毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~
鼻毛カッターが全部裏返される謎の事件簿
鼻毛カッターが全部裏返される謎の事件簿
迫田の端末には、一つのメモが保存されている。
題名は『抗議規範』。
中身は、こうだ。
一、盗まない。
二、壊さない。
三、隠さない。
四、持ち去らない。
五、陳列棚から撤去しない。
そして最後に、少し小さな文字で。
六、店員さんに迷惑をかけない。
迫田は、出かける前に必ずこのメモを読み返す。
抗議とは、正しくあらねばならない。
正しくない抗議は、ただの迷惑行為だ。
迫田は本気でそう考えていた。
◇
最初の店から、数週間が経っていた。
迫田は、すでに複数の店舗を回っている。
駅前の家電量販店。
郊外のショッピングモール。
隣町の大型電器店。
どの店にも、鼻毛カッター売り場はあった。
どの店の棚にも、笑顔が並んでいた。
迫田は、そのすべてを裏返した。
一つずつ。
丁寧に。
所作は、回を重ねるごとに洗練されていった。
最初の頃は、一つ裏返すのに四秒かかっていた。
今は二秒である。
裏返した後は、隣の商品と角度を揃える。
値札は隠さない。
商品の位置もずらさない。
前のめりに倒れている商品があれば、起こしてから裏返す。
他の客が棚へ近づいてきたら、一歩下がって場所を譲る。
客の買い物を妨げてはならない。
抗議の対象は文化であって、個人ではないのだ。
客が鼻毛カッターを選び、かごへ入れ、去っていく。
迫田は、その背中を黙って見送る。
そして客がいなくなると、また棚の前へ戻る。
取る。
裏返す。
戻す。
次。
取る。
裏返す。
戻す。
次。
迫田の中では、これ以上なく平和的な抗議だった。
◇
とある家電量販店。
バックヤードの奥にある防犯室。
壁一面のモニターの一つに、赤い枠が点滅していた。
『不審行動を検知しました』
店の防犯システムは、AIが常時映像を解析している。
商品を懐に入れる動き。
タグを外す動き。
不自然に長く同じ場所に留まる人物。
そういったものを自動で拾い上げ、警備員へ通知するのだ。
「三階の理美容コーナーですね」
警備員が映像を拡大した。
隣で、売り場担当の店員が覗き込む。
映っていたのは、一人の男だった。
男は、鼻毛カッターの棚の前に立っている。
無言で。
まっすぐに。
そして。
商品を一つ取った。
「……来ましたね」
店員が身を乗り出す。
男は商品を。
裏返した。
そして。
元の場所へ戻した。
「……」
「……」
次の商品を取る。
裏返す。
戻す。
次。
取る。
裏返す。
戻す。
次。
「……万引きじゃない?」
店員が言った。
「いや」
警備員は首を振った。
「戻してるだけですね」
「戻してる?」
「戻してます」
映像を早送りする。
男は、ひたすら同じ動作を繰り返していた。
一定のリズムで。
一切の迷いなく。
時折、他の客が棚に近づくと、すっと一歩下がる。
客が去ると、また戻ってくる。
「これ、何個目です?」
「四十七個目ですね」
「全部?」
「全部です」
店員は、しばらく黙って映像を見つめた。
「……何が目的なんです?」
警備員も、しばらく黙って映像を見つめた。
「わかりません」
モニターの隅に、AIの判定結果が表示されていた。
『万引き:否』
『破損:否』
『目的:不明』
「AIもわかってないじゃないですか」
「わかってないですね」
映像の最後。
男は、倒れかけていた商品を起こし、値札のずれを直していた。
そして、ほんの少し棚を見つめてから、静かに立ち去った。
「……被害は?」
「ありません」
「ありませんね」
二人は、もう一度最後の場面を巻き戻した。
「むしろ」
店員が、ぽつりと言った。
「前より綺麗になってますね、棚」
「……そうですね」
結局、店長の判断はこうだった。
「とりあえず、表に戻しておいて」
その日の閉店後。
店員は一人、鼻毛カッター売り場に立った。
取る。
表に返す。
戻す。
次。
四十七個目を戻し終えたとき、店員は少しだけ、あの男の気持ちがわかったような気がした。
気のせいだった。
◇
数日後。
SNSに、一枚の写真が投稿された。
『家電屋行ったら鼻毛カッターが全部裏返ってたんだが』
写真には、白い裏面がずらりと並んだ棚が写っていた。
見事に角度が揃っている。
返信が付いた。
『なにこれ』
『こわ』
『きれいに揃ってるのが逆にこわい』
そして。
『え、うちの近所の店もこれだった』
『こっちもだ』
『隣町のモールで見た』
写真が次々と投稿された。
どの棚も、鼻毛カッターだけが裏返っていた。
他の商品には、一切手が付けられていない。
電気シェーバーも。
ドライヤーも。
電動歯ブラシも。
ただ、鼻毛カッターだけが。
やがて、ネットニュースの片隅に小さな記事が載った。
『【謎】鼻毛カッターだけが裏返される事案、複数店舗で相次ぐ 被害はなし』
記事のコメント欄では、考察が始まった。
『新手のステマでは?』
『鼻毛カッター業界の内部抗争』
『現代アートでしょ』
『店員の嫌がらせ説』
『裏面の注意書きを読ませたい安全啓発の人』
『鼻毛を切る文化への抗議では? ←草』
そして。
誰かが書いた。
『もうこれ鼻毛テロだろ』
その一言が、妙に広まった。
#鼻毛テロ
短いが、わかりやすい。
何が起きているのかは、誰にもわからない。
だが、何と呼べばいいかだけは決まった。
◇
その夜。
迫田は、自室で端末を見ていた。
空気清浄機が、低い音を立てて回っている。
画面には、見覚えのある棚の写真。
そして、その下に並ぶ文字。
『#鼻毛テロ』
「……テロ」
迫田は、画面を見つめたまま動かなかった。
テロ。
テロとは何か。
暴力や脅迫によって、恐怖を与え、目的を達しようとすることだ。
迫田は、誰も脅していない。
何も壊していない。
何も盗んでいない。
値札すら隠していない。
むしろ、倒れていた商品を起こしている。
「テロではない」
迫田は真顔で言った。
「抗議だ」
訂正しなければ。
迫田は投稿画面を開いた。
『これはテロではありません。鼻毛を切る文化への――』
そこで、指が止まった。
抗議とは、行為で示すものだ。
名乗った瞬間、それは抗議ではなく、自己主張になる。
それに。
名乗り出れば、店員さんに事情を聞かれるだろう。
店員さんの手を煩わせることになる。
規範の六に反する。
迫田は、書きかけの文章を消した。
一文字ずつ。
丁寧に。
そして、もう一度コメント欄を見た。
『鼻毛を切る文化への抗議では? ←草』
「……」
わかっている人間が、一人だけいた。
迫田は、その一文を長い間見つめていた。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
末尾の「草」の意味については。
考えないことにした。
◇
翌日。
迫田は、まだ行ったことのない店へ向かった。
端末のメモを読み返す。
一、盗まない。
二、壊さない。
三、隠さない。
四、持ち去らない。
五、陳列棚から撤去しない。
六、店員さんに迷惑をかけない。
迫田は深く頷いた。
深呼吸はしなかった。
何か入ってくるかもしれない。
「テロではない」
自動ドアが開く。
「抗議だ」
迫田は、まっすぐ三階へ向かった。
残酷描写:無残にも裏返し続けられる商品パッケージの描写があります。
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