とするのは白、それとキャサリアテルマと契約している都合上、赤だな」
「うん?」
「魔獣との契約については、またいずれ機会があったら講義しよう。今はまず手紙を運んでくれ」
「へいへい」
エル・バランの魔法は、ミツイがゲームや小説などでよく見るような詠唱を伴うものではなかった。
手のひらに白い輝きを灯し、それをミツイの肌に触れさせる。白い輝きがミツイの体を覆っていくのが分かる。生き物のように這い、自分の体に広がっていくのは正直なところあまり気分の良いものではなかった。
「『スレイプニルの脚』だ」
満足げにエル・バランが笑みを浮かべると、光はミツイの内側に消えた。
「効果は2日間。その間に戻って来い」
□ ■ □
効果は劇的だった。
半信半疑だったミツイだが、魔法が効果を示したとたん、世界が変わるのが分かった。
ミツイは手紙をしっかりと握りしめると走り出した。
「おおおおお……!おれ、風!?風なのか、マジなのか、こんな恥ずかしい言葉を本気で言いたくなるとは!」
身が軽い。いくら走っても疲れない。軽やかなスピードを維持できる。呼吸が荒くなったり、心臓が激しく動悸したりも感じない。どういう仕組みか分からないが、足が速くなるというのは、足だけではないらしい。速度を上げるのに必要な機能も強化されるのだろう。力持ちになったりはしていないようだ。視界の広さも同程度。しかし、足腰が強化されているためか、普段よりも踏み込みがいい。ジャンプしたら数メートルは飛び上がれそうだ。
「日本に帰ったら世界記録とか出そうだ!短距離も長距離も金メダルとれるんじゃないか、これ!……ドーピングだが!ドーピングだが、きっとバレない!バレないけど、まあ、ドーピングだ。諦めよう」
草原の中央を轍が走る。荷馬車が通るのだろう、牛車かもしれない。車輪の跡と動物と人間の足跡。くっきりしているのは轍のみだが、道を違えるほどではない。
ミツイは道を頼りに走り続ける。徒歩4日先にある村というものの詳細な地理は分からないが、エル・バランは「道なりに行けばいい」と言ったし、仮にも村だというなら集落だ。見晴らしのいい草原に人家があれば分かるはず。ミツイは軽く考え、ただ走ることにした。
唐突に脚が鈍る。
前方に見えた光景にミツイは多少戸惑った。多少、である。困っているというほどでもない。ミツイは速度を落としながら状況を見やった。
前方に見えるのは草原だ。中央に道が走っている。轍のついた道は、ミツイが今いる地点からずっと続いており、この道の延長上だと言えた。
ミツイは脚を鈍らせながら、道の先を見つめた。上げすぎて首が痛くなったが、どうやら道はそのまま山の斜面へとつながっているらしい。森の端に入り込んだ道が、そのまま森の向こう側から現れ、山の斜面へと続いているのが見えたのだ。どうやら件の村は山の向こう側にあるらしい。
ミツイの履いている靴はただの丈夫な靴であり、現代日本の機能性の高い靴ではない。徒歩4日分、往復8日分の距離を往復2日で駆けるなんて真似をしたら、そもそも靴はボロボロになるだろう。それが、山道でもっとボロボロになるだけのこと。登り道はおそらくかなりキツイだろうと思ったが、まあ、それも仕方がない。できれば引き受ける前にエル・バランに道を確認して断れば良かった気がするのだが、いまさらだった。
森に近づいたところで、前方に生き物が見えた。
そりゃあ、道なんだから人くらいはいるだろう。だが、犬の散歩中というのは、人家のなさそうな道の途中では少々珍しいのではないだろうか。そう考えたミツイは、少しばかり速度を落としてよくよく観察してみた。速度を落としたところで、暴走状態で走っているミツイの姿は遠くからでも見えるので、すでに気づかれているだろう。散歩中の犬と、散歩をしている男がこちらを見ている。ふと、その犬の大きさに見覚えがあるような気がした。
黒い犬だ。体格はかなり大きいので、大型犬なのだろう。奇妙なことに目が四つもある。さすが異世界……と納得しかけたミツイは、その犬の姿に違和感を感じた。
四つの目が赤く輝く。開いた口の間から、鋭い犬歯とダラダラと流れる涎が見えた。
「え」
”狼ども!逃がすな!”
