20 三度目の男
先回と同じく、今回も結構長いです。
最後まで読んでいただければ光栄です。
冷たい空気が熱くなった体に吹きつけ、一瞬の心地よさが通り過ぎていく。額から頬へと落ちてくる汗を手で拭うと、一也は再び走りだした。美加と別れ、最寄りの駅を目指して全力疾走を続けていたのだ。
そう、一也は焦っていた。
美加の口から出た正体不明の男の存在が一也を焦らせ不安を駆り立てていた。そして不安で埋まった頭の中で、『あの男』の笑い声も聞こえてくるようだった。
必死に走ったかいあって、一也は短時間で駅に到着することができた。寒空の下、コートすら羽織ってないその体からはうっすらと蒸気が立ち上っていた。
休むことなく一也は足を客待ちで路上駐車しているタクシーへと向けた。運転席横の窓を叩いてシートを倒し横になっている運転手を起こす。起き上がる運転手、しかし余ほど眠いのか客である一也を見ても反応せずにまた横になる。
一也は左手に持った銃の柄で窓ガラスを叩き割った。突然のことに悲鳴を上げる運転手。一也はその顔に銃を向けた。
「死にたくなかったらさっさとドアを開けろ!」
運転手は一也の言葉に何度も頷き、急いで後部座席のドアを開けた。後部座席に座り行き先を告げる一也。疲労で重くなった体が柔かいシートに沈んだ。再度運転手を呼ぶ。
「は、はい」
「ケイタイ持ってるな。貸せ」
自分のポケットから慌ててケイタイを引っ張り出しては差し出す運転手。一也はそれを引ったくり急いでダイヤルを押し始めた。呼び出しを示す電子音が一也の不安を無意味に掻き立てた。
いつまでも鳴り続ける電子音。時刻は深夜1時になろうとしていた。
綾乃はベットに横になりながら、いつとわからぬ一也の帰りを待っていた。
目が見えない綾乃には時計を見ることは出来ない。もちろん屋敷のように音声で時刻を知らせてくれるような設備もここにはない。しかし、時を知ることが出来ない綾乃でも今が夜で大分遅いであろうことは長年の生活から感じ取っていた。
多少の睡魔が目蓋を重くし始めた。綾乃はそれを払い除けるかのように目を擦った。
「昼間たくさん眠ったはずなのに・・・」
欠伸を堪え、綾乃は呟いた。
綾乃が目を覚ましたのは一也が出ていってから数時間後、昼過ぎだった。そこには一也のいない代わりに自分を包んでいた毛布、テーブルには二食分のおにぎりが用意されていた。綾乃はおにぎりを頬張りながら、昨晩自分が一也にしたことを思い出していた。
私、一也さんになんてことを・・・・・。
思い出しただけで頬が熱を上げ赤くなる。
そんな思いを繰り返し巡らせながら、綾乃は一也の帰りを待っていた。 しかし、その頑張りも睡魔の前に限界が近づいてきていた。
カタン・・・・。
今にも眠ってしまいそうな綾乃の意識を僅かな物音が繋ぎ止めた。
「・・・・一也さん?」
一也が帰ってきたのかと思い、声を掛ける綾乃。しかし、その呼びかけは何の言葉も返ってこなかった。
その時、綾乃の四感が警戒のベルを打ち鳴らした。
「誰ですか?」
そう言いながらベットの近くに置いてあるケイタイへと手を伸ばす綾乃、目の見えない綾乃でもそこに誰かが居るということを、一也ではない誰かがいるということを感じ取っていた。
「ダメダメ。連絡なんて取っちゃさぁ」
「その声は、あの時の――!」
声の主はケイタイを探す綾乃の手を掴んで言った。
「お姫様、あんたは大事な人質なんだからさ」
声の主――金子は笑い声を上げながら、掴んだ綾乃の腕を強く握り締めた。
「は、離して!」
「暴れないでよ。君を殺しちゃったら葬儀屋が怒るだろ」
「『葬儀屋』・・・?」
聞き返してきた綾乃の言葉に、金子の口元に不気味な微笑が浮かび上がった。
「遠野一也のあだ名だよ。人を殺しまくってるからそう呼ばれてるのさ」
「殺しまくってるって・・・・、そんな・・・・」
金子の口から告げられた事実に綾乃は身を震わした。
一也の正体。綾乃とてバカではない。銃を所持している時点でまともな事をやっている人間ではないことぐらいわかっていた。しかし、綾乃は知りたくなかった。その予想を事実にしたくなかった。自分の知っている一也を、その事実で歪ませることが怖かったのだ。
「一也さん・・・・」
「あらら、知らなかったのかな。それとも、どこかの国の王子様とでも思ってたのかな?」
そう言って金子は声を上げて笑い出した。小さなプレハブ小屋の一室にその声は響き、綾乃の思考を止めていった・・・。
その時だった。部屋にケイタイの呼び出し音が鳴り響いた。金子が鳴り続けるケイタイを手に取り通話ボタンを押して耳に運んだ。
『もしもし、おい!聞こえるか?』
聞こえてくるその声に金子の歓喜は一気に頂上まで到達した。
「うひゃひゃひゃ・・・・」
『!』
「夜分遅くにこんばんは、葬儀屋さん」
