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身の回りにある物は、轟々と鳴る灼熱の炎。その炎とは対照的な闇黒。安堵できるような、見ていて楽しくなるようなものは一つとしてない。太陽の温かな光はまったく日入りこまず、光源は、暗く怪しい炎が揺れる光だけだった。
今いるのはそんな不可思議な場所だった。戦場よりひどい。人の死体などはないが、急速に人としての感情を奪われていくような感覚があった。
今バースが居る所に足場はなく、彼は炎の高く上を歩いていた。浮いている。自分の足を炎が舐めるのは感じたが、不思議と熱さは感じない。
こんなこと、ありえない。夢だろうか。でも、リアルすぎる。鮮明すぎる。何故こんなところに自分はいるのだろうか。
死んだ記憶はある。
目の前を真っ赤に焼き尽くす自分の鮮血も、裏切った奴の顔もすぐに脳裏に浮かぶ。苦しそうに歪んだあの顔。
やつは何を考えた。何故、自分が殺されなければならない。
胸には弾痕もある。撃たれた証拠は自分の胸が持っている。しかし、その後が分からない。体が軽くなって、気がついたときには洞窟に、そして今ここにいる。だが自分は、自分が死んだということを知っている。ならば答えは、死後の世界ということだ。
そこを人間は冥府と呼ぶ。神話でいう、ハデスが治める死者の世界。
バースは若いころ、兵士になるための訓練として何事にも動揺しないように鍛えられていた。しかし、この時ばかりは動揺せずには居られなかった。
本当に冥府があるとは思わなかった。神なんて信じていなかった。
生前が全てで、死んだらもう何も残らないと思っていた。
それでも、何故かその考えが自分に染み込むようにすんなりと受け入れることが出来た。
そして、バースは歩いた。信じがたいこの異空間を、行く当てもなく、自然に足の向く方向に歩いた。
すると、突如として目の前に闇の如く黒い城が聳え立った。城は天辺を見上げようとすると首を痛めそうなくらい大きかった。実際、もうそんなに若くはないバースは、首から妙な音がするのを聞いた。
バースは城の門をくぐった。銀色の、大袈裟なほど細かい細工が施してあるきらびやかなアーチ型の門。その門はバースを招き入れるようにすんなりと開いた。この城に入ってどうしようという目的はない。ただ、門の先には地面があった。そんなことがとても心の支えになった。地面に足が着くと全身に緊張が走って、一つ身震いをした。
自分は城の入り口に近づけば近づくほど、この城に入らなければならないという妙な考えに囚われていった。
城の入り口はバースを招き入れるようにすんなりと開いた。
古びたギィーッというドアの音にバースは何故か不安を抱いた。
城の中は全てモノトーンで上品にまとめられていた。
バースは自分でもどこに向かっているのか分からないまま城の中を歩き続けた。
もう何十分も歩き、バースの裸足の足が堅くなってしまったころ、不意に人の声がした。
こんな異空間に人がいるとは思っていなかったからか、バースは人の声がするドアにそろそろと忍び足で近づいた。
気づけばバースは、城の最上階、最奥まで来ていた。
バースはドアに耳を押し当て、その人の声をもっとよく聞こうとした。
「・・りません!貴方様が居なくなれば、総て崩壊します!」
キイキイと甲高い男の声が断片的に聞こえてきた。少し声が震えていたが、意を決したような強い意志を帯びた声だった。
「崩壊する…だと?私が何故貴様を何百年もの間傍に置いてきたか分かるか。この時の為だ。何が・・・なのだ。それに、私は死ぬわけではない。故、此処が崩壊するなどということはありえん」
次に聞こえた声は苛々と早口で、威圧するような口ぶりだった。バースは声を聞いただけだったが、この人を戦場で敵に回したくはないと思った。
