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梔子の手の梔子の香り

作者: 兎丸 蓮
掲載日:2026/06/22

「なあ、あれ、何?」


 隣を歩く翔太がふいに足を止め、指を差す。


 人が激しく行き交うN駅で、黒い小さなスーツケースを見つけた。

 それは、公衆トイレ側のコインロッカーすぐそばに、ぽつんと置かれていた。

 やけに真新しく新品そのものに見えた。


「誰かの忘れ物じゃねぇ?」


 廉士郎が面倒臭そうにいうが、翔太はどうもそのスーツケースが気になってしかたがないらしく、チラチラ見ていた。

 しまいにはスーツケースのそばに寄り、ゆさゆさと揺らす始末だ。


 あれ? このスーツケース、どこかで見たような……。

 ふと既視感が襲う。


 その時、中で何かがぶつかる音がした。


「やっぱり忘れ物だろ、警察に届けるか?」


 廉士郎は数百メートル先の派出所に視線を投げた。

 翔太が突如しゃがみ込み、スーツケースに耳を当て、突然押し黙った。


 重い沈黙。


 周囲の雑踏の喧騒がやけに大きく聞こえる。


 廉士郎は一向に動こうとしない翔太にため息をついた。

 いい年した男がスーツケースに耳をあてている。

 側から見たらかなりシュールな図だ。


「ほら、派出所行くぞ」


「しー」


 翔太は人差し指を口に当てる。


「音がする。ほら」


「ん? 音?」


「ああ、ほら聞いてみて」


「んー、どれ?」


 廉士郎もその場にしゃがみ、スーツケースに耳を当てる。


 雑踏に紛れて、最初はよく聞こえなかった。

 けど、耳を澄ますと、『ピッピッ』と確かに電子音が聞こえる気がする。


「なんか、これ、単純に何かの機械が入ってるんじゃねえの?」


「爆弾だったり?」


 翔太は、ニヤァと意味深に笑う。


「は? ふざけんなよ。それ、全然笑えねーって」


「どうする? 爆発したら」


 翔太が面白おかしく目を爛々とさせて尋ねた。


「馬鹿。んなわけないって」


 廉士郎は頭を掻きむしりながら立ち上がった。


「時間がない。

 ほら、警察に届けてさっさと行こうぜ」


 廉士郎は友人を促すよう顎をしゃくった。

 翔太は「ちぇ」と言いながら、渋々立ち上がった。


 むっとする空気が身体を包みこんだ。

 梅雨時期の大きな駅はエアコンが効いているようで、効いていない。

 時々、不快な風が忍び込む。


 甘い香りが鼻を突く。


 その時、廉士郎の視線の先に、白い女が映り込んだ。

 この時期に白いコート、白いブーツ。

 色白の顔。


 まるで白熱電球の――。


「廉士郎? どうした?」


「ああ。なんでもない。ぼーっとしてた」


 廉士郎がハッとして、不思議そうな顔をする翔太に顔を向けた。


「あはは、なんだよ、それ。

 俺達は今お祝儀っていう大金を持ってるんだ。気をつけろよ」


「そうだな」


 廉士郎は苦笑した。

 それからそっと、さっき女がいたところに視線を投げるが、もうそこには女はいない。

 

 なんだったんだろう。

 幻? いや確かに見た。


 白い女。


 どこかで見た。

 どこで?

 その瞬間、フラッシュバックのように記憶が駆け巡っって、身体が強張った。


 息が一瞬止まる。

 汗が冷たく変わった。


 今から俺たちは友人の結婚式に行かなくてはならないのに、なぜこんなことを急に思い出したのか。こんな自分が悔やんでならない。


 あれは、白昼夢だと思っていたけれど。


 高速道路でとんでもないスピードで並列に走った女だ。

 

 影のような不安が胸をかすめた。

 これから何かが起こる。とんでもないことが。

 意味のわからない不穏な気配。


 今から親友の祝宴の席だというのに――。



***



 結婚式ラッシュで祝儀貧乏になりながらも、昨日仕事を早退してわざわざ銀行へ行って古札からピン札に変えに行った。

 銀行って何で三時に閉まるんだろうな。そのためにわざわざ半日有給を使わないといけないなんてナンセンスだ。


 それから、百均でそれなりに立派に見える金額相応の祝儀袋を購入した。


 夜のうちに、高速バスに乗って地元のN市に久々に帰る。

 パラパラと雨が降ってきた。

 大きなバスのガラス窓の向こうの風景はたちまち雨で歪み始めた。


 高速道路の直線区間の脇のバス停留所が視界に入る。

 本線脇にある独立タイプで、一般道側に歩行者用の階段や入り口がついていて、近隣の住民が外から歩いて入ってこられる構造になっている。


 そこに待合室だけが、ポツンと設けられている


 人影がいた。

 

