反対側のホーム
一
「──丸山さん」
最初、私のことだとは分からなかった。
帰り道は、いつもそれなりに混んでいる。十七時台のラッシュが始まる少し手前、疲れた顔をしたサラリーマンや、買い物袋を抱えた主婦たちが、思い思いの速度で狭い道路を抜けていく。私もその流れの中にいた。イヤホンはしていなかったけれど、頭の中は静かだった。今日の仕事のことを考えていたわけでも、夕飯のことを考えていたわけでもない。ただぼんやりと、人の波に乗って歩いていた。
「──丸山さん」
もう一度呼ばれて、私はようやく振り返った。
山口さんが立っていた。
二
山口さんは県庁職員だ。
私は県庁の外注先の契約社員。
同じ部署で働く者同士ではあるけれど、立場が全く違う。デスクとデスクの距離は五メートルもないのに、その五メートルの間には、分厚い何かが横たわっているような気がいつもしていた。
「奇遇ですね」
山口さんは言った。
「……そうですね」
私は答えた。
内心、心臓がバクバクしていた。決して恋愛感情などではない。
山口さんは怖い人だ。少なくとも、私にとっては怖い人だった。
恐らく私と同じくらいの年齢だろう、とは思っていた。だが、立場は向こうのほうが上だ。年次も、身分も、組織の中における重力の向きも、全部。
仕事上、よく話すことがある。電話がかかってくる時、私たち外注先の人間が受話器を取り、職員に取り次ぐルールになっている。お役所というのはそういうものらしかった。私はそのルールを特に疑問に思うこともなく、ただ黙々と守っていた。
山口さん宛の電話を取り次ぐ時、山口さんは決まって面倒くさそうに、嫌そうにする。眉間にうっすら皺を寄せて、「はあ」とも「ああ」ともとれる短い声を出して、受話器を受け取る。気持ちは分かる。電話など、誰だって煩わしい。でも私はその態度が怖くて堪らなかった。自分が怒られているわけでもないのに、受話器を差し出す手が微かに震えることさえあった。
だから、こうして帰り際に話しかけられたことに、まず驚いていた。
そして次に、山口さんが思いの外、フレンドリーな人であることにも。
私だったら、山口さんの姿を見かけたとしたら、隠れるか、逃げていた。実際、庁舎の廊下で鉢合わせそうになった時、私は何食わぬ顔で給湯室に引き返したことがある。
「丸山さんは、どちらから来られてるんですか?」
慣例通りの、挨拶のような質問だ。夕暮れの道路脇で交わすのにちょうどいい、深くも浅くもない問いかけ。
「ええと、◯◯市って分かります?」
「ああ、分かりますよ! 僕、その隣の◼︎◼︎市出身ですから」
「そうなんですか!」
意外だった。なんとなく、もっと都会の出身者のような雰囲気があった。あの落ち着いた所作や、無駄のない喋り方が、どこか都会的に見えていたのかもしれない。
「高校は◼︎◼︎高校です」
聞いてもいないのに山口さんが言った。地元の人間と話す時に自然と出てくる、座標を確認し合う習慣のようなものだと思った。
「私、その隣の◯◯高校です」
私も答えた。するとふと、あの頃の通学電車の景色が浮かんだ。車窓から見えた田んぼと、低い山の稜線と、退屈で仕方がなかった十代の朝。
「山口さんはおいくつですか? 僕は三十二です」
山口さんがいきなり不躾な質問をしてきたのにも驚いた。だが、悪意のある唐突さではなかった。話題を続けようとする、素直な試みのように感じた。
「私も三十二です!」
そう答えた瞬間、私は自分の中に澱んだ何かがあることに気付いた。三十二、という数字が、今日は妙に軽く口から出た。
「同い年ですね!じゃあ平成◯年生まれ?」
私は盛大な勘違いをしていた。
「あっ、違いました、ごめんなさい!勘違いしてました!私、三十四です」
三十代になってから、自分の年齢を忘れることが増えた。二十代の頃は一歳ずつ、階段を一段ずつ踏みしめるようにして数えていたのに、三十を過ぎた頃から脳が年齢を数えることを止めてしまったかのようだった。誕生日が来ても、特に何も変わらない。だから数を刻む意味が、だんだん薄れていった。
「二つ違いですね」
山口さんは笑った。笑ったのを見たのは、初めてかもしれなかった。オフィスで見せる表情とは、確かに違った。
山口さんが二つ歳下だったことも意外だった。あの落ち着いた雰囲気から、てっきり同い年か、歳上だと思い込んでいた。人は先入観で人を見る。私は改めてそのことを思った。
「よく帰り際に丸山さんの姿、見てました」
「……えっ?」
聞き間違いかと思った。
「よく反対側のホームに立って、スマホを弄ってる姿を見かけます」
今まで見られていたのか、と思った。私が山口さんの存在にさえ気付かないでいた時間に、山口さんはこちらを見ていたのだ。なんだか、ひどく非対称なことのように思えた。
「私は山口さんに気付いていませんでした……。なんだか、恥ずかしいな」
思ったことがそのまま口から出た。フィルターというものが、今日の私は壊れているらしかった。
──無言。
流れていた会話が、不意に淀んだ。何か、何か話さなければ、と焦る。こういう時に出てくる話題が何もない。私はスマホを持つ手に、じわりと汗をかいた。
「丸山さんは、」
山口さんが言った。
「来年も契約更新されるんですか?」
「は、はい。そのつもりです」
「そうですか」
短い、それきりