13 揺れる心
近藤美加は虎二のベットで横になりながら、手に持った一枚の写真を興味の眼差しで見つめていた。
ここは虎二の自宅。しかしここ数日、その家の主は虎二から美加へと変わっていた。虎二は村上殺しの犯人を追うことで毎日のように組の事務所に泊り込んでいるからだ。
その間、美加は自分のマンションより豪華なここに泊り込み、豪遊の日々を送っているのだった。
「殺し屋、かぁ・・・」
美加は写真に写っている『殺し屋』の顔を見つめていた。それは不思議な気分だった。
毎日のように会社で顔を合わせ、隣の机で一緒に仕事をしている同僚がプロの殺し屋なのだ。美加は平凡な生活を送る裏で、遠野一也は殺し屋として人を殺していたのだと想像する。恐怖の感情が少しだけ芽生え、それと同時にその恐怖を忘れてしまうほどの好奇心にも似た感情が胸に広がっていった。
こんな気分になる自分を美加は知っていた。虎二と付き合いだした理由も同様の気持ちがわいたからだった。
怖い。でも、触れてみたい・・・・。
美加はヤクザで危険な虎二と付き合いだした。しかし、今の気持ちはそのときよりも大きかった。相手が危険であればあるほど、美加のこの感情は大きく強くなっていくようだった。
ベットの横に投げ出されていた電話の子機から着信音が流れて、美加はそのままの体勢で腕を伸ばした。
「誰だろう?組の人かしら・・・」
そう呟きながら通話のボタンを押した。
『中村虎二か?』
受話器から擦れた、低音の声が聞こえてきた。
「えっと、本人は外出中です。急ぎの用事なら私が伝えときましょうか?」
『君は?』
「彼女の一人です」
『そうか・・・。なら、彼が帰ったら伝えてもらおうか』
電話の相手が考えながら、ゆっくりと言った。
「はいはい。ご用件をどうぞ〜」
『村上を殺した男の居場所を教えてやる。そう、伝えてくれ』
その言葉を聞いて、美加は思わずベットから飛び起きた。
「ちょっと待って!」
『なにか?』
「その話、詳しく聞かせてくださる?」
相手は美加の言葉に少しの間黙っていたが、
『いいだろう』
そう言ってゆっくりと話し始めた。その声はどこか楽しげであった。
車は冷たい風を切りながら走り、止まった場所、そこは隠れ家のある廃ビルの前だった。一也は車から降りると急ぎ足でビルの中へと入っていった。
プレハブ小屋に入る前に扉に鍵がかかっているかを確認する。しっかりと施錠されていることを確認した後、一也は鍵を差し込み回した。
もしも、侵入者がいた場合その痕跡は必ず残る。鍵をチェックしたのはその為だった。
「おかえりなさい」
一也が小屋に入ると奥の部屋から、いつも通り綾乃の声が聞こえてきた。
「・・・・」
一也は返事を返すことなく、隣の部屋で綾乃の顔を見ないまま銃をバラし、銃の調整を始めた。当然、綾乃のいる部屋にも気を配っている。
「あの・・・・」
黙っている一也に綾乃が申し訳なさそうに声を掛けてきた。別の部屋にいるので一也は顔を見ることが出来なかったが、その声からはそう感じ取った。
「約束の件か?」
「・・・・はい。でも、今はそのことじゃなくて・・・」
「なんだ?」
「もし、よろしければ・・・あなたのことを教えてくれませんか?」
綾乃の言葉に一也の手が止まった。
「・・・・・駄目だ」
「無理を言っていることは十分承知しています。でも、明日は二人で外出するのですから、名前くらい教えてくれて―――」
「駄目だ」
「・・・・そうですか」
一也がそう言い切ると、綾乃は押し黙りそのまま何も言わなくなった。
やっぱり教えてはくれない。
綾乃は一也にきっぱりと断られ、少し落ち込んでしまった。
「約束の件だが・・・」
「え?」
一也の突然の言葉に驚き、綾乃は思わず見えない一也の姿を探すように首を左右に振ってしまった。
「外出の話だ」
「あ、はい」
「・・・・その事なんだが――」
「私、外なら何処でも構いません」
綾乃は一也の声を遮りながら言った。
「私、外に出れればいいんです。外に出て、風に触れて、街の音を聴くんです」
「・・・・」
「贅沢はいいません。少しでも不審な行動をしたら殺して構いません。だから・・・・お願い・・・」
一也は壁の向こうで座っている綾乃の姿を想像した。
肩を震わせ懇願するその姿が脳裏に浮かんでは消えていく・・・・。胸の中を何かが強く締め付けるのを感じた。出かかった言葉が続かない。たった一言、『その約束はなしだ』という言葉が、胸の奥から出てこない。
「・・・・わかった」
「ありがとうございます」
