2 黒の男(2)
「お疲れ様でした」
午後六時。この言葉を言うのを出勤してからの数時間、どれだけ待ちわびていただろう。サラリーマン、OLはこの『お疲れ様』という一言で永遠かと思える苦痛から開放されるのである。(作者である私はそう思う)
「遠野君、この後食事でもどう?」
近藤美加が帰り仕度をそうそうに終え、一也にそう尋ねた。
「どうしたんですか突然?」
一也は思わず聞き返してしまった。無理もない。美加は社内でも人気がある女性の一人なのだ。小さい顔にくっきりとした目、いつも元気で明るい性格が社内の男性から『かわいい』『あんな子が恋人だったら・・・』などと評判なのだ。
それゆえ、なぜ
「地味」
と朝に言っといた自分を食事に・・・と考えても無理はない。
「お礼よ。例の見積もりの件のお礼に食事でも・・・・」
「あ、そのことですか・・・・」
一也はそれを聞いてホッとした。それと同時に辺りもホッとしたのは言うまでもない。
「すいませんが今日はちょっと私用がありまして・・・・」
「そうなんだ、残念ねぇ」
美加の表情はちっとも残念そうではなかったが、少し肩を落としながら言った。
「せっかく誘ってもらったのに、すいません」
「いいのよ。それじゃあまた今度ね。お疲れさま」
「はい、お疲れ様でした」
お互いにそう言うと、美加は足早に部屋から出て行った。
その後、一也は残っていた仕事を片付けては、
「部長、私もそろそろ帰らしてもらいます」
と言って、部長である内山の机の前に立つ。
当の内山はその部下の言葉に首を軽く縦に肯かせるだけ、なんとも冷たいものだ。
一也が会社から外に出ると、冬の厳しい北風が体を駆け抜けてゆく。
冷たい、そして痛い北風に一也は、冬と言う季節がやってきたのだと再度確認したのであった。
電車に体を揺られながら、一也は会社から二つ目の駅で降りては足早に歩き出した。改札口の外は、様々なネオンライトで輝いている。眩しいくらいの街の明かりも一つ路地を曲がればそこには無限とも思える闇の世界が広がっている。
光の当たらぬ闇の世界・・・・一也はそんな路地裏の暗く入り組んだ道を進んでいった。すると、突き当たりに小さな電球の外灯に照らされた、いかにも重そうな鉄の扉が姿を現した。
一也はその鉄扉に、リズムを付けて三度ノックをした。その後、扉の向こう側から鍵を開ける音が小さく聞こえては、ゆっくりと錆び付いた音を立てながら扉が開き始めた。
「一也か・・・・入りな」
扉を開けた中年の男は、一也にそう言って部屋に入ることを許した。
部屋は意外に広くかった。余計な物など置いてなく、あるのは円形のテーブルが一つ、
椅子が二つだけ、そして大の大人が五人は入れそうなクローゼットが一つ置いてあるだけであった。
「・・・・・こんばんは」
「そこにかけてくれ。仕事の話だろ?」
その男は目つき鋭く、まるでナイフのように冷たく刺さるような視線を放っていた。このような目で見られれば、普通の人は一目散に逃げ出してしまうだろう。
中年の男が椅子に腰を下ろしながら言う。
「調子いいみたいじゃないか、今回の仕事も完璧だったよ」
一也は男の言葉に答えることなく向かいの席に腰を降ろしたまま黙っている。
「まあ、あれぐらいの仕事じゃあ『葬儀屋』さんには物足りないかもな」
男は煙草を取り出し、一本くわえては火をつけて白い煙を勢いよく吐き出した。
「今度の仕事の件だが・・・・どうした?」
一也は男の顔をじっと見つめながら、
「哲さん、俺がそれ嫌いなの知ってるだろ?・・・・それに、そのあだ名呼ばれるのも御免だね」
と言った。
「ああ、すまん。ついな・・・」
そう言いながら、中年の男――『哲さん』は煙草を置いてあった灰皿でもみ消した。
「お前もそんなもん外せ!どうせダテだろ?全然似合ってないぞ」
哲が仕返しとでも言わんばかりに一也に言い返した。
「わかったよ・・・」
と言って、一也はかけている眼鏡を外して胸のポケットへと閉まった。
眼鏡を外した一也はまるで別人のようになっていた。
表情も硬くなり近寄りがたく、目つきなど哲のそれに匹敵するほど鋭く、そして光のない瞳に変わった。
眼鏡を外すのを見ていた哲が苦笑して言う。
「こんなに怖いやつが昼はリーマンをやってるんだ。それで夜は殺しの仕事、しかも凄腕の殺し屋だ。そこら辺の三流マンガもびっくりだな」
「別に問題はないだろ、倍に金が稼げて・・・」
一也のその一言に、哲さんはさらに声を上げて笑った。
