6 始まる不幸
俺の人生は生まれてから今日まで、ツイてないことの連続だったと思う。勉強もスポーツも、なにをやっても全てうまくいかなかったことはよく覚えてる。周りの奴らからグズと呼ばれ、世間からははみ出しモノ扱いをされ始めたのも、自分自身が『使えないやつ』とわかってからだ・・・・・。昨日の夜、自宅のボロアパートでうまくもねぇ飯を食っていた俺に、仕事の電話がかかってきたのがいけなかったんだ。いや、そもそもの始まりは俺がその日の昼間パチンコで大負けしたのがいけなかったのかもしれない。俺はその電話の「手伝ったら金をやる」の言葉にそそのかされ、今ここにいるんだ。こんなことになるんだったら引き受けるんじゃなかった。全くもって俺はツイてない。
車の助手席で身を潜めながら、根塚辰朗は心底そう思って後悔した。聴こえてきた銃声で外が今どのような状態になっているか想像する。恐怖のせいなのか、根塚の頭の中に仲間の生きている想像は浮かんではこなかった。浮かび上がってくる想像は仲間の死体が転がっている場面ばかりで、生きている場面などただの一度も思い描くことが出来はしなかった。その度に根塚は自分の運のなさを恨み、そしてすぐさま逃げ出したい衝動に襲われていた。
俺もここで死ぬんだ・・・・。
根塚は死を覚悟した。逃げられぬ運命なのだと悟ったかのようでもあった。そして死の恐怖に怯えながらも、根塚は車の窓から外の様子を覗いてみることにした。
「どうせここで殺されるのであれば、何をしたって構いやしない・・・」
根塚は恐る恐る車のフロントガラスから外のそっと覗いてみた。
根塚の目に映ったもの、それは影だった。影が猛スピードで車の前を通過していくのが目に映ったのだ。その影が向こうの曲がり角で止まった。根塚はそのとき初めて、その黒い影がちゃんとした人間であることを理解した。
根塚はその黒い影、もとい、黒の男がそこに倒れていた女を引っ張り上げて走り去っていくのをじっと見つめていた。
車の中で根塚はしばらく動けなかった。自分が幻を見ていたのではないかと目をこする。だが、今見たものは紛れもない現実である。そのことを理解するのに根塚はだいぶ時間を費やした。
やっとの思いで車内から外へと出た根塚は、一目散にその場から逃げ出した。死んだ仲間たちの死体を見たくなかったのだ。
その時、根塚の足に何かが当たった。その感触が混乱し頭の中が真っ白になっていた根塚の足を止めさした。
「なんだこりゃ?」
走って息も上がった声で、根塚は自分の足に当たったその杖を拾い上げた。そして自分の今立っている場所が先ほど目に映った曲がり角であることに気が付いた。
「もしかして・・・・」
根塚はズボンのポケットから携帯電話を取り出しては、慌ててメモリーの中から一人の名前を探して電話を掛け始めた。
「兄貴、でてくれよ・・・・」
「ねぇ、電話鳴ってるわよ」
「う・・・うん、ほっとけ。そのうちすぐ切れる」
その言葉とは裏腹に、電話の着信メロディーはいつまでも鳴り続けて止まらない。
「ねぇ、止まらないわよ。・・・・ねぇったら!」
「うるせぇな!わかったよ、出てやるよ!」
そう言って男はベットから起き上がり机の上の携帯電話をむしり取った。
「誰だ!こんな時間にうるせぇんだよ!」
電話の奥から少しノイズがかかったような声が聞こえてくる。
「虎の兄貴!俺ですよ、辰郎です!」
「辰か・・・・。こんな時間に電話してくるんじゃねぇよ!俺はな、朝が死ぬほど弱いんだよ!」
「すんません!・・・・でも、大変なことになっちまって!村上さんが、あの村上さんが殺されちまったんですよ!」