 やけに目が吸い寄せられる。


 青白い顔をした若い、髪の長い女だ。

 やけに背の高い女。梅雨に入ろうとしているこの時期に、真っ白なコートにブーツ。

 そして、手元に黒いスーツケース。


(変な女。季節感がバグった人とかかな――)


 最近見かける異国の集団を思い出す。

 彼らは時々不思議な格好をしている。

 暑いのに分厚いニットに身を包み、まだ涼しい時期にはダウンジャケットを着ていたりする。


 バス停に佇む生気のないその女の顔は、煤汚れた使い古した白熱電球のように見えた。

 雨足はどんどん強くなる。


 大変だな。傘、持っていないのかな。


 そう思った瞬間、目にも留まらぬありえないスピードで、女がバスを追いかけるように並行で駆け出した。


 いっぺんに背筋が凍りついた。

 そんな馬鹿な。

 廉士郎は、愕然とし、サッと視線を逸らした。


 しばらくして、恐る恐る窓の外を見て、通り過ぎたバス停留所の待合室を振り返る。

 

 誰も、いない――。


 何だったんだ?

 まさか、幽霊?

 

 首筋から背中にかけて冷や汗が流れていた。

 速まる鼓動。


 他のバスの乗客の様子をそっと窺った。

 それぞれ思い思いに乗客は過ごしていた。


 スマホの画面に夢中だったり、本を読んでいたり、眠っていたり、それぞれだ。


 誰もアレを見ていないのか――。


 ほっとするような、この恐怖を共感してもらえる相手がいないことに一抹の寂しさを覚える。

 やけに喉が乾いた。


 廉士郎は落ち着くために、あらかじめ買っておいたペットボトルの緑茶を一気に飲む。

 生ぬるくなった常温のお茶。

 表面がすっかり水滴だらけで、持つ手に水がつく。


 飲み終わる頃には、ようやく気分も落ち着いてきた。


 そっともう一度、振り返る。

 高速バスは、いつの間にか全然違う海沿いの景色を走っていて、あのバス停留所の姿はもうない。

 

 白昼夢だったのかな?


 ここ最近、担当プロジェクトもいよいよ大詰めで忙しかったし、帰る時間も終電ギリギリ。疲労も溜まっていた。

 

(自分でも驚くほど、俺はきっと疲れているんだ)

 