『金子!』
「生きててくれて嬉しいよ」
『・・・・どういう意味だ?』
「マヌケなヤクザを相手に君がやられるとは思わなかったけど、僕は君がこうして生きていてくれてとても嬉しいよ。だって、君を殺すのは僕の役目だからね」
『お前が、お前が奴らに教えたのか・・・・』
「あんまり深く考えるなよ。生きてるんだから別にいいじゃん」
『てめぇ・・・』
「うひゃひゃ、怒るなって。あんたの大事なお姫様は僕が預かってるんだからさ」
『・・・・』
「早く来いよ・・・。じゃないと、先にお姫様があの世行きだぞ」
そう言い終えると金子はケイタイの電源を切って一方的に通話を終了させた。その表情は満足感で満たされ、満面の笑みを浮かべていた。
金子は何も言わぬ綾乃を見下して、
「来る・・・。あいつ、僕を殺しに来るよ!」
そう言って大きな声で笑ったのだった。
一也は唇を固く結び黙ったままじっと座っていた。だが、落ち着いているわけではなかった。その心の内は金子に対する殺意で激しく波立っていた。
「くそったれ!」
そう呟き、一也は手に持ったケイタイを強く握り締めた。山波組の襲撃で傷ついた体。その体が熱く、火を噴いたかのように熱くなっていく。
何でもいい、今すぐ何かに向かって引き金を引きたい。
自分の中に芽生える強烈な破壊衝動。一也はその衝動をなんとか抑えていた。その全てを金子にぶつけるために・・・・。
一也を乗せたタクシーがゆっくりとスピードを落とし、隠れ家のある廃ビルの前に止まった。
「つ、着きました」
震えた声で目的地到着を伝える運転手。しかし、一也は後部座席に座ったまま動かなかった。その様子を見た運転手は眠っているのかと思い、もう一度声を掛けてみた。
「あの・・お客さん、到着しましたが・・・」
「わかってる。黙ってろ」
「はっ、ハイ!」
一也のきっぱりとした返事に運転手は口を噤んだのだった。
タクシーを降りた一也は銃を抜き、金子が待つ隠れ家へと走り出した。
廃ビルの中は暗闇と静寂で支配され、その中を進んでいく一也の足音だけが響いていた。一也は目が慣れるようにとタクシーの中で目を閉じていたのだが、その行動空しく足元が辛うじて見える程度だった。
ビル内の構造は完璧に把握しているとはいえ、一也は自分有利だとは考えなかった。何故なら敵である金子が何の準備もしていないとは思えなかったからである。敵も一流のプロなのだ。罠の一つや二つ仕掛けてあっても当然と言えるだろう。不意の攻撃にも備えて一也は全神経を集中させる。そんな一也をあざ笑うかのように、心の中から声が響く。
――やめとけよ。あんな女、放っておけばいいじゃないか。
一也はその声を無視して進んでいく。
――お前だってわかってるんだろ?今の状況がどれだけ不利かってことが・・・・。だからやめろよ。今からでも遅くない。このまま引き返すんだ。
『黙ってろ』
心の中で一也はその声に向かって言った。
――戻らないのかよ?じゃあ俺と変われよ。そしたら、俺がうまくやってやる。金子も、あの女も、全ての問題を消して元に戻しといてやるよ。だから、俺と変われ。
『嫌だ。俺は弱くなんかない。現に俺はこうして生き残ってる』
――あんなの運が良かっただけだ。でも、今回は違う。現に、金子のいいようにやられっぱなしじゃないか。お前じゃダメなんだよ。
『そんなことはない!絶対に・・・、俺はよわ――』
――弱いさ。弱くなったのさ。
『違う!違う!違う!』
――・・・まぁいいさ。金子とやり合えばわかるだろうよ。自分がどこまで弱くなったのかがね・・・・。
廃ビルの暗闇の中に立ち尽くす一也。『声』は聞こえなくなり、元の静寂な空間へと戻っていた。
一也にはわかっていた。声の正体を・・・。それは自分の影。心の中で生まれたもう一人の自分。常に正しいことを言う遠野一也だということを知っていた。
『奴の言ってることは正しい。それでも俺は・・・・』
一也はもう一人の自分を振り払い、暗闇の中を再び進んでいった。
隠れ家まであと少しの所まで辿り着いたが、未だ金子からの攻撃はなかった。だが、そこはビルのちょうど中心である。入り口から最も遠く、そして最も暗い場所。罠を仕掛けるのも、攻撃を行うにも最適な場所と言えるだろう。
一也はさらに集中力を高め、止まった足を再び前へと動かそうとした。が、瞬時に横へと飛退き石柱の裏へと身を滑り込ませた。頭の中で警戒音が鳴り響く。敵がいると察知したのだ。やがて、闇の向こうから笑い声が響き、耳に届いた。
「うひゃひゃひゃ・・・さすがだよ。よく気が付いたなぁ!」
「金子!」
怒りの声が木霊した。
「うひゃひゃひゃ、今から二人で楽しくやりあうんだ。楽しくいこうぜ!」
ふざけた金子の口調。それに呼応するかのように、一也の怒りはさらに激しく燃え上がった。
バカにしやがって!