綾乃は壁の向こうにいるだろう一也の姿を想像した。
椅子に座って、微動だにせず自分の言葉に耳を傾ける男の姿を・・・。本当に自分の声は彼に届いているのだろうかと不安になる。しかし、その姿を見ることも本心を知ることもかなわない。
しばらくの間、小さな室内を沈黙が支配した。
一也が用意した食事を黙って綾乃が食べる。そしてそれに使ったタッパーやスプーンなどを一也が黙って洗い、片付けた。
一也が自分の腕時計に目をやった。午後の十時を回っていた。
そろそろ帰るか・・・。
この隠れ家から良助のいる自宅まで一時間ほどかかる。明日は約束の外出日。ここで夜を明かすことも出来る。休むわけではない。自宅に帰っても寝ないし、眠れない。しかし、今日は帰りたかった。
「そろそろ俺は帰る。大人しくしてろよ」
一也がそう言うと、
「あ、ちょっと待ってください」
と、綾乃が手探りで隣の部屋から歩いてきた。
「なんだ?」
「あの・・・お願いです、名前だけでも教えてくださいませんか?」
声を震わせ、申し訳なさそうに顔を俯かせるその姿は、先ほど一也が想像していた姿そのものだった。
「・・・・どうして教える必要があるんだ?俺はお前を殺す。その相手に名前を教える必要は無いだろう」
「・・・・・やっぱり、そうですよね。ごめんなさい」
力なくそう言って綾乃は再び隣の部屋に戻っていった。
その姿を見て、一也はドアノブに手を伸ばした。そして・・・。
「一也だ。それが俺の名前だ」
そう言い残し、一也は部屋を出て行った。
一つだけ、天井から降り注ぐ光を浴びて浮かぶ黒い鉄の塊、それは掴んだその手に確かな重量を感じさせていた。
一也は哲から受け取った銃を自分の手で分解し組み立てた。その作業を何度か繰り返し、徐々に自分に合うように調整していく。
一也の手にかかれば、銃の一丁を分解し組み立てることなど簡単な作業だ。
自宅の二階、一也は暗い自室の机の上でその作業を繰り返し行っていた。
デジタル表示の時計が深夜十二時を表示していた。それを見た一也は思わずため息をついてしまった。
綾乃と共に外へと出かける約束の日。その日を迎えたからである。
『約束』などあってないようなもの。しかも相手はいずれ殺す予定の人間。そんな口約束など忘れてさっさと殺してしまえばいい。だが、一也は綾乃に対してその考えを告げることも、引き金を引くことも未だに出来ずにいた。
女・子供・年寄り・依頼とあれば誰であろうと命を奪ってきた。それが自分の仕事で当然のことなのだと思っていた。この世界に入ってまだ日が浅いころ、まだ未熟な一也は一度だけ仕事でミスをしたことがある。標的の人物に殺されかけたのだ。
今にして思えば、一也はその時のことを幸運に思っている。『隙を見せれば殺されても仕方ない』そんな世界でミスを犯した自分がまだ生きている。幸運以外の何ものでもない。まだ殺しの世界に入って間もなかった一也はこの失敗で自分の甘さを確認すると同時に、自分の感情を冷酷なものへと変えていくようになっていった。
ただ目標に向かって引き金を引く存在に、ただ人を殺す仕事を確実に達成するために・・・。その為だけに自分を変えいった。
そんな自分が一人の女を前に何もできずにいる。信頼している哲の忠告をも無視して、一也は綾乃を生かしている。
なぜこんな事をしているのか、自分自身がわからない・・・。一也は混乱に近いものを感じていた。
「何故だ・・・・」
一也は口に出して呟いた。自分自身、どうしてここまで揺れているのか。だが、何度考えてみてもその答えは出てこなかった。
「一也、か・ず・や!」
下の階から良助が声を上げて一也を呼ぶ。高齢者とは思えないほどのその声はよく通っており、聞きなれたはずの一也ですら驚いてしまう。その声が耳に届き一也は、
「今行くよ!」
と返事を返し、階段を下りていった。
階段を下りたところで良助が立っていた。
「どうしたの?」
「電話じゃよ。電話」
リビングの机の上に置いてある時代外れの黒電話を良助が指差した。
「僕に?」
「ああ、お前にじゃよ。しかも、若い女の声じゃったよ」
「誰だろう?」
「なぁにすっ呆けてるんじゃよ。これじゃろ、これ」
嬉しそうにそう言いながら小指を一本立てて一也の前にちらつかせる。
「なにいってるんだよ。じいちゃんも知ってるだろ?僕に彼女なんていないよ」
実際にそんな女性はいないこともあってか、一也はキッパリとそう言い切った。
「本当かのぉ・・」
「本当だって」
一也は良助の追及を受けながらも黒電話の受話器を手に取った。
