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毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~

鼻毛カッターが全部裏返される謎の事件簿

作者: kawauso2017
掲載日:2026/10/03

鼻毛カッターが全部裏返される謎の事件簿


 迫田の端末には、一つのメモが保存されている。


 題名は『抗議規範』。


 中身は、こうだ。


 一、盗まない。


 二、壊さない。


 三、隠さない。


 四、持ち去らない。


 五、陳列棚から撤去しない。


 そして最後に、少し小さな文字で。


 六、店員さんに迷惑をかけない。


 迫田は、出かける前に必ずこのメモを読み返す。


 抗議とは、正しくあらねばならない。


 正しくない抗議は、ただの迷惑行為だ。


 迫田は本気でそう考えていた。


     ◇


 最初の店から、数週間が経っていた。


 迫田は、すでに複数の店舗を回っている。


 駅前の家電量販店。


 郊外のショッピングモール。


 隣町の大型電器店。


 どの店にも、鼻毛カッター売り場はあった。


 どの店の棚にも、笑顔が並んでいた。


 迫田は、そのすべてを裏返した。


 一つずつ。


 丁寧に。


 所作は、回を重ねるごとに洗練されていった。


 最初の頃は、一つ裏返すのに四秒かかっていた。


 今は二秒である。


 裏返した後は、隣の商品と角度を揃える。


 値札は隠さない。


 商品の位置もずらさない。


 前のめりに倒れている商品があれば、起こしてから裏返す。


 他の客が棚へ近づいてきたら、一歩下がって場所を譲る。


 客の買い物を妨げてはならない。


 抗議の対象は文化であって、個人ではないのだ。


 客が鼻毛カッターを選び、かごへ入れ、去っていく。


 迫田は、その背中を黙って見送る。


 そして客がいなくなると、また棚の前へ戻る。


 取る。


 裏返す。


 戻す。


 次。


 取る。


 裏返す。


 戻す。


 次。


 迫田の中では、これ以上なく平和的な抗議だった。


     ◇


 とある家電量販店。


 バックヤードの奥にある防犯室。


 壁一面のモニターの一つに、赤い枠が点滅していた。


『不審行動を検知しました』


 店の防犯システムは、AIが常時映像を解析している。


 商品を懐に入れる動き。


 タグを外す動き。


 不自然に長く同じ場所に留まる人物。


 そういったものを自動で拾い上げ、警備員へ通知するのだ。


「三階の理美容コーナーですね」


 警備員が映像を拡大した。


 隣で、売り場担当の店員が覗き込む。


 映っていたのは、一人の男だった。


 男は、鼻毛カッターの棚の前に立っている。


 無言で。


 まっすぐに。


 そして。


 商品を一つ取った。


「……来ましたね」


 店員が身を乗り出す。


 男は商品を。


 裏返した。


 そして。


 元の場所へ戻した。


「……」


「……」


 次の商品を取る。


 裏返す。


 戻す。


 次。


 取る。


 裏返す。


 戻す。


 次。


「……万引きじゃない?」


 店員が言った。


「いや」


 警備員は首を振った。


「戻してるだけですね」


「戻してる?」


「戻してます」


 映像を早送りする。


 男は、ひたすら同じ動作を繰り返していた。


 一定のリズムで。


 一切の迷いなく。


 時折、他の客が棚に近づくと、すっと一歩下がる。


 客が去ると、また戻ってくる。


「これ、何個目です?」


「四十七個目ですね」


「全部?」


「全部です」


 店員は、しばらく黙って映像を見つめた。


「……何が目的なんです?」


 警備員も、しばらく黙って映像を見つめた。


「わかりません」


 モニターの隅に、AIの判定結果が表示されていた。


『万引き:否』


『破損:否』


『目的:不明』


「AIもわかってないじゃないですか」


「わかってないですね」


 映像の最後。


 男は、倒れかけていた商品を起こし、値札のずれを直していた。


 そして、ほんの少し棚を見つめてから、静かに立ち去った。


「……被害は?」


「ありません」