 そう自分に言い聞かせ、廉士郎は目頭を押さえた。

 カバンからアイマスクを取り出して、一眠りすることにした。


 名古屋に到着する頃には、雨はすっかりやんでいた。

 昼間バスで見た女のことが一瞬脳裏を横切るが、打ち消す。


 あれは白昼夢だったんだ。


 人通りの多い駅からバスに乗って、街灯しか灯りがない住宅街へ。


 バスを降りると、湿った冷気が心地よかった。

 どことなく雨に混じって草木や土の匂いがする。


 夜の闇は深い。


 何年ぶりの帰省か。親父の葬式以来だよな。


 懐かしい実家。


 玄関の引き戸をがらりと開けた。

 その音がやけに新鮮に聞こえる。

 何度も何度も聞いた懐かしい音なのに。


 気密性の高いアパートに住んでいると、音がないからだろう。

 かつては、少しでも風が出るとガラス戸や窓枠がガタガタ鳴って怖かったものだ。


 中は蛍光灯が灯されているのに、薄暗い。

 古い家には独特な埃っぽい匂いが漂う。


「ああ、廉士郎。おかえり」


 さっそく母の出迎えがあった。


「ただいま」


 廉士郎は、はにかんだ。

 想像より一回り小さく見えた母に、月日を感じ、僅かに胸が締め付けられた。


 母が張り切って廉士郎の大好物ばかり夕飯に用意してくれた。

 白飯は茶碗じゃなくてどんぶりで用意されている。まさに漫画盛りというものだ。


 俺、思春期の高校生じゃねーよ。こんなに食えねえって。

 そう言いながらも食は進む。


 軋む階段を上がって学生時代から変わらない俺の部屋に入る。


 当時ハマっていたアイドル歌手のポスターが日焼けしたのか色褪せて貼られたままだ。

 無性に学生服に身を包んでいた青臭い自分を思い出す。


 込み上げる気恥ずかしさと懐かしさを同時に噛み締め、ようやく「ああ、帰ってきたんだ」と実感して安堵する。


 布団に潜るとお日様の匂いがした。名古屋は昼間晴れていたと母親が言っていたから、きっと昼間に布団を干しておいてくれたんだろう。


 親、ありがてぇ。


 すぐに眠りに落ちた。


 けれど、夜明け前。どこかでコトコトという音を聞いた気がした。

 なんだろう、この音は。


 頭の中にぼんやりと朧げな光を感じた。


 白い手。


 おいでおいでと、手招きするキレイな手。


 ああいう手を白魚の手というのか。


 つい最近別れたカノジョが、マニキュアが嫌いだからとよく爪磨きで手入れをしていたっけ。

 夢の中で、街の上に広がる夜明けのグラデーションを感じた。


 ああ、もう朝なのだ。起きなくては。



——連れて行って。一緒に行きましょう。



 低く掠れたような女の声が漏れ出た気がした。


 真っ赤な、鮮血のような背景。

 ぽつんと現れたバス停留所。

 黒いスーツケース。


 夢? これは夢だよな?