「もしもし、電話かわりました一也ですが」
「あ、遠野君?」
「え、あ、はい」
一也が受話器から耳へと届く声が近藤美加だということを理解するまでに、数秒の時間を要した。美加には自宅の電話番号を教えたつもりはなかったのだ。一也は美加から電話がかかってきたことに驚きを隠せなかった。
「おかしな声出してどうしたの?」
「え、いや、だって僕の自宅の電話番号教えたつもりなかったものですから・・・」
「そんなの会社の名簿見れば一発じゃない」
「え?会社の名簿?」
「そうよ。毎年きちんと申請してるじゃない」
その言葉に一也は眉を顰めた。
会社の申請するその名簿にはここの番号など書いたつもりはなかったからである。電話番号・住所・家族構成にあたるまで決して見破れない様に裏工作を施して申請してたはずだった。もちろんそれらは本業のことを考えての行動である。
「まぁいいわ。実はね、タコ部長から連絡があってね、年末の忘年会の出欠取っとけって言われたのよ」
「・・・・そうだったんですか。申し訳ないんですが忘年会には出ない予定なんですよ」
「そう、わかったわ。あ、部長からは私が言っとくから」
「わかりました。それじゃあ、また」
受話器を置き、一也はしばらくその場に立ったまま動かなかった。
一也の中で危険を知らせる触角がかすかに震えた。それは本能にも似た感覚だった。次の瞬間、二階に上がり一也は急いで出掛ける仕度を始めた。
銃をホルスターに収め仕事着の黒いコートに身を包み、車のキーを持って再び階段を駆け下りた。
その様子を見ていた良助が驚いて一也を呼び止める。
「いったい何の騒ぎじゃ?」
「ちょっと仕事に行ってくる」
「こんな時間にか?」
「うん。それと、泊りだと思うからしばらく戻らないかも」
そう言うと良助の返事を待たずに家を飛び出した。
車に乗り込みキーを回し勢い良く発進させる。街灯によって等間隔に並んだ光を次々と通り過ぎていく。
一也は無意識にアクセルを踏み込んでいた。何か得体の知れないものに追われているかのような不安、思考に生まれた小さな疑問、それらが喉に引っかった魚の骨のような違和感を生み出していた。「なにかおかしい」――そんな気持ちが一也の中に残っていた。忘年会の出欠なら会社でも取れたはず。それに美加は一也のケイタイの番号を知っているのにも関わらず自宅の電話に連絡を入れてきたのだ。そしてなにより、一也は美加がどうやって自宅の電話番号を知ったのかが気になった。
車がスピードを上げて一気に加速していく。一也が運転する車はクリスマスを目前にして色とりどりにライトアップされた街を、一瞬で通り過ぎていった・・・。
もう明日になったかしら?
綾乃は一也の隠れ家のベットの上、落ち着かない気持ちで横になっていた。
時間を知るすべが無いこのプレハブ小屋で、綾乃は横になりながら約束の日が待っていた。
「一也、さん・・・かぁ・・・・」
綾乃は軽い睡魔に落ちながらも、その唇を動かし呟いた。
今日、彼のことをひとつだけ知ることができた・・・。
それだけで綾乃はうれしくかった。
この小屋に連れてこられて数日間、綾乃の心臓はドキドキしっぱなしだった。自分を屋敷から連れ出した男。今度はどこへ自分を連れて行ってくれるのか、どんなことをしてくれるのか、そう考えると楽しみで仕方なかった。
もちろん綾乃は一也の顔を知らない。想像はするが似ているのかどうかわからない。わかっているのは命を奪う危険な人物だということ、そして哀しい声の人ということだけだった。そして、「一也」という名前だけ・・・・。
綾乃は知りたかった。
どうして自分を殺さずにいるのか、どうして自分を屋敷から連れ出してきたのか、どうしてそんなに哀しい声をしているのか・・・・。『約束の件』など、どうでもよくなっていた。
綾乃はあれほど自分を魅了してやまなかった外の世界が、急に色褪せていくのを感じていた。
一也の存在が自分の中で大きくなっていく。
その気持ちに綾乃は気が付いたのだった。
明日になれば一也に会える・・・。外に出て、一緒の時間を過ごせる。
綾乃は横になっていた身体を起こし自分の胸に手を当てる。次第に高鳴る心臓の鼓動が聞こえてくる。
その鼓動に耳を傾けていると、記憶の中にあった言葉が浮かんできた。それはまだ綾乃が十歳くらいの頃に言われた言葉・・・・おぼろげな記憶の中で、そのときの様子が甦ってきた。
綾乃は泣いていた。