「し、しかし…」
はじめの声の主は口籠りながらも尚反論を続けようとする。
「私に口答えするな。黙って私に従え」
「ですが…」
「聞こえなかったか。私の成すことに口を挟むな。歯向かう気か」
人が投げ出されるような音がしてヒィと小さな悲鳴が上がった。
「とんでもございません。決してそのようなことは…」
その声はもはや叫び声だった
「全てをお前に任そう。私に忠誠を尽くし、仕事を熱心にこなすなら、私はこれ以上何も言うまい。いいな、シルア」
苛々とした口調が少し和らいだ。とても上品なテノールで、耳障りのいい声だった。
シルアと呼ばれた男は一瞬押し黙ったが、すぐにまた震える声で言った。
「身に余る名誉、ありがたく頂戴致します」
「よろしい。ではまず部屋の外で聞き耳を立てている人間を中に招きいれ、丁重にお迎えしろ」
バースはぎくりと身を縮め、ドアから耳を勢いよく離した。なぜ気づかれたのだろうか。仕事柄気配を消すことには慣れていたというのに。
バースはまた忍び足でその部屋から離れようとしたが遅かった。城の入り口と同じ古びた音がして中から小太りのおどおどとした面持ちの男が出てきた。目をぎょろぎょろと動かし、俯いていた。顔を見た途端この人が甲高いほうの声の持ち主だと分かった。この人にあのきれいな声は似合わない。
彼は腕にあった生々しい傷からダラダラと血を流していた。
バースは瞬時に銃を構えようとしたが、入っているはずの銃がホルダーにかかっていなかった。
「どうぞ、中へ。主がお呼びです」
シルアはやはり甲高い声で言い、俯いてバースを部屋に招きいれた。その間中シルアは一度としてバースのほうを見ようともしなかった。
もう一人のほうの男は部屋の奥でビロード張りの銀の椅子に座り、優雅に足を組んでいた。左目は暗く濁った蒼い瞳で、右目は緋色のオッドアイを持ち、艶やかなダークブルーの髪は床すれすれまで流れていた。その男のすらりと長い手足に纏う強い気配はバースを萎縮させた。
どこをとっても不気味なほど完璧な、美青年だった。その容姿は完璧すぎて、蝋人形のように生気を感じられなかった。
「バース・ケヴァートだな。椅子はそこだ、掛けろ」
男は何処に漂う不気味な雰囲気は隠そうともせず、冷たく言い放った。シルアの傷を見たせいかもしれない。とても有り難うと微笑む気にはなれなかった。
男が指を振るとポンと可愛らしい音がしてバースの目の前に小さい椅子が置かれた。バースは素直にそれに座ると、男を真正面から見た。
自分の名前をなぜ知っているのかとか、この城や空間のことなど、聞きたいことは山ほどあったが、バースは小さい声で一つだけ口にした。
「なんなのだ、お前は」
その問いに真正面の男はクスリと笑った。嘲笑的な笑い方だった。
「ここの主…とでも言おうか。王様、といったほうが近いかね」
男は冗談めかして言ったが、目が笑っていない。
「逆に訊くが、お前はここをどこだと考える」
冥府。バースは瞬間的にそう考えた。しかし、この男にそれを言いたくはなかった。冥府などというファンタジーな考えを言って、また嘲笑されるのは我慢がならなかったからだ。
「分かってるではないか。此処は冥府。何故わかっていて口に出さない。認めるのが怖いか」
バースは何も言っていないのに、男はバースの思考を読み当てた。
冥府。ならばこの男は。
「お前は随分と沢山の人を殺したようだ。普段はミノス等に審判は任すが、ふむ、特別に、私が審判をしてやろう」
「ちょっと待ちたまえ。貴様はまさか・・・本当に・・・ハデスか」
バースは直感的に言った。この話の流れだと、地獄に落とされるのは分かりきっているので、とりあえず話を避けようと必死だった。必死すぎて、敬称を付けるのも忘れてしまった。