 突然、ハッと目が覚めた。

 これが現実だと認識した時の、揺るぎない、ずしりとした感覚が全身に沈んだ。


 その時、甘ったるい不吉な匂いが鼻孔を刺激した。

 廉士郎は反射的に身を起こした。


 この匂い……。顔を歪めた。

 どこかで嗅いだことのある香りだ。不快感だけが込み上げる。


「廉士郎、朝ごはんできてるよー」


 母の声がして、ハッと我に返った。

 枕元のスマホに目を通す。

 七時。


 もうすっかり日は高く上がっている――。


 よく眠れたと思ったが、明け方の夢のせいか、やけに身体が気怠い。

 変な夢だったな。

 そう思うのに、夢の記憶は徐々に薄れていく。


 歯を磨きながらリビングをぶらぶらしていたら、ふと庭の白い花に目がいった。


 風もなく、どんよりした空。


 梔子くちなしの花。


 もうそんな時期か。


 母は昔よく、あの梔子の実を使って『黄いないおこわ』というものを作っていた。縁起がいいからとよく食べさせられた。


『黄いないおこわ』とは、もち米を梔子の実とともに水に浸し、しっかり浸水させた後、黒豆と一緒に炊きこんだものだ。


 俺はあれが嫌いだった。


 いや、あの花自体が嫌いなんだ。


 そうだ、思い出した。寝起きに嗅いだあの匂いは、この花だったんだ。


 どんよりとした梅雨空の中に、ぽつりと鮮烈に咲く白い花。

 存在感がやけに強くて、なんだか薄気味悪く感じる、どこか癪に障る香り——。

 母親は梔子が好きだ。特に香りが好きという。


 ねっとりしてて、甘ったるい。淫靡で危険な香り。


 あの花の匂いを嗅ぐたびに何故か無性に胸を掻きむしりたくなるような不快感が込みあげる。


 紫陽花とは大違いだな。


 先日、別れたカノジョと神奈川県の有名なH寺に紫陽花を観に行った。灰色の空に、見事な色鮮やかな紫陽花の株の群生。雨に濡れた冷ややかで端正な美しさ。

 息を呑んだ。


 それと全然違う。


「おはよう、廉士郎。さっさと朝ごはん、食べちゃってよ」


 母が漫画盛りのご飯と味噌汁、卵焼きとナスの浅漬を手際よくキビキビ用意する。


「あっ、うん」


 っていうか、朝から漫画盛りの白飯。食えるかなぁ。


 朝食後、廉士郎は、クローゼットの奥にしまっておいた黒の礼服を出した。


 身支度を整え、待ち合わせの駅にバスで向かった。


 実家に到着した時はすでに日も暮れて、夜だったから気づかなかったけれど、ここは学生時代、長年何度も通った馴染みの道だ。


 けれど、昔なじみの店は閉店し、すっかり新しい街並みに変わっていた。


 ピカピカの街。

 新しいスーパーマーケットや飲食店、コンビニ。


 気分はすっかり浦島太郎だ。


 月日の流れに取り残されたような妙な寂しさを覚えた。


「昨日、わざわざ実家まで前乗りしておいて正解だったな」


 駅近のスタバで合流した翔太が、雨が激しく打ち付ける窓の向こうを見て呟いた。


「ああ。今日移動だったら、この雨で新幹線やバスが遅れてたかもしれない」 


「……っていうか、まさか、アイツがちゃんと式を挙げるなんてねぇ」


 翔太はくいっとコーヒーを飲み干した。


「それ。激しく同感する」


 廉士郎も残り少ないコーヒを飲み干した。


 学ランを着ている頃のあどけない翔太が、すっかり殺伐したサラリーマンのオジサンになっていた。


 それは廉士郎も同じ。

 お互いすっかり歳をとった。

 といっても、会社の上司に言わせればまだまだ新人に毛が生えたような年齢。


 いまだ部長や室長たちは、「男は結婚が出来てこそ一人前」という風潮が強い。


「やっぱり出来婚は、男に結婚の覚悟を決めさせる、とっておきの手法だよなあ」


 翔太が苦笑した。どうやら翔太の近況報告を聞くと、最近付き合っているカノジョが「結婚」を視野にいれ、あれこれ画策しているという。


「家に帰ったらさ、部屋にゼクシィが置いてあったんだよ。

 今どき、雑誌のゼクシィだぜ? 

 しかもいろんなページに付箋が貼ってあるんだよ。

 そればかりか避妊用のゴムに細工してあったんだぜ」


「細工?」


「そう。針で穴を開けてあるんだ。新品で買ったはずなのに、すでに開封されているんだ。

 おかしいなぁ、って思ったら——そういうことだった。

 マジでホラーだね」


 翔太はおどけるようにして、肩をすくめた。


「それだけカノジョさんも焦ってるんだろ。

 いまだに結婚はいいものだ、結婚すべきだと思っている親も多いっていうしな」


「そこが不条理なんだよ。自分たちと同じ時代の感覚でいるんだぜ? 

 すげぇ迷惑。

 今どき共働きは当然、子どもを持つなんて贅沢の極みだよ」


「それと同じことを言っていた彰人が結婚だ。

 そろそろ翔太も腰を据える時期なんじゃないのか?」


「うへぇ。勘弁してくれよ」


 翔太は顔をしかめた。

 それからすっと真顔になって、頬を掻きながら言う。


「でも、まあ特段キリスト教徒でも何でもない、

 結婚なんてしないと断言していた彰人が、ステンドグラスが素敵、っていうチャペルで結婚式を挙げるんだ。で、来年は父親だ。

 いろいろ考えさせられるよなぁ」


「そうだな」


「さて、いくか」


 翔太が腕時計を見、席を立った。廉士郎もそれに倣う。


「そうだな」


 俺たちは今から、顔も知らない新婦が選んだ会場に参列するために向かっている——。


 スタバを出て、雑踏へ戻った。

 そして、コインロッカーの前に立ち尽くす、あの黒いスーツケースに目が留まる。


 どこにでもある風景、どこにでもありうる状況。





 「――んじゃ、そのスーツケースを持って派出所に行くか」


 何事もなかったように翔太は不貞腐れた顔で立ち上がり、スーツケースの取っ手に手を伸ばした。


 突如、目の前が赤くなった。

 どこからともなく鮮血のように赤い小さな水滴のような霧が噴き出して周囲を覆い尽くしていく。


 なんだ、これ。 


 廉士郎は慌てて周囲を見回した。 

 誰もこの赤い霧を気にしている様子がない。


 おかしい。


 じっとり身体に纏わりつく。

 不意に梔子の官能的な香りがワッと広がり、喉の奥に熱い塊を感じた。

 獰猛で凶暴な甘ったるい匂いが鼻に付く。


 世界がぐにゃりと歪む。


 その時だ、スーツケースがカッと光ったのは。



 翔太の言う通り、爆弾だ。



 だけど、廉士郎は見た。


 あのスーツケースから白い手がぬるっと出てきた瞬間を。


「一緒に行きましょう」


 掠れた女の声が耳元で聞こえ、背筋に冷や汗が流れた。

 

 走馬灯のように、廉士郎の脳裏に映像が横切った。


 庭先に咲く白い花。

 そこに佇む顔のない、灰色の空洞を持った白熱電球の、白いコートの女。


 目を剥いた。


 そして、夢で見たあの手――。


 目の前が閃光で真っ白になって、廉士郎の意識も真っ白になった。


 あとに残るのは梔子の甘美で、濃密な、過剰なほど凶暴な香り。

 雨が降っている。降っている。

 

 それはずっと、途絶えることなく、静かに。

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