5 深紅の出会い
「暗いよぉ、真っ暗だよぉ・・・・」
辺りを包むたくさんの騒音で、自分の声すらかすれて聴こえてしまう。
「お父さん、お母さん!どこにいるの?何も、何も見えないよ!?」
何かが燃える臭いが急に鼻の中に入ってくるのを感じると、自分のすぐそばで何かが燃えているのだとはっきりと感じることが出来た。それと同時に恐怖の感情が膨らみ、動くことが出来なくなる。
「お父さん!お母さん!」
いくら呼びかけても、何度叫んでみても、その声に返事は返ってこなかった。暗い、何も見えない真っ暗な闇の中、少女は一人叫び続けていた・・・・。
目が覚める。しかしそこには見慣れた闇が、眠っている間と変わらない暗黒の世界があるだけだった。
「夢、だったの・・・・?」
ベットに横になったまま、綾乃は自分自身に問いかけ、先ほど見たものが夢であることを確かめた。そのあまりにもリアリティなその夢は、まるで今さっきまで自分に起きていたかのように錯覚させていた。綾乃は自分の頭を左右に数回振ってそのことを忘れようとした。
綾乃はベットから起き上がると、自分のいるベットの周りを手探りで探り始めた。その手は近くの棚の辺りで止まり、そこに置いてある少し大きなボタンを見つけては押し込んだ。
すると機械的な音声で「タダイマノ午前四時二十三分デス」と、部屋中に時間を知らせてくれた。この部屋にはこういったいくつものバリヤフリーが備え付けてある。この音声報告式時計もその一つである。
綾乃はしばらくの間じっとしていたがすぐにベットから降り、ベットの近くに置いてある杖を手にとって歩き出した。杖は綾乃にとって、盲目者にとっての目。よって、杖はいつも手の届く範囲に置いてある。
『外に出る・・・・。』
それが綾乃の今思いついた考えであった。この朝早い時間であれば宗雄はもちろん、使用人もほとんど起きていない。綾乃はうまくいけば誰に知られることもなく外に出られるのではないかと考えた。
部屋のドアを開ける。辺りが静かなせいか、ドアのきしむ音などがいつもより大きく聴こえる。廊下に出て、綾乃は玄関を目指し歩き始めた。
何も見えない。そんな状況でも綾乃の頭の中には屋敷内の構造がしっかりと浮かび上がり、その全てを把握していた。十余年もの時間を過ごしたそこは綾乃の記憶の中に正確な地図を完成させていたのであった。手に持った杖で床や壁を探りながら進んでいく。その行動は足元の確認をすると同時に、頭の中の地図で自分がどこにいるのかを教えてくれる。綾乃はゆっくりと、決して早くはないその足取りで確実に目指す玄関へと向かっていった。そしてそれは、間違いなく最短の経路でもあった。
「次の突き当りを右へ、二十三段ある階段を下りたら左へ、そしてもう一度右に進めば・・・・」
綾乃はそう呟き、自分の記憶の中の地図を確認する。その地図の通り、玄関は綾乃の目の前に姿を現した。綾乃は一度も間違えることなく、玄関までたどり着いた。ほっとするのもつかの間、綾乃はすぐさま扉のノブを手探りで探し始めた。
「お嬢様?」
余りにも突然のその声に、綾乃は体をビクつかせた。しかし、それも一瞬で納まった。なぜならその声は宗雄ではなく、芳江のものだとわかったからである。
「綾乃お嬢様、こんな時間になにをしているのですか?」
芳江がそう尋ねた。綾乃はその問いに答えることが出来ず、ただその場で黙って背を向けたまま立っていた。『芳江さんはいい人だ』綾乃はそうは思っているものの、使用人である彼女が無断の外出を黙ってを見過ごすはずがない。そう思っていた。
二人はしばらく黙ってままその場に立っていた。それは時間にすると一・二分かもしれない。しかし、綾乃にはこの沈黙が途方もなく長いものに感じてしまうほど、重くゆっくりと過緊張していた。
「お嬢様・・・・」
そう言って芳江は、綾乃に自分の着ていた上着を肩に掛けた。
「外はとても寒いのですから、そんな格好では風邪を引いてしまいます。私の上着ですが使ってください。どうか、お気をつけて」
芳江はそう言ってその場から立ち去った。綾乃は芳江の言葉に強く胸を打たれた。それと同時に、先ほど芳江のことを悪く思った自分を恥じた。一個人の使用人である彼女が、これほどまでに自分を心配し、想ってくれている。義理の父でもしてくれないことを彼女はしてくれた。芳江の言葉から“やさしさ”が心に沁み込み、流れ伝わってくることがわかると、綾乃の目からは自然と涙が頬を伝い落ちていった。
綾乃は上着をしっかりと着込むと、すでに姿のない芳江に「ありがとう」と、精一杯の気持ちを込めて頭を下げた。外への扉を開けたのはその後のことだった。
「そろそろ時間か・・・・・」
そう言って一也は椅子から腰を上げた。この依頼を受けてからの間、一也は毎日のように考えていた。『どうやれば標的を速やかに殺すことが出来るのか、同伴している部下は何人いるのか、もし標的が逃げ出したらどうするか』と、様々な疑問・問題が出てきたが、一也は失敗への不安や緊張、恐怖といったものは全く感じていなかった。
“何もかもを完璧にこなせばそれでいい。それだけで失敗などというものはなくなるのだ。”
一也はそう教えられていた。
仕事用の黒服に着替えた一也は、手に少し大きめな鞄を持って家を出た。外は日が昇っておらずまだ暗い。朝方の暗い道を一也は車の場所まで歩いていった。
『少し眠いな。』
そう思った。それもそのはず、一也は昨日一睡もしていないのだ。そして、それは同時にいつものことでもあった。一也は殺しの仕事を始めてから一度だって熟睡したことがない。仕事の前日などは一睡も出来ない。
“常に命を狙われていると思え、そして警戒しろ”
それが基礎であり、殺しの世界の常識だと一也は教えられた。それは例え寝ている時でも例外ではない。一也は一瞬でも『眠い』と思った自分自身を叱りつけた。
「気を引き締めろ」
呟きとも言えないほどの小さな声で、一也は自分自身にそう言った。
車に乗り込み、持っていたバックを女子席へと放り投げた。バックの中はもう一つの仕事道具がしっかりと入っているのだ。地味な紺色のスーツや今取り組んでいる仕事の書類などが入っているバックを、一也はしばらくじっと見つめていたが、すぐさま視線を前に向け車を発進させるべくアクセルを踏み込んだ。朝の空いている道を車は軽快に走っていった。それはまるで一也の眠気すら置いていってしまうようだった・・・・・。
冬の冷たい空気が張り詰めた廊下を真二は歩いていた。ただ歩いていたわけではない、手にはモップを持って掃除をしているのだ。絨毯のある場所ではないので汚れが目立ち、ピカピカになるまで磨かないと芳江にすぐにバレてしまうのだ。そのため真二はいつも念入りにモップを掛けている。不意に窓の外が目に付いた。暗い、真っ暗と言ってもおかしくない冬の空。その冷たい空気で満たされた空はどこか落ち着きがないようにも見えた。真二が腕時計を見ると、朝の五時をさしていた。
「今日の洗濯物は屋根干しかな」
真二がそう呟いていると、芳江が隣までやってきた。
「あ、吉田さん。見てくださいよ、この天気。なんだか嫌な感じですよね?雨でも降らなけりゃいいんですけどね」
「そうね・・・・。雨、降らないでほしいわね」
芳江は窓の外を見つめながらそう言った。
それを見た真二は芳江のその態度にどこか引っかかる物を感じたが「心配ないですよ。この屋敷は室内乾燥も十分出来るじゃないですか」と、一蹴したのであった。
しかし、当の芳江のほうは気が気ではなかった。綾乃のことを思うと雨など降ってほしくないと本気で神に祈ってもおかしくないほどに・・・・。
『迷いの森から出る術は己を信じ、神への祈りを忘れぬこと・・・・』
綾乃は小さな時、まだ目が見えていた頃に読んだ本の一文を思い出していた。“迷いの森”綾乃が今歩いている街はまさにそれだった。綾乃にとって面識のない道を歩くことは深い森に迷い込むのと等しく、出口の見えない迷路と同じなのだ。だが、今の綾乃はどこへ向かうわけでも、出口を探しているわけでもない。外にいるだけでよかったのだ。短時間ではあるがその喜びをかみしめていた。一人で歩くのは初めてであったが、綾乃は今まで真二と通ったことのある道へと間違えずに進んでいった。
「真二さんと行く道は確か・・・・・」
屋敷同様、再び綾乃の頭の中に地図が広げられていった。それは正確に描かれた記憶という名の地図。この地図を間違ってはいけないと綾乃は思った。もし間違ってしまえばこの見えない迷宮から屋敷に戻るのは不可能なのだから。綾乃は自分の記憶を真剣に蘇らせながら、慎重に進んでいったのであった。
一也が目的地に到着したのは朝の五時半過ぎ、情報によると村上は三十分後の六時にちょうどに自宅から出てくるとのことだった。
車を辺りが見渡せる場所に止める。もちろん村上の自宅も一目でわかる場所である。そして車から降りた一也は小さな路地から大通りまで見て回った。暗く重い空の下、辺りには人の影すらなく冷たい冬の風がむなしく吹き付けるだけ、一也は車の中に再び戻って時間までじっと待とうとした。その時、車のルームミラーに人影が飛び込んできた。一也はすぐさま車内で身を伏せて対象を確認する。
『予定の時間が早まったのか?』
一也は一瞬そう思ったが見えたのは自転車に乗った新聞配達の若者が一人、鼻歌混じりに新聞紙を各家庭のポストの中に投げ入れていく。
「ちっ」
息をふっと抜いて通り過ぎるのをじっと待った。通り過ぎてゆく新聞配達を眼で追っていると、その先に建っている大きな屋敷が見えた。その立派な豪邸はまだ暗い空の中に堂々と聳え立っていた。
「この不景気でも持ってるやつは持ってるってことか・・・・」
“不景気”・・・金がない時代。金が全ての時代。金のためなら人をも殺す時代。
こんな時代だからこそ『殺し屋』などという非現実的な仕事が存在するのかもしれない。そう考えて、一也は自分自身に苦笑した。『じゃあ、俺は非現実的な人間なのか?』などと考えたからだった。“非現実的”な殺し屋と“現実的”なサラリーマンの二重生活、確かにどこか浮世絵染みている。
緊張の糸が緩んだのもつかの間、一台の高級車が通り過ぎ村上の自宅前で止まっては、その車から組のものと思しき二人の男が出てくるのが見えた。それを見た一也の表情も一気に強張った。
「来た、か」
一也は車から降りて歩き出した。コートの上から胸にしまっておいた拳銃を手で確かめる。村上の自宅前まであと十数メートルと離れていた。
車の中から出てきた二人の男は自宅の前に立って村上が出てくるのを待っている。目には色眼鏡、派手なコートを無愛想が見事に着こなしている。その二人が辺りを見回し、自宅の扉を開けた。距離はまだ遠い。中から一人の人間が現れる。一也はそれが村上だと判断し、すぐに距離を詰める。距離は五メートルを切っていた。コートから右手で拳銃を抜く。一人が一也のことに気づいて声を上げる、それと同時に一也は引き金を引いて相手の急所を撃ち抜く。銃声と共に相手が倒れる。すぐに空いていた左手でもう一丁の拳銃を抜き、二人目も撃つ。車の中からもう一人飛び出してきたがその三人目も銃声と共に地に倒れた。
全てが一瞬の出来事、無駄な動きのない最速の出来事。村上は何が起こったのかすら判らず、死体の倒れている地面に座り込んでいた。
「お、お前は・・・・何者な、なんだ!?」
恐怖からか声が震えている。一也は黙って相手の額に標準を合わせた。
「わ、わかった。金ならいくらでもやる!だから――」
発砲を示す銃声があたりに響いては消えていった。村上の死体が他の三つのそれと共に地面へと深紅の血を流し、広がり、染めていった・・・・・。
一也は後方を見回した。ここで騒ぎになってしまっては意味がない。誰もいないことを確認すると、次に車の中を確認しようと歩み寄る。
“飛び出してきた男は運転席からだ。助手席は?”
そう思っての確認であった。生き残り・目撃者は全て消すことが今回の計画で重要な一つなのだからだ。
そして助手席を開けようとした、まさにその時だった。
見落としていたと気づくのには余りにも遅すぎた。車の向かい、ちょうど今の一也の位置から真正面の曲がり角、そこに一人の女が頭を抑え、座り込んでいるのが一也の視界に飛び込んできた。一也は弾ける様に女のいる所へと走り出した。それこそ弾丸のようにその場へ駆けつけると女の腕を取り引っ張り上げる。
「立て!こっちだ!」
「きゃっ!」
女は短い悲鳴を上げる。引きずるようにして自分の車へと女を連れて行き助手席へ放り入れ、自分も運転席へと回り乗り込むと急いでアクセルを踏み込んだ。
「・・・・・・」
一也は黙って車を走らせた。自分がまさかこんな失敗をするとは思っていなかったからだ。しかし一也は焦ってはいなかった。むしろ冷静なほどであった。相手の車内が確認できなかったのが心配ではあるが、人数からいって中に人が残っていることは考えにくい。そして目撃者であるこの女を消せば問題などない。
一也はそう考えていた。一也が冷静でいられるのは取り返しが付く失敗であったからである。
「あの、あなたは?!」
「黙ってろ。黙ってその場でじっと座ってればいい」
一也はそう言って車を走らせ続けた。
綾乃は言われるがまま、その場でじっとしていた。
それは突然のことだった。いつもの道、真二と歩くいつもの道を歩いていただけ。違うのは時間が朝ということと一人でいたということ、たったそれだけだ。しかし、聴いたことのない突然の爆発音が鳴り響き、驚いてその場にしゃがみこんだ・・・・その後のことは覚えていないといってもおかしくなかった。今自分がどうして知らない男と車(声とその場の感じで)に乗っているのか理解できずに混乱寸前であった。とりあえず落ち着こうとするがそれも出来ないまま、こうして命令に従っている。エンジン音が止まり車が止まったのだと綾乃は少しほっとした。しかし、何か硬い物が頭に当てつけられたことに気づき体をビクつかせる。綾乃の感じたその“硬い物”とは一也の拳銃だった。隣に座っている綾乃のこめかみに突きつけたのである。
「悪く思わないでくれ、仕事なんだ」
「・・・・私が何か?どうしたのですか?」
その綾乃の言葉に一也は怪訝な表情を浮かべた。
「何を言ってるんだ?これが見えないわけじゃないだろ、お前は死ぬんだよ。今、ここで」
「この頭に突きつけた物なら私には見えません。私は、盲目ですから・・・・」
「なんだって?」
「目が見えないんです。それに、どうして私が殺されなければいけないんですか?私、なにかいけないことでもしましたか?」
綾乃は百膳としない疑問を名も知らぬ男へとぶつけた。
「盲目?目が見えない?じゃあ、あれも見てないのか?」
一也は自分の軽率な行動に舌打ちした。目が見えないのなら先ほどの光景も、自分の顔も見られてない。聞いたのは銃声だけなのだ。
「仕方ない。可哀想だがやっぱり死んでもらう。最後に言いたいことでもあるか?」
「・・・・・・・」
綾乃は黙って前を向いていた。
「何もないのか?」
「どうしても、私を殺すと言うのですか?」
「そうだ」
一也はそう言って引き金に指をかける。
「では、最後に教えてください・・・・」
綾乃の言葉に一也は肯いたが、相手が盲目者だということを思い出し「言ってみろ」と訂正した。
「どうして、あなたはそんなに悲しい声なのですか?」
綾乃は言った。
一也は混乱した。この訳のわからない質問に混乱し、動揺した。
「『悲しい声』?俺の声がそんな声に聞こえるとはな。耳も聞こえないのかお前は?」
「耳は正常です」
一也は綾乃の堂々とした言葉と態度にさらに混乱を深めた。
「なぜ怖がらない!死ぬかもしれないんだぞ?震えないのか?命乞いをしないのか?盲目者だからか、目が見えず拳銃が見えないから怖くないのか?!」
「・・・・・・」
「くそ!」
一也はその場で綾乃を車から追い出した。
「このことは誰にも喋るなよ。俺はお前を見てる。喋った時は必ず殺しに行くからな!」
一也はその場で座り込んでいる綾乃にそう言って車を発進させた。綾乃はしばらくその場から動くことが出来なかった。死の恐怖と開放されたことによる安心感、その二つが綾乃の体をその場に縛りつけて動かそうとしなかった。そして自分が今どこにいるのか、あの男は何者なのか、杖はどこにいってしまったのか、綾乃には判らなかった。判るのは体に吹き付ける冷たい風と、最後に肩に触れた一也の手の感触だけ。それだけだった・・・・・。