男は手で顔を覆い、ククと笑いを噛み殺した。手を下ろし、再び見せた男の顔は、今までのようなにこやかな物ではなく、残忍な顔だった。
「だったらなんだというのだ人間。私の名を軽々しく呼ばないでもらおう」
人間、の部分に蔑むような響きを感じた。
冥府の王、ハデスの声は、バースに語りかけているというよりバースの心に直接流し込むようで、バースはバクバクと鳴る心臓をぎゅっと押さえた。
「さて、続きだ。たとえ戦争をしていたとしても、人殺しは人殺し」
「でっでも!西じゃ私は英雄で!」
バースはなんでこんな若い男相手に萎縮しなければならんのだと思いながらも、歯向かう気にはなれなかったし、ハデスだということを否定しようとも思わなかった。むしろ自分がちゃんと話が出来ていることに驚いた。
ハデスはまた楽しそうに残酷な笑みを見せた。
「人間の評価なんぞ、私に関係あると思うか。私からすれば、お前はただの同族殺し。本音を言えば、私はお前ら人間が同じ人間を殺そうとどうでもいいが、そういうやつらは地獄に落とさねばならないという決まりになっている」
ハデスはバースの反応を楽しむようにここで一回言葉を切った。
「お前が本当に英雄ならエリシュオンに逝くべきだ、しかしお前ごときが英雄のわけがない。タルタロスに堕としてやってもいいぐらいだ」
神話に詳しくないバースはハデスの話を少ししか理解できなかったが、地獄に落ちる恐怖は凄まじく、身が竦んだ。とりあえず自分のことを高く評価してないということだけは分かった。
ハデスはまた何か口を開きかけたがその口をつぐみ、バースの顔を舐めるように見た。
「ところでお前は、お前を裏切ったあの男にどのような感情を抱いている?」
唐突な質問に、バースは思わず変な声を上げてしまった。
バースは隠すように胸をぎゅっと掴んだ。
ハデスは何でもお見通しか。バースの総てを手に取るように理解している。
ここは何の感情も抱いていないと言う方が無難だろうか。
「馬鹿なことを考えないほうがいい、人間。嘘は許さない」
ハデスはふわりと席を立つと、バースの背後に回り耳元でささやいた。
「憤怒か?悲愴か?それとも、憎悪か?心配することはない。私はお前の心の内を知りたいだけだ」
その優しいテノールを聞いていると、バースの体は急に脱力した。
「本当のことを。バース、少しくらい、いいだろう?」
バースは妙な安心感に包まれて、口を開いた。
「憎悪・・・だ。私は彼を許さない」
思ってもいないことだった。少しの憎しみと怒りは感じていたが、彼を邪険に扱ったバースにも非はある。憎悪なんて大げさな感情は抱いていなかった。
「よく言った。それでこそ、だ。お前の地獄逝きは帳消しにしてやろう」
バースは急な展開に戸惑いはしたが、その朗報に肩を撫で下ろした。
地獄に行かなくて済む。天国にいけるのだ。
思わず口元に笑みがこぼれた。
その瞬間、バースは目の端で部屋の隅に立つシルアを捕らえた。
バースはシルアに微笑みかけたが、浮かれていてシルアが苦悶の表情を返したことに気づかなかった。
「シルア、バースを例の場所へ案内してやれ」
ハデスは愛想よく言った。
悪魔の微笑みに見えていた彼の笑みが、今や天使の微笑みに見えた。
「はい」
甲高いシルアの声はどことなくトーンが下がっていた。
シルアは深々とハデスに一礼してバースに近づいた。
「こちらへ」
シルアはまだバースの顔を見ようもせずに部屋を出た。
「お前のご主人、案外良いやつなのだなあ」
シルアに連れられて部屋を出たバースはハデスに聞こえないように小声で言った。
シルアはその問いに答えようとはしなかった。奥歯を噛み締めて、拳を固く握り締めて、ただ歩くばかりだった。
一人残されたハデスは、バースが部屋から遠ざかった途端に顔を歪め、嗚咽を漏らした。
このたった十分後。城の中から冥府中に響き渡るような悲痛で恐怖に染まった叫び声があがった。