「ありませんね」


 二人は、もう一度最後の場面を巻き戻した。


「むしろ」


 店員が、ぽつりと言った。


「前より綺麗になってますね、棚」


「……そうですね」


 結局、店長の判断はこうだった。


「とりあえず、表に戻しておいて」


 その日の閉店後。


 店員は一人、鼻毛カッター売り場に立った。


 取る。


 表に返す。


 戻す。


 次。


 四十七個目を戻し終えたとき、店員は少しだけ、あの男の気持ちがわかったような気がした。


 気のせいだった。


     ◇


 数日後。


 SNSに、一枚の写真が投稿された。


『家電屋行ったら鼻毛カッターが全部裏返ってたんだが』


 写真には、白い裏面がずらりと並んだ棚が写っていた。


 見事に角度が揃っている。


 返信が付いた。


『なにこれ』


『こわ』


『きれいに揃ってるのが逆にこわい』


 そして。


『え、うちの近所の店もこれだった』


『こっちもだ』


『隣町のモールで見た』


 写真が次々と投稿された。


 どの棚も、鼻毛カッターだけが裏返っていた。


 他の商品には、一切手が付けられていない。


 電気シェーバーも。


 ドライヤーも。


 電動歯ブラシも。


 ただ、鼻毛カッターだけが。


 やがて、ネットニュースの片隅に小さな記事が載った。


『【謎】鼻毛カッターだけが裏返される事案、複数店舗で相次ぐ 被害はなし』


 記事のコメント欄では、考察が始まった。


『新手のステマでは?』


『鼻毛カッター業界の内部抗争』


『現代アートでしょ』


『店員の嫌がらせ説』


『裏面の注意書きを読ませたい安全啓発の人』


『鼻毛を切る文化への抗議では? ←草』


 そして。


 誰かが書いた。


『もうこれ鼻毛テロだろ』


 その一言が、妙に広まった。


 #鼻毛テロ


 短いが、わかりやすい。


 何が起きているのかは、誰にもわからない。


 だが、何と呼べばいいかだけは決まった。


     ◇


 その夜。


 迫田は、自室で端末を見ていた。


 空気清浄機が、低い音を立てて回っている。


 画面には、見覚えのある棚の写真。


 そして、その下に並ぶ文字。


『#鼻毛テロ』


「……テロ」


 迫田は、画面を見つめたまま動かなかった。


 テロ。


 テロとは何か。


 暴力や脅迫によって、恐怖を与え、目的を達しようとすることだ。


 迫田は、誰も脅していない。


 何も壊していない。


 何も盗んでいない。


 値札すら隠していない。


 むしろ、倒れていた商品を起こしている。


「テロではない」


 迫田は真顔で言った。


「抗議だ」


 訂正しなければ。


 迫田は投稿画面を開いた。


『これはテロではありません。鼻毛を切る文化への――』


 そこで、指が止まった。


 抗議とは、行為で示すものだ。


 名乗った瞬間、それは抗議ではなく、自己主張になる。


 それに。


 名乗り出れば、店員さんに事情を聞かれるだろう。


 店員さんの手を煩わせることになる。


 規範の六に反する。


 迫田は、書きかけの文章を消した。


 一文字ずつ。


 丁寧に。


 そして、もう一度コメント欄を見た。


『鼻毛を切る文化への抗議では? ←草』


「……」


 わかっている人間が、一人だけいた。


 迫田は、その一文を長い間見つめていた。


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


 末尾の「草」の意味については。


 考えないことにした。


     ◇


 翌日。


 迫田は、まだ行ったことのない店へ向かった。


 端末のメモを読み返す。


 一、盗まない。


 二、壊さない。


 三、隠さない。


 四、持ち去らない。


 五、陳列棚から撤去しない。


 六、店員さんに迷惑をかけない。


 迫田は深く頷いた。


 深呼吸はしなかった。


 何か入ってくるかもしれない。


「テロではない」


 自動ドアが開く。


「抗議だ」


 迫田は、まっすぐ三階へ向かった。


残酷描写:無残にも裏返し続けられる商品パッケージの描写があります。


前日譚第2話

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