「そんなことより、仕事の話じゃないのか?こっちも暇じゃないんだ」
「・・・・わかった」
笑い声をピタリと止めて、哲は仕事の話を始めた。
「今回の仕事は少しばかり厄介だぞ」
「そのために俺がいる」
「ふん、大きく出たな・・・・こいつが今回の標的だ」
机の上に一枚の写真を投げ出して一也に見せる。その写真を手に取った一也は少し驚きの表情を漏らした。
「こいつは・・・」
「村上友成。五十一歳、山波組の幹部の一人だ。・・・・そいつを消してもらう」
「山口組ってのは、あの『山波組』かい?」
一也が確かめるように哲に尋ねる。
「そうだ。あの山波組だ」
山波組――その道では有名な暴力団で、関東周辺で力を伸ばしている大きな組である。
「確かに厄介な仕事だな・・・」
どこか余裕のある口調で一也は言った。
「やれるか?」
「・・・・・・」
哲の質問に、一也は無言のまま答えない。
「期限は五日以内。方法は何でもいいそうだ」
「金は?」
「一千万」
「――終わったらまた来る・・・・・」
そういい残して、一也は重たい鉄扉を押し開け外へと出て行った。
部屋には哲が一人残っているだけとなった。
奴はきっと・・・いや、絶対に殺して戻ってくる・・・。
確信にも近い感情を抱きながら、哲は先ほど吸いそびれていた煙草に火をつけた。
「頼んだぜ、葬儀屋さん・・・・」
「ただいま」
自分の家の扉を開けて帰宅する。一也は凍てつくような寒さから解放されると、すぐさま自分の部屋がある二階へと向かった。
「一也、すまんが夕食の準備をしてくれんか?」
居間にいる叔父の良助が、通り過ぎて行く孫に夕食の仕度をお願いする。一也は帰宅後、早々に無理なお願いにもしっかりとした声で、
「もう少し待ってってくれない?今作るからさ」
と、答えては二階の自室へと上がっていった。
部屋に入り、来ていた背広を脱いでは、綺麗に折り目に沿ってハンガーにかけ、クローゼットへと閉まった。一也はYシャツとラフなジーパンに着替えると部屋を出て、良助の願いを叶えるため台所に立って夕食を作り始めることにした。
「今日の夕食は炒飯と餃子だよ」
机の上には出来たばかりの美味しそうな食事を盛った三皿がきれいに並んだ。
「うまそうじゃないか。しかしまだまだ、わしが作る物と比べたら天と地の差があるわい!・・・これを見てみろ!米が炒めすぎて元気がないじゃないか」
「じいちゃん、文句ばかり言ってないで食べなよ。冷めちゃってもいいの?」
文句を言う良助を宥めながら、一也と良助は箸の代わりのレンゲをすすめる。
「今日の仕事はどうだった?」
良助が口の中に大量の炒飯を溜め込んだまま、一也の今日の出来事について尋ねた。一也は口の中のものを食道へとしっかり送ってから答える。
「別にいつもと変わらないさ。仕事して昼食食べて仕事して、それで真っ直ぐに家に帰ってきたよ」
「面白くない奴じゃな・・・」
「面白くなくていいんだよ。じいちゃんこそ何やってたの?」
「聞いて驚くななよぉ・・・」
良助はニヤニヤと顔を緩ませながらじれったく話をなかなか開始しない。一也は分かりきっていることだと興味なく、良助が話し始めるのを食べながらゆっくり待つ。
「今日は隣の田中さんとデゥェトしてきたんじゃよ!」
ほらやっぱり。予想通りだ。
一也は口に出さないにしろ頭の中ではしっかりとそう言ってやった。
『田中さん』と言うのは一也の家の隣に住んでいる良助と同じ年の老婆。良助は年甲斐もなくすっかりその老婆の虜となっているのだ。
「じいちゃんは若いねぇ」
ある意味、尊敬の念を込めて一也が良助を称えた。
「そうじゃろ、そうじゃろ。お前も恋人の一人や二人作ればいいんじゃよ。そうすれば毎日が新鮮なもんになるわい」
「・・・・そのうちね」
苦笑いをしながらそう質問に答えた。
恋人・・・・そんなもの俺には必要ない・・・・。
一也は食事を終え、残った食器を手に持ち立ち上がる。
「ご馳走様。じいちゃんはゆっくり食べてていいよ」
一也のその言葉に、良助は
「あいよ」
と元気よく返事返す。まだまだボケるには時間がかかりそうだ。
二階の部屋に上がった一也は扉の鍵を掛け、外部からの連絡を絶った。仕事のことを考えるとき、一也は決まって部屋をこの状態にして集中するのである。
さてと・・・どうやって殺してやろうか・・・・。
静かに時間が過ぎていく、その過ぎていく時間と共に一也の頭の中では着々と今回の仕事の計画が組み立てられていった・・・・・。