『虎の兄貴』と呼ばれる男――中村虎二はその言葉で目が覚めた。いや、逆にまだ夢の中にいるのではないかと思ったほど驚いていた。
「おい、そらぁ本当なのか?」
震えた声であったが、虎二はしっかりとそう言った。
「はい。本当です・・・・」
「てえめぇ、いい加減なこと言ってんじゃねぇよ!あの人が・・・・あの人が殺られるなんてあってたまるか!」
虎二は電話から聞こえたその言葉に怒鳴り声を上げた。その声はまるで虎二の感情をそのまま表したかのような大声だった、その声が部屋中に響き渡る。
「あ、兄貴、落ち着いてください!俺だってそんなこと思いたくないですよ。でも、現に目の前で・・・・」
「・・・・わかった。お前は事務所で待ってろ、俺もすぐに行く」
「へい」
虎二は手に持った携帯電話を床に叩きつけた。
虎二は怒りを胸の奥に閉じ込めて着替え始め、すぐに出かける仕度を整えた。
「あら、出掛けちゃうんだ。どうかしたの?」
隣でベットを共にしていた女が虎二に軽い声で尋ねる。
「ああ、今日は帰ってこねぇからよ。また電話入れる」
「わかったわ」
女は横になっていたベットからスルリと抜け出してはシャワーを浴びに浴室へと歩いていった。虎二は女が浴室に入っていくのを見つめながら部屋を後にした。
車に乗り込んだ後も虎二の怒りはその姿をスピードへと変えて現れた。まだ朝早いとはいえ車の数もそこそこの道路を恐ろしい速度で走り去っていった。
「殺してやる。絶対に殺してやる!」
虎二は事務所へと向かってさらにアクセルを踏み込んだ。
「虎の兄貴・・・・相当キレてたなぁ」
携帯電話をポケットに入れながら言った。
虎二は殺された村上の一番の弟分であり、当然可愛がられていた。虎二も村上には本当の親のように接していたに違いなかった。そんな虎二が村上の死を知ればこうなることなど、誰もが予想するであろう。
根塚もまたそう思っている一人であった。しかし、根塚もこのことに関して全く怒りを感じていないわけではない。それは根塚が虎二の弟分だということ、この手の世界ではどれだけ上に顔を知られているかで待遇が変わってくることもあるのだ。根塚は虎二を通じて村上にしても、他の上の者に対しても多少の恩はあるのだ。
「面倒なことになりそうだなぁ」
根塚はため息混じりにそう呟いては、拾った杖に目をやった。
だいぶ使い込まれた白い杖。その姿にもはや光沢はないものの、どこか大切にしたくなる何かを感じた。根塚は柄の部分になにやらシールが張ってあるのを見つけては、それに書いてある文字を読み上げる。
「春日崎あ、綾乃・・・・」
根塚は読み上げてその杖をじっと見つめた。きっとこの杖の持ち主であろう『春日崎綾乃』も、あの黒い影に殺されてしまったのだろう・・・・。
そう考えると根塚の中で再び車内で感じた恐怖が蘇ってきた。人間とは思えぬその影を見た時、体中の血液が凍りついたかのように自分が生きている気がしなかった。そう、根塚はあの影の、あの時の表情を思い出すと今でも自分が本当に生きているか不安になって仕方がなかった。
根塚は思い出してはならぬと、虎二に言われたとおり山口組の事務所へと向かったのであった。
根塚が急いで事務所に行ってみると、そこにはすでに数台の高級車が止まっていた。その高級車の群れを見た根塚は改めて事の重大さを思い知らされた。
「こんなに車が・・・・もしかして、もう幹部の人が大勢来てるんじゃ?!」
根塚はその車の中から虎二の車を見つけてさらに血相を変えて事務所へと入っていった。
「根塚!?根塚じゃねぇか!」
中にいた数名の仲間が急いで入ってきた根塚を見て驚きながら大声でそう言った。