声のする方へ銃口を向け引き金を引いた。静寂を切り裂き、銃声が鳴り響いた。が、銃弾は命中した手ごたえのないまま闇へと消えた。
「うひゃひゃ。やる気満々じゃん」
「この野郎・・・隠れてないで出てこい!」
「それはごめんだね。あんたは僕の姿を見ないまま、ここで死ぬんだよ」
銃声が鳴り響いた。それと同時に左肩に鋭い痛みが走る。撃たれたのだ。
それでも一也は痛みに膝を突くことなく、暗闇の中すぐさま柱の影に身を隠しなんとか二発目をかわした。しかし銃弾の雨はやまず、金子の銃撃が確実に一也の隠れている柱を削っていく。
「てめぇ、見えてるな!」
一也が苛立つ声で叫んだ。
「さすがに察しがいいねぇ。うひゃひゃ、“暗視スコープ”だよ。これさえあればあんたの死に様もバッチリ見える」
「・・・・あとで貸してもらうよ。お前の死体を見るときに便利そうだ」
「吠えてろ!」
金子が引き金を立て続けに引いた。
「おいおい。隠れてるだけか?僕を殺しに来たんじゃないのかい」
そう言いながら金子はさらに銃弾を放ってきた。
金子の猛攻を前に一也は動くこと叶わずその場に身を隠すのみ。止めどなく鳴り響く銃声の中で一也は焦る心を沈め、何とかこの状況を打開しようと考え始めた。
『必要なものは殺しの技術と冷静な心。不要なものは焦りと恐怖』
哲の言葉。それを脳内で何度も繰り返し自分に聞かせる。目を閉じ深呼吸を繰り返し、波立っていた心を落ち着かせる。
過去、いくつもの困難で難解な仕事に挑戦してきた一也。その度に見事標的を仕留め、依頼を完璧に遂行してきた。その成功率百パーセントの仕事ぶりに、周りの人間は賞賛と畏怖の意を込めて一也を『葬儀屋』と呼ぶようになった。その成功を支えていたのはその冷静な心に他ならなかった。技術は訓練を積んでいけばいくらでも身に付くが、精神面は別問題である。常に死と隣り合わせの世界。殺らなければ殺れる常識。その中で冷静でいられる心の差は大きい。しかし、今の一也にないものはまさにその冷静さだった。揺らぐことのないはずの心に波紋が立ち、やがて大きな波となって返ってくる・・・。一也は自身でも気づかぬほど混乱し、焦っていた。
「金子、女はどうした!」
そう、その原因はただ一人の女の存在。
「女?・・・ああ、あの目の見えないお姫様か」
一也が殺せなかった女。
「答えろ!」
一也に眠りを与えてくれた女。
「残念だが・・・・」
金子の声が闇の中に反響し、そして静かに消えていった。いつの間にか嵐のような銃弾の猛攻は止んでいた。
「君の大事なお姫様はここにはいないよ。とっくの昔に僕が遠くへ連れてったよ」
楽しそうに声を弾ませながら金子が言った。それとは対照的に、一也は柱の影に隠れたまま、その場で苦虫を噛み潰したように苦渋の表情を浮かばせた。
「まぁ安心してよ。僕だって鬼じゃない、殺しちゃいないよ。ちょっと眠ってもらってるだけさ」
「てめぇ・・・」
「さらに言っておくけど、俺を攻撃するのやめたほうがいいと思うよ。万が一、僕が死んじゃったら彼女の居場所わからなくなっちゃうからね」
一也の顔が苦悩でさらに歪んだ。
「さぁ、どうするんだい?葬儀屋さん!」
金子は銃を握りなおし猛攻を再開した。耳が痛くなるほどの銃声が発せられる。
あの野郎・・・。マシンガンまで用意してやがる。
相手は闇に姿を隠し、手にはマシンガンを持っている。今、自分が持っている武器は哲にもらった銃とわずかな弾丸だけ。おまけに闇に隠れた相手を見ることも出来ない状態だ。戦力の差は絶望的なほどであった。
――逃げろ。
その時、再び頭の中でもう一人の一也が語りかけてきた。
――お前は金子の位置すらわかっていない。ここは一旦退くんだ。
『まだ、女の居場所を聞いていない』
――どうでもいいじゃないか。お前が殺せないなら金子に殺させろ。それで俺たちの問題も解決。一石二鳥じゃないか。
『俺は、あいつを・・・・』
――助けるのか?お前を弱くしたあの女を、助けるのか?