自分は義父の宗雄に愛されていないと、娘としてではなく自分の楽しみのためにこの屋敷に置いているのだとわかっていたから。
記憶の中にいる本当の父と母に、何度も『会いたい』と叫んだ。
あの頃に戻りたい。パパとママが生きていたあの頃に・・・・、目の見えていた時に戻りたい。
しかし、現実はそんなに甘くない。時間を戻すことは出来ない。
毎日泣いていた。涙が枯れることはなかった。
そんな日が続いていたある日、自分の新しい世話役が来ると宗雄に言われた。
綾乃は特に気に留めなかった。
盲目の少女の世話、それは想像以上に大変なのだ。顔も見えない世話役が短い期間で次々と変わっていくのを綾乃はわかっていた。
当日、宗雄の部屋で始めて芳江を紹介された。
「今日からお前の世話をしてくれる吉田芳江さんだ。仲良くやるんだぞ」
宗雄が一言そう言って紹介は終わった。
部屋に戻ると、芳江がノックをして入ってきた。
「今日からお世話さしていただきます、吉田芳江です。よろしくお願いします」
優しい声の人だな・・・・。綾乃の第一印象はこうだった。
それから、芳江にとって大変な日々が始まったのだ。しかし芳江はやめなかった。弱音ひとつ溢すこと無く綾乃の世話役を勤め上げたのだった。
疑問に思った綾乃は芳江に質問した。
「どうしてここまで私に尽くしてくれるのですか?」
その疑問に答えた芳江の言葉はたったの一言だった。
「私はお嬢様を、大切に思っているからでございます」
芳江の躊躇いなく出たその言葉が、その優しさが、綾乃の心を強く動かした。
私を大切に思ってくれる人がいる・・・。
そう思っただけで胸が熱くなって、涙が出そうになった。
それから綾乃は変わった。『芳江への負担を減らしてあげたい』という一心から、自分自身強くなろうと思った。
やがて、長い年月を経て綾乃は盲目者として強くなっていった。
芳江さん・・・私にも出来るかしら、誰かを大切に思うことが・・・・。
ベットの上で綾乃は、自分の胸に手を当てて芳江へと呟いた。
その夜、綾乃は夢を見た。
クリスマスの夜、綺麗にライトアップされた街の中に綾乃は立っていた。その瞳には明るくて暖かい光が確かに映りこんでいた。
綾乃は笑顔で街の中を歩き始めた。その笑顔は光り輝く街の中でも一番輝いていたに違いない。
街の入り口、その先に一人の影が映りこむ。
綾乃はその影に優しく微笑み、名前を呼んだ。
『一也さん』
しかし、その影が動くことはなかった。
『一也さん、私、目が見えるんです。あなたの顔を見ることが出来るんです。だから、だから・・・』
黒い影に言い放つ綾乃、だが、その言葉すらその闇の中へ吸い込まれ消えていってしまうようだった。
『待って、待ってください!』
影はそのまま光の届かぬ暗い闇の中へと消えていった・・・・。
「待って、待ってください!」
そう叫びながら綾乃は飛び起きた。
今まで見ていたものが夢なのだと実感するのに多少の時間を要した。それほどリアルで鮮明だったのだ。しかし、それは夢でしかない。その証拠に綾乃の瞳には光が移らなかったのだから。
「随分と派手な寝起きだな」
その不意な声に綾乃は再び飛び上がった。
「一也さん!」
「そんなに驚くことじゃないだろ。ここに来るのは俺以外いるはずがないんだからな」
「あ、そう、ですよね・・・」
綾乃は夢のことを思い出し頬を赤く染めた。
「少ししたら出かけるぞ。いいな?」
その一言で綾乃は今日が約束の日だということを思い出した。
「はい!」
綾乃は思わず大きな声で返事をしてしまった。
外に出ると綾乃の胸は高鳴り、冬の冷たい空気が心地よく感じるほどであった。
「こっちだ、来い」
そう言って先に進んで行く一也。少し進んだところで振り返った、思ったとおり綾乃はその場で止まって動いていない。
一也はコートの中から銃を抜き、標準を合わした。目の前に立って動こうとしない標的をじっと見つめる。
――殺せ。殺せ。殺してしまえ!
自分の中でいつもの自分が呼びかける。『殺してしまえば楽になる』と呼びか、命令する。
「あの、一也さん」
――返事をするな、引き金を引け!
「杖がないので、その、よろしければ・・・・」
――この女を殺せばすべてが元通りなんだぞ。躊躇うな、殺せ!
「手を引いてくれませんか?」
「・・・・・わかった」
銃を収め、一也は綾乃に近寄り右手を握りしめた。
「ありがとう・・・・」
綾乃が手を引かれながら言った。
一也は何も言わず、自分の中に住むもう一人の自分を黙らせた。歩き出したその足取りは重く、何かを引きずるかのようだった・・・・。