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バースが、自分にはまだ意識があるということに気がついたのは、そう時間の経っていないころだった。
どういうことだろうか。
自分はてっきり死んだと思っていた。
現在の状況について考えようと努力した。しかし、努力すればするほど、現実がわからない。
銃弾を胸に受け、死んだ。ついさっきの事だ。
嗚呼、どこで間違えたのだろうか。あの部下にしっかりと軍人の精神を叩き込んでおけば、後少しで終わったかもしれないのに。あと少しでこの都市は征圧できたかもしれないのに。
それでもくよくよ悩んでばかりでは前に進むことは出来ない。バースは過去のことは忘れて現在の状況について考えようと努力した。
しかし、時間がたつにつれて現実は虚構に変わってゆく。
バースは洞窟に立っていた。天井から微かに漏れる青白い光しかない、人一人通るのがやっとの狭苦しい洞窟だった。
ごつごつとした壁に触れば得体の知れない液体で手がヌルリとすべる。顔を上げれば、その液体が遥か高い天井から降ってきた。
それでも、何もしないよりはとバースは洞窟を前へ進んだ。
くねくねと曲がり、とても舗装されてはいなかったが、なぜか蜘蛛の巣一つなく、また鼠やまして蟻すらもいない。
しばらく歩くと、バースは洞窟が徐々に下へ、地下深くに進んでいることに気がついた。
引き返そうかとも考えたが、この先に何があるのかという好奇心が邪魔をして進み続けた。
天井の光が届かなくなり、ほとんどが闇に包まれたころ、ただ靴の地面を打つ音のみが響く洞窟の中でバースは赤い光を見たような気がした。
炎。
それは人がいる証拠に他ならず、バースは心浮いた。
バースはわざと大きく足音を鳴らし、しかし右手では軍服の下に銃を隠し持った。
その足元には洞窟中の水が集まって出来たであろう川があった。松明の灯りを水面に揺らし、汚濁し濃い緑色をした水は泡立ち、悪臭を放っていた。
人はいた。彼は右手に松明を、左手には木で出来た壊れかけの小船のロープを持っていた。
襤褸を着て、長い髭と油っぽくギトギトした髪を持つ老人だった。老人は黄ばんだ眼をぎょろりと動かし、バースを見た。
「お前は何者か」
バースは低く訊いた。
「1ドラクマだ」
「もう一度訊く。お前は何者か」
「1オボルスでも許してやろう」
繰り返し正体を聞いたが答えは返ってこず、代わりに聞いたことのない単語を返される。
「ここはなんだね」
自棄になって眉根に皺を寄せた。
「お前は死んだ」
また答えは返ってこず、今度は分かりたくはないが分かっていることを放たれた。
「知っている」
「しかし、まだ死は知らない。1オボルスだ」
また先ほどと同じことを言う。
だが、
「金かね。しかし私の手元にはないのだ」
そう言えば。
無表情だった男の顔にやっと色がでてきた。軽蔑とも、呆れとも取れる様な顔ではあったが。
「最近の者はなっとらん。昔は冥賎ぐらい常識であった。しかし今、主は甘い。通せと云う。さあ乗れ。非常識で甘ったれの馬鹿者よ」
老人は艪を手に取り、バースの顔を見もせずに言い放った。
バースはそれに従った。それに従う内はまだ行く先があるという証拠になったからだ。
ギシギシと不穏な音をさせながら小船に乗り込む。そして汚濁した川を覗き込むが、しかしその川は汚れてはいなかった。
透明で澄んだ水に、人工的ではなく、しかし磨かれた大理石のような水底が映る。
しばしその変貌振りに魅入っていると、小船がゆっくりと動き出した。
「あんまり覗くな。怒りに触れるぞ」
誰のと訊きたかったが愚問と返ってくることは間違いなく、それを引っ込めることにした。
小船は右に左にゆらゆらと揺れ、だんだんとスピードを上げていく。
老人ももとから少ない口を完全に閉じ、小船を漕ぐことだけに専念していた。帆を張ってもいないのに、背後から風を感じた。
それからはもう洞窟特有の重苦しい空気や、美しい川を眺めるどころではなくなっていた。
スピード狂のレーサーのように小船とは思えないスピードで川を下っていく。
異常であった。
耳元で風がびゅうびゅうと鳴り、風景は全て線で現れるようになった。
止めろと言おうとしたが口が風圧の所為で開かない。
耳が千切れる。耳鳴りがする。頭痛が襲う。
混乱する頭が破裂しそうで、直線だった景色はグニャリと曲がり、消えた。