『それは・・・・』
「ほらほら、どうしたんだよ。隠れてばっかりじゃ俺は殺せないよ!」
金子の罵声で思考が切れた。自己世界から現実へと意識が舞い戻る。一也の身を隠し守っていた柱は金子のマシンガンの激しい攻撃で表面がボロボロと崩れていく。
「まぁ、さすがの葬儀屋さんも僕には手も足も出ないってことかな」
弾んだ声で言う金子。相変わらずの軽い口調が一也の神経を逆撫でた。
「黙れ!」
そう叫んで一度銃撃を撃ち返す。が、命中したことすら確認できない。
「危ないなぁ。僕に当たったらどうするんだい。うひゃひゃひゃひゃ・・・・」
卑劣な挑発。しかし、そのやり方が一也の冷静さを確実にむしり取っていく。判断が鈍り何も出来なくなりそうだった。仕返しとばかりに金子のマシンガンから銃弾の嵐が再び一也を襲った。間一髪、腕を掠めながらも柱に隠れた。
「うひゃひゃひゃ!葬儀屋さん、君ってばホントに可哀想だよ!」
金子が吼える。
「何が言いたい!」
柱に身を寄せたまま一也が聞き返す。銃声で耳が痛くなりそうだった。
「可哀想だって言ったのさ。惚れた女を奪われて、信じていた者に裏切られ、そして僕に殺されるんだからねぇ・・・・」
金子の言葉が耳に届いた。一也は一瞬何を言っているのかわからなかった。理解できなかった。突き刺さるような銃声は今なお続いている。しかし、一也には聞こえなくなっていた。バラバラになりそうな思考を必死でまとめようと目を瞑る。
「いつまで隠れてる気だよ?」
一也の体と心は震えていた。それは決して金子の放つ銃撃のせいなどではなかった。何かに気が付いてしまった。金子の言葉で、知りたくなもい事実が脳裏に浮かんで消えなかった。
「本当はわかってるんだろ。誰が僕の依頼人なのか、誰が山波組にあんたの情報を流したのか・・・。本当は気が付いてるんだろぉ?」
「俺は、俺は何も気づいてない!」
「うひゃひゃ、じゃあ死ねよ。何も知らないフリしてさ・・・。育ての親に殺されろ!」
金子の言葉に、一也の思考が静かに弾けた。
――構うもんか。みんな一緒に殺しちまえ。
感情が一気に高まっていく。
「黙れ・・・・」
口にした言葉が頭の中で何度も反響し繰り返されていく。
「殺してやる・・・」
衝動は加速して、手に力が加わっていく。
――そうだ。殺しすんだ!
「おおおおおおおおおお!」
咆哮と共に柱から、一也は一気に飛び出していく。
「そうだ!それでこそ、アンタだ!」
歓喜を含んだ声が暗闇から聞こえてくる。一也は銃を構えたまま、そこへ向かって突進した。
銃弾が一也の身体へと襲い掛かり、肩を掠め肉をえぐった。しかし、痛みはなかった。その場に置き去りにしてきたかのように、受けた痛みは体に残ることなく一瞬で消え去っていった。
一也の目が暗闇の中で何かを捉えた。腕を伸ばし銃口をそれに向けた。
「どこを狙ってやがる!」
金子の声はさっきとは違う位置から飛んできた。一也はそれを知っていたかのように口元に笑みを浮かべて、引き金を引いた。
次回投稿は7月1日です。