16 二人の夜
一也と綾乃が外出から隠れ家に戻ってきて数時間続いた無言の時間、それを打ち破ったのは綾乃だった。
「あの・・・今日はありがとうございました」
小さな声であったが、この狭い部屋なら十分に聞き取れる大きさだった。
「礼を言われる様な事をした覚えはない」
撥ね付ける一也。
「でも、私を助けてくれました」
「勘違いするな。あれは俺を狙っての狙撃だったんだ。お前を車に押し込んだのは逃げ出さないようにするためだ」
「そうだったんですか・・・」
「それより、あの二人はお前の何だ?」
次は一也が綾乃に質問した。
「芳江さんと岡田さんのことですか。お二人はただのお手伝いさんです」
「あの屋敷のか?」
「はい。・・・でも、あれは本当に偶然だったんです。車の中でじっとしてたら岡田さんが扉を叩いてきて・・・・信じてください。本当なんです」
本当に偶然なんだろう。
一也はそう考えていた。洋菓子店に入ったときから感じていた視線はその二人のものだと考えていた。外を歩いていたときの気配も同じように解釈した。
「そうだとしても、見逃すのは一度きりだ。次あんなことが起きたら始末する」
「それだけはやめてください!」
「奴らには顔を見られた。警察に通報されてもおかしくないからな。今度会ったら始末するしかない」
「あの人達は私の大切な人たちなんです。お願いです・・・」
「無理だ」
「そんな・・・・」
綾乃はそう言うと黙って俯いてしまった。その様子に一也の胸は再び鋭い痛みを感じた。
なんなんだ、この痛みは・・・。
自分の胸に手を置いてみるがそこにケガなどあるはずもなく、一也はその胸の苦しみにおかしくなりそうだった。
どうしてこうなった。俺は強いはずなのに、強くなったはずなのに、どうしてこの女一人にこうも苦しめられるんだ。弱くなったのか・・・。俺は弱くなってしまったのか。盲目で抵抗することも出来ない女一人殺せないほどに、俺は小さくて弱いものになってしまったのか。わからない・・・わからない。
一也は椅子から腰を上げ、右手に銃を握り締めた。
この女さえいなくなれば、俺は強い自分に戻れるんだ。この女さえ殺せば・・・・。
高ぶった思考を落ち着かせる。息を細くすって吐き出す。一也は足音を立てず、ゆっくりと、確実に近づいていく。
綾乃は気づいていないのか、顔を上げることなく俯いたまま動かない。
足を止め、一也は銃口を綾乃の頭部に向けた。指が引き金にかかり力を込める。しかし、それ以上の力が込められない。振るえる手。力を込めることを体が、自身の指先が拒否しているのかのように動かない。そのことに一也の苛立ちは最高値まで跳ね上がった。
「どうしてなんだよ!」
一也の叫び声に綾乃は驚いて顔を上げた。
「か、一也さん・・・?」
「どうして、どうして出来ないんなんだ!引き金を引くだけじゃないか。今まで何度もやってきたことなにの、どうして出来ないんだよ!」
一也は銃を投げ出し、綾乃の首に手をかけ押し倒した。綾乃の細い首に十の指が食い込締め上げていく。綾乃の顔が苦痛で歪んだ。
「そうだ!死ね、死んでくれ!お前が死ねば俺は戻れるんだ。強い俺に、弱くない強い俺に戻れるんだ!」
一也はその手に込める力をさらに強くしていく。
綾乃はその目に涙を浮かべていった。息が出来ない苦しさから顔は歪み青ざめていった。そして・・・・。
「死んでくれ!」
そして、綾乃は微笑んだ。
その微笑みを見た一也は、首にかかっているその手を離してしまった。呼吸が戻りむせ返る綾乃を馬乗りになったまま呆然と見つめていた。
「なんで、なんで笑えるんだよ。殺されそうになって、なんでお前は笑うんだよ・・・」
呟くように、一也は綾乃に問いかけた。その問いに綾乃は咳き込みながらではあるが、しっかりとした声で答える。
「か、一也さんが・・・・泣いてたから、苦しそうだったから・・・、私を殺すことで楽になれるのでしたら・・・構わないと思ったから・・・」
「俺が、泣いている?」
その言葉で自身の頬から感じる冷たさに気が付き、手を伸ばした。その手に触れたもの、それは確かに涙の滴だった。
一也はしばらく動けなかった。どうして盲目の綾乃にそれがわかったのか。そんなこと考える気さえ失せていた。何も考えず、只呆然としているだけだった。
数分の時間を経て、一也は綾乃に「もう寝ろ」と、一言残して隣の部屋に消えていった。
ベットに横になったまま、綾乃は眠れぬ夜を過ごしていた。一也に首を絞められ、死に掛けたことで若干興奮していたのかもしれない。
首を絞められたとき、思考が薄れ真っ白になっていくのを感じた。何も考えることが出来なかった。突然のことだったが、パニックになることもなかった。苦しくて、恐怖の感情が芽生えたのを綾乃は今でも鮮明に覚えている。
『もうダメだ』
そう思ったとき、一也の叫びが耳に届いた。苦しみの中で薄れゆく思考がそれを捕らえ、重い瞼を開いた。光映らぬはずのその瞳に、一筋の涙を流した一也の顔が映った。綾乃はそれを見て、全てを受け入れて微笑んだ。心から一也の苦しみを、哀しみを受け止めようとした。