どこかで聞いたような声が、頭の中でリフレインする。
気のせいかもしれなかったが、ミツイは深く考える前に行動を起こした。
「こんちわー、さよならー!」
速度を上げて、一気に横を駆け抜ける。相手に顔をマジマジ見られる前に、いなくなってしまうに限る!
その勢いで森に突入したミツイは、途中で立ち止まることなく駆け抜けた。
森の道はまっすぐではなかったが、獣道と違い、屈まずに通れる道は一本しかなかったので、迷わずに駆け抜けることができた。途中で一度も休憩しなかったために、森を通り抜けたところで息が切れた。
「……っぜぇっはぁっ……。さすがに、急ぐと、ぜぇっ……クるな。くそう、よく考えたらエルさん、水も持たせずって間違ってる。昔と違って、今の体育の授業は飲料持込可なんだからな。教育指導で怒られとけ。村までなんとか行くしかないか……あぁあ、喉、渇いた……。ここらへん、湧き水とかないか?」
キョロキョロと見回した後、ミツイは耳を澄ませた。
山側の出入り口まで駆け抜けてしまったが、もし水場があればせせらぎくらいは聞こえるだろう。
だが、森の葉ズレの音や風の音、鳥の声などに隠れて期待するような音はしなかった。
「近くに川がないからか……。泉とかはあるかもしんねえけど、探すのはちょっとキツイよなぁ。……そういやさっきの、思わず、走り抜けちゃったけど、どこで見たんだったかな」
四つ目の犬の姿に、どうにも危険な香りを感じて逃げ出してしまったが、どこで見たのか思い出せない。ただの散歩中だったら失礼な話だが、そうだとしてもミツイとは個人的に関わりはないのだから、許してもらおう。
「まぁ、いいか」
しばらく休憩した後、ミツイは立ち上がった。
山道を安易に選んだ自分が憎い。ミツイは目の前の光景を見て反省をした。
悔やみもしたが、やはりいまさらだった。山道を選ばず、裾野を迂回する手もあった気がするのだが、その場合道を外れてしまうため、目的の村にたどり着けない可能性があった。山の向こう側と勝手に決め付けていたが、山の上だった場合はどうするのだ。つくづくと甘かった。道を確認して、ついでに村の名前を確認することをなぜ怠ったのだろう。
峠の向こう側は、土砂崩れ中だった。
峠というものは、山道を登りつめてそこから下りになる場所を言う。一般的に向こう側が見えない。
山のこちら側はまったく無事なのに、向こう側ときたら岩がゴロゴロしており、土砂で斜面が埋もれていて、道が見えないのだ。轍の跡も土砂のところで止まってしまった。
「……選択肢①、土砂崩れの場所を避けて通る。……無理!無理だ、範囲が広すぎる。じゃあ、選択肢②で土砂崩れの上を歩くか?固まってりゃいいけど、途中で足がハマッたりしたら致命傷だ。却下!……でもないな、保留にしよう。選択肢③、ジャンプして向こう側に行く。できたらすげぇけど、さすがに無理だろ。選択肢④、空を飛んでいく。……いや、分かってる。言いたかっただけだ。選択肢⑤、イベントが起きて何かに乗っていく」
キョロキョロと周囲を見回して、ミツイは生き物の気配がしないのを確認した。
「てか、土砂崩れがあったにしては、変だよな?峠ごとってなら、あるかもしれないけど、こっち側だけだし。なんで崩れたんだ?」
自分で言葉にして、ミツイは青ざめた。余計なことを言わなきゃ良かった。
土砂崩れの斜面に、ポコポコと穴が空くのが見えたのだ。何かが、下から顔を出そうとしているかのように盛り上がってくる土。
「選択肢⑥!正体は見ないで、走る!」
ミツイは走り出した。土砂崩れの上を駆け抜けた。
土砂崩れを起こしたばかりのやわらかい地面だったが、足がめりこんで動けなくなる前に次の足を出せば問題なかった。理屈だけは聞いたことがある水面を走る技である。今のミツイならば水面も走れるのかもしれない。が、試してみるのは遠慮したい。万が一にも水に落ちたら凍えてしまう。
ボコボコと土砂の下から顔を出した生き物は、すでにそこに生き物がいないことを確認して不満げに喉を鳴らした。土中に生活する巨大生物の胃袋にはまだまだ隙間がある。満腹するまでは冬眠しない、悪食ミミズと呼ばれた巨大なウォームは、身の丈20メートルの体をくねらせてまた地中へと戻っていき、次の獲物を待った。