3 白い女
廊下が伸びている。長い長い、とても長い・・・・そんな見慣れて長い廊下が今日は一段と長く、目的の場所まで遠くどこまでも続いているように感じられる。
岡本真二はゆっくりと歩きながらそう感じていた。
二十三歳の岡本真二は二年前、使用人としてこの巨大なお屋敷の『使用人』として働いている。本来、自分の父親がここに使えていたのだが病に倒れ、その父に代わって臨時で真二は働き始めた。
しかし、真二は現在この屋敷の「正式な」使用人である。
そうなった理由はいくつかある。
1、父が倒れ、自分が家族を養わなくてはいけなくなったから。
2、働いているうちに気に入ったから。
3、給料がいいから。
・・・・と、言うものでは全くない。
「今日こそは・・・・今日こそは・・・・・」
口の中でそう呟きながら、真二は目的地へ進んでいく。
広く、まっすぐ伸びた廊下の上、十二月という季節のせいかどこか冷たくなっている。そんな廊下も当然真ん中さえ歩いていればぶつかることはない。真二も無事、目的の扉の前で歩みを止めた。
真二はその場で深呼吸を二回、屈伸運動を三回するもまだ緊張するらしく、自分の手のひらに『人』の字を十一回書いて飲み込んだ。
「今日こそは・・・絶対に言ってやる」そう呟き、真二は扉を開けて中に入る。
そこは白い世界だった。全体の壁が白一色に染まった部屋、そこはどこか外の世界とは別の空間にいるかのようだった。他の色といえば木彫りで出来たクローゼット、机と椅子ぐらいだった。
「・・・・どなたですか?」
白い部屋の中央、木彫りの美しい椅子に座った少女が言った。
その姿美しく、白いワンピースを着た少女はそこに座っていた。
真二はそのよく通った声を聞いただけで緊張し、心臓の音が一つ高くなるのを感じた。 「岡本です。失礼します・・・・」今にも消えてしまいそうな声で言う。
「あら、岡本さんですか?何も言わずに入ってきたので誰かと思いました」
少女はそう言っていたずらに笑みを浮かべた。
「すいません…。お嬢様、旦那様がお呼びです」
「そうですか。わかりました」
少女はそう言って椅子から腰を上げ。立ち上がる。
それを見た真二は、「――あの・・・・」と言って部屋から出て行こうとする少女を呼び止める。
今日こそは・・・・今日こそは・・・・。
逸る気持ちとは裏腹に、言いたい言葉が出てこない。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、そのぉ、一緒に行きます・・・・」
真二のその言葉に少女はにっこりと笑って、「ありがとうございます」と答えて少女は一足早く部屋を出て行った。
今日もいえなかった・・・・。
真二はため息をしながらそう思った。彼女と会ったのは二年前。父親の代わりでこの屋敷に来た真二は彼女を見たその瞬間、すぐさま心奪われ『恋』という魔法にかかってしまった。そして二年前のその日から、どうしても、“好きです”という一言が言えないまま、真二はこの春日崎低の正式使用人なっていたのだ。
「明日こそは・・・・」
そう呟き、真二も少女の後を追って部屋を後にした。
真二が想いを寄せる女性――春日崎綾乃は美しかった。
透き通るような白い肌、清楚な顔立ち、肩まで伸びた黒く艶やかな髪を後ろで束ね、白いワンピースを着ている。彼女を見れば真二どころか、誰が惚れてしまっても頷ける。しかし、身長が低いせいか、丈の長いワンピースを「着ている」というよりも「かぶっている」という感じになっている。
綾乃は、長く伸びた廊下を真二の後をゆっくりとついて歩いていく。その右手にはしっかりと白い杖が握られていた。
春日崎綾乃は盲目なのだ。
綾乃が五歳のとき、両親と共に交通事故に遭い、綾乃は両親と両目の視力を一度に失ってしまった。その後、親戚の少なかった綾乃は施設へと引き取られた。しかし、その翌年、現在の義父である春日崎宗雄が現れたのであった。
春日崎宗雄・・・・当時から医療薬品を中心に開発・研究をしている学者の一人で、今も昔も莫大な資産を持っている。つまりのところ、金持ちに変わりなかった。その宗雄が突然綾乃を養女として引き取り、春日崎家の一人娘として向かい入れた。よって、綾乃は六歳の時からこの屋敷で生きてきた。そう、この屋敷で育ったといって過言ではなかった・・・・。
綾乃は手に持った杖でコツコツと床を探り、足元を確かめながらゆっくりと真二の後ろを歩いていく。視力を失ってから十四年余りが過ぎていた・・・誰かの後をついていくなど慣れたものだ。
真二が足を止めた。義父・春日崎宗雄の部屋の前に到着したのである。真二は綾乃が扉の前に立ったのを確認すると、両開きの扉を引き開けた。
扉が開いたのを杖で確認した綾乃は「お父様、綾乃です。入ります」と、一礼した。
「入りなさい」奥から太い声で返事がした。
「失礼します・・・」
綾乃は一人部屋へと入っていった。使用人の真二は外で待っていることが決まっている。親族の話など使用人などが聞いてはいけないのだ。
部屋の奥、春日崎宗雄はお仕事用の大きい机を挟んで座っていた。綾乃はその前まで歩み寄り立ち止まる。
「お久しぶりです・・・。今回の仕事はどちらまで行かれてたんですか?」
綾乃は無表情で宗雄に尋ねた。
「うむ、イタリアの方までな。お前のほうは元気でやっていたか?」
「言わなくてもお分かりでは?・・・・何一つ変わりありません」
口調が強くなってしまったかも・・・・。綾乃はそう言った瞬間思った。
「そうだったな・・・。今日呼んだのはお前の生活のことでだが・・・・」
綾乃は表情を変えず、黙って宗雄の言葉を聞いていた。
「お前も今年で二十だ。明日から外出を許可しよう」
私の聴き間違えじゃないかしら?
義父の言葉に綾乃は自分自身の耳を疑った。そして、その驚きを隠せなずにいた。
「――外に出てもいいと?」
綾乃は恐る恐る確かめる。
「そうだ、外出を許可する。ただし条件は付く・・・いいな?」
「はい。ありがとうございます・・・。お話はそれだけでしょうか?」
「うむ。詳しくは明日の朝伝えよう。行っていいぞ」
そう言われて綾乃は、その場で回れ右をして部屋から出て行った。
宗雄は心なしか足早に出ていく綾乃を黙って見送った。
その宗雄の隣で綾乃を見ていたもう一人、宗雄の秘書となる女が黙って立っていた。二人が会話しているその間、まるで人形のようにその場を動かず、綾乃が出て行くのを確認すると初めて口を開いたのであった。
「旦那様、先ほどのお話ですが・・・・」
「私は綾乃を甘やかしてるつもりはない。あいつにも外の世界を知る必要がある、そう思っただけだ・・・・秘書のお前が気にかけることではない」
宗雄は秘書にそう言って納得させた。そう、自分を同時に納得させるように・・・・。
『幸せ』という感情が心の中に広がっていくのがわかる・・・。外に出れる。なんて素晴らしいことなんだろう・・・・。
外の世界。
綾乃はこれからの事を想像すると、飛び上がって喜びたい気分で胸がいっぱいになるのを感じていた。「今すぐにでも外に飛び出したい!」綾乃はその感情を抑えるので精一杯だった。
自分の部屋に戻るやいなや、すぐに人を呼び出した。
数分後、一人の女性が部屋に入ってきた。
「失礼します。お嬢様お呼びでしょうか?」
その声を聞いた綾乃は「芳江さん!待ってましたよ!」と、すぐさま声のするほうに勢い良く駆け出した。
「あらあら、どうなさいました?そんなに早く歩くとあぶないですよ」
芳江と呼ばれた使用人がおっとりした声で言う。しかし綾乃は興奮が冷めることなく、そのままの勢いで見事芳江にぶつかってしまった。
綾乃は支えられながら事の説明に始める。
「だってうれしくて仕方ないんですもの!先ほど、お父様が外に出ていいって言ってくれたんです。私うれしくて、うれしくて・・・」そう説明する表情は二十になる女とは違った『少女』のものにかわっていた。
芳江は綾乃のその言葉を驚いた。
「――そうでございますか・・・・」と、言葉を濁らす・・・泣いているのだ。
盲目の綾乃にもそのことがわかったのか、心配そうに、
「芳江さん?泣いているのですか?」と尋ねる。
「いえ、そんなことは・・・・すいません・・・」
「謝らないでください。私も泣きたいくらいですから・・・もらい泣きしてしまいますわ」
「ふふ、そうですね。泣くのはやめましょう。・・・・さぁお嬢様、外に出るのでたらしっかりとおめかししていきましょう!」
そう言って芳江はぐっと腕まくりをして準備をし始める。綾乃は芳江のその言葉に強く肯いたのであった。