綾乃はもう一度、一也の顔を想像してみた。フラッシュバックのようにあの時の顔が脳裏に浮かび上がる。それは綾乃が想像した一也の顔なのかも知れない。実際のものとは全く違うのかもしれないとも考えた。しかし、綾乃はその一也の顔を何度も何度も思い出していた。
何度も想像しているうちに、綾乃は急な寂しさを感じていった。寒いわけではないのに、身体は何かに怯えたように震えだし、首を絞められているわけでもないのに苦しくなっていった。
この小屋に自分しかいないように感じた。あまりにも静かな夜に、隣の部屋に居るはずの一也が遠くに感じた。
「行かないで・・・」
綾乃は小さく呟いた。しかし震えは収まらない。ベットから降りて、手探りで隣の部屋に歩いていく。
やっとの思いで隣の部屋へとたどり着く、構造のわからない場所はどんなに狭くても綾乃には遠く長いものへとなってしまう。
宙を探るその手に物ではない、何かが当たった。
「一也さん?」
手に当たったもの、それは一也の肩だった。
「寝ろと言ったはずだ」
一也は明かりも点けぬまま、椅子に座りじっとしていた。
「ベットに戻れ」
「その、眠れなくて・・・・」
綾乃はそう言いながら、一也の声を聞けたことによる確かな安堵を感じていた。それと同時に、一也の肩に自分の手をしっかりと置いていた。
「いいから戻れ」
強い口調になりながら、一也は綾乃に言った。綾乃は動かなかった。肩に置いた手から一也の異変に気づいたからだった。
「一也さん、震えているのですか?」
「震えてなんかいない」
「でも・・・」
「いいから戻れ。死にたいのか」
「一也さん・・・・」
綾乃は一也を包み込むかのように、その場で強く抱きしめた。一瞬の出来事に言葉を失い、動くことも出来ない一也。
「怖くない。大丈夫です。私がいますから・・・一緒にいますから、二人なら怖いことなんて、何もありません・・・・」
一也は動かなかった。罵声を飛ばすことも、その抱擁を跳ね除けることもせずに、一也は綾乃に抱きしめられたまま、動かなかった。
綾乃の体温が自分の身体に伝わってくるのを、一也は感じていた。その優しい温もりに、一也は激しい睡魔に襲われた。そして、一也は綾乃の腕に包まれたまま瞼を閉じ、ゆっくりと眠りの中に落ちていった・・・・。
『ここは・・・どこだ?』
そう言って辺りを見回すも、真っ暗な闇が延々と続いているだけで、他には何もなかった。何もない。何も見えない。上も下も、右も左もわからない真っ暗闇の世界。
一也はその世界に立っていた。
自分の身体さえその闇に埋もれ、形を確認することすら出来ない。一也は必死になって自分の身体を、存在を見ようと目を凝らした。しかし、いくら目を凝らしても自分の形を見ることは出来なかった。だが手は、一也の手だけは赤色に染まり闇の中でその存在を確かなものにしていた。
一也は言葉が出なかった。しかし、その自分の赤く染まった手への驚きは一瞬でしかなかった。
そう、これは俺の手だ。この手でいくつもの命を奪ってきたんだ。拭っても落ちないほどに、深紅に染まっていてもおかしくない。
闇の空間。一也は自分の居る場所がどこなのか、わかったような気がした。
『俺にはお似合いの場所だな・・・・』
望んでいたモノ。それを手に入れた代償がこの手、この世界だというのなら、それでも構わない。・・・。俺は自分からこの手を染め、深い闇の中に入っていったというであれば、ここは俺の望んだ世界だということなのだから・・・・・。
私が一緒にいます。
真っ暗な世界に立って、一也は唐突に綾乃のことを思い出した。
その言葉と笑みが、一也を温かく包み込んでいった。
暗い、自分の体すら見えない漆黒の空間で、一也は全身を包み込む温かな存在を確かに感じることができた。
一也はゆっくりと自分の瞼を開けた。しかし、自分が今まで眠っていたのだと理解するのに多少の時間を要した。
熟睡。自身が眠りに付いたときの記憶すら一也は曖昧になっていて思い出せない。
まさか自分が寝てしまうとは・・・・。久しぶりに感じることのできた目覚めの感覚に一也は驚いていた。しかし、驚きはまだ続いた。横になっている一也を綾乃がその細い両腕で抱きしめたまま眠っていたのだった。
この状況に、さすがの一也も身を強がらした。
「お、おい・・・」
綾乃の腕を退かし、起き上がろうとする一也の目に綾乃の寝顔が映った。その表情はいつかの春日崎邸から飛び出した時よりも、どこか安心したような表情に見えた。
一也はそんな綾乃の表情を見て、その顔にゆっくりと手を伸ばした。一也の指が綾乃の艶やかな肌に触れた。頬から鼻、唇へと指を運びその感触を確かめる。
美しく、そしてどこか子供っぽさが残る顔。盲目などでなければ、世の男たちは綾乃のことを放ってはおかないだろう。その柔らかな唇から指へとかすかな温かさが伝わってきた。一也はその指先を唇から閉じられたままの瞼へ運び、そっと触れた。
盲目の瞳。その瞳には光が映らない。景色も人も、肉親も愛する人すら映らない。眠りから覚めても真っ暗な世界が見えるだけなのだ。一也は眠りの中で自分が見ていた夢を思い出した。
「お前もあの世界を知っているのか・・・・」
そう呟き、指を離して起き上がった。
隣の部屋に行って毛布を取り、一也はまだ眠っている綾乃の体にかけてから部屋を出て行った。