それもそのはず、根塚は虎二には連絡したのだが事務所のほうには全く連絡していなかったのだ。よって、村上たちの死体は遅いので様子を見に来た他の部下が見つけ、その場にいない根塚は他の組の連中(組は他勢力の仕業だと思っている)に連れてかれたと思われていたのだ。
「お前、無事だった?それなら連絡の一本入れろや!」
「ご、ごめん。虎の兄貴には連絡したんだけど・・・・」
「虎二さんに?ああ、だから虎二さんあんなに早く来て組長の部屋に入っていったのか」
根塚はそれを聞いて二階の組長室が気になった。虎二の怒りを知る根塚は、必ず虎二が『俺に殺らせてくれ』と言うに間違えないと思った。
「なぁ、幹部の人たちはみんな上の部屋にいるのか?」
「もちろん。全員もう上の組長の部屋で話し合ってるぜ」
根塚はそれを聞いては、視線を天井へと向けたのであった・・・・・。
二階の組長室。根塚の予想は見事に的中していた。
虎二を初め他の大勢の幹部が一同に集まっては、革張りの高級椅子に座った組長に向かって並んでいた。虎二はその幹部たちの目の前で土下座をしては、組長に向かって頭を下げて「俺にやらせてください!」と大声で許可を求めていた。
「虎、やめねぇか!まだ相手もよく知れてねぇのに何言ってやがる」
幹部の一人が虎二に言った。
「そんなことは自分で調べりゃいいんだよ!関東中の組を片っ端から当たってやる!」
「な、何バカ言ってやがる!てめえいい加減頭を冷やせ!」
「やめねぇか!」
騒然とする幹部たちを一喝したのは山波組の組長、瀧澤勝彦であった。
「騒いでも村上は返ってこねぇ。重要なのはこれからってことだ。虎、この件はお前に任せようと思うが、なるべく大人しくやりな。他の組の連中に気づかれると何かと厄介だ。わかったな?」
瀧澤は鋭い目線を虎二に向けながらそう命令した。
「わかりました」
虎二はそれしか言えなかった。瀧澤の命令は絶対であり逆らうことなど出来ない。そしてなによりも、その大きな体格から発せられる声には逆らうことの出来ない迫力が備わっていた。
「お前らもわかったか?この件は虎に任せた。お前らは他の組が突っ込んでこないよう目を光らせとけ」
瀧澤の指示に他の幹部たちも了解の返事を次々に返した。
「わかったらさっさと動きな。時間は大切だ、少しでも早く村上を殺した奴を見つけるんだ」
瀧澤の眼光が再び鋭く変って言った。その鋭い視線を向けられた幹部たちは虎二を残し一同に部屋を出て行った。
「虎・・・・」
「へい」
瀧澤は今にも飛び出していきそうな虎二を呼び止めた。
「虎、村上のことは痛いほどわかる。しかし、この世界では誰しもがその可能性を持っていることだ。冷静になれ、よく考えろ、そして必ず殺してやれ」
「・・・・・わかりました」
瀧澤の言葉に虎二は肯き答えた。そしてギラついた危険な光を目に宿して部屋を出て行った。事務所を出た虎次は数人の部下を呼び寄せそれぞれに指示を与え、最後に根塚と共に自分自身も車に乗り込んだ。
「出しな」
虎二の言葉に従い、根塚は車を勢い良く発進させた。
運転席に座った根塚はルームミラーで後部座席に座っている虎次の顔を見た。思っていたほど表情に怒りの感情は表れていない。もし虎次が今にも暴れだしそうな表情ならばとても話など出来はしない。根塚は『今なら自分の話も聞いてくれるのでは?』と思い、会話を切り出した。
「虎の兄貴、実は話しておきたいことが・・・・」
「言ってみろ」
「はい。実はですね・・・・・」
根塚はハンドルを握る手に力を込め、ゆっくりと虎次に向かって話し始めたのであった。