真二は落ち着きなくうろうろと動き回っていた。
もちろん屋敷内をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしているわけではない。ここは真二の部屋、内装は他と大して換わりはしないがそこは使用人の部屋、広さのほうは多少我慢するべきであろう。
綾乃を宗雄の部屋へ送り終えた真二は部屋に戻っていったのだ。一使用人が親子の会話を立ち聞きするわけにもいけない。
初めてこの屋敷に代理として訪れたとき、真二は綾乃に文字通り『一目惚れ』した。それ以来、なんどもアタックを試みるも前進せず、思い切って告白しようにもあの有様なのだ。
「そうだ!直接会うからいけないんだ、電話とかなら・・・・」そう言って綾乃の部屋には電話がつながっていない事に気づき言葉を切る。
出てくる物は言葉ではなくため息ばかり、真二は自分が恋の病にかかっていることを実感した。
そこへ部屋の内線が鳴り響く。真二は突然のことに(突然で当たり前なのだが)驚きながらも受話器を上げる。
「もしもし、真二君?吉田ですけど」
「どうしたんですか?自分ミスってないですよ。朝食準備もシーツの交換もやったし、中央階段の掃除もやりました。これでミスがあるって・・・・・」
「誰もあなたがミスをしたなんて一言も言ってないわ。そんなことより、ちょっとお嬢様の部屋に来てちょうだい」
「お嬢様の部屋にですか?」真二はそう言って聞きなおす。
「わかった?大至急よ」
電話は真二の返事を待たずに切れた。
とにかく急いでいったほうが良さそうだ・・・・。真二は駆け足で部屋を出て、綾乃と芳江の待つ部屋へと向かった。
「失礼しま――」
部屋に入った真二は言葉を切った。その理由は目の前に座っている綾乃にあった。
椅子に座った綾乃は、いつも着ている白いワンピースから今どきのおしゃれで可愛い服装へと変わっていた。そして綾乃はその服を見事に着こなし美しくなっていた。
真二はそんな綾乃にすっかり心奪われてしまい、すぐ隣にいる芳江すら視界に入っていなかった。
「岡本さんですか?」
真二の声に気づいたのか、綾乃は真二のいるほうへと顔を向けてそう言った。
「はっ、はい!」真二は上ずった声で返事をした。
「なにやってるんだい?そんなところに立ってないで早くこちらにいらっしゃい」
芳江にどやされ真二は部屋の奥へと進んでいった。
「あの、俺になんか用事ですか?他にも仕事あるんですよ・・・・手短にお願いします」
もちろん他の仕事などなかったが綾乃の前、少しでも格好を良くしたいのだ。
「他に仕事?そんなものあったのかい?」
「あるんですよ。いろいろと・・・・とにかく何なんですか?教えてくださいよ」
真二はそう言って芳江に催促するが目はしっかりと綾乃を見つめたままだった。
「実はね・・・」
芳江は宗雄から『外出許可』許された旨を説明した。
それを聞いた真二は、
「それ本当ですか?よかったじゃないですか!やっと外に出ることが出来るなんて!」と、興奮しながら激励の言葉を述べた。
「ありがとうございます」
笑顔で綾乃が答える。その笑顔を見ただけで、真二は天にも昇るような気分になるのである。
ああ・・・綾乃お嬢様・・・あなたの笑顔はなんて素敵なんだ・・・・。
真二は心の中で綾乃の笑顔にそう呟いた。
「それでね、なにしろお嬢様にとって十数年ぶりの外出でしょ?いろいろと大変だと思ってね・・・それにお嬢様は・・・・」
「・・・・そうですね」
「だからきっと、旦那様は『お目付け役』を付けると思うのよ。出来れば私が付いていきたいんだけど、こちらの仕事もあるし・・・・」
真二がまじまじと上司である芳江の顔を見つめる。
「もしかして・・・その『お目付け役』を・・・・」
「そう。その役を真二君にやって貰おうかと思って。まだ決まったわけじゃないんだけど、もしもって時にね」
芳江の言葉を聞いて真二は満面の笑みを浮かばした。
「わかりました!私、岡本真二が命を賭してお嬢様をお守りいたします!」
「でも、他の仕事があるんじゃ・・・・」心配そうな表情で綾乃が尋ねる。
「何を言ってるんですか?そんなことよりこちらの仕事のほうが百倍重要です!」
真二は満面の笑みでそう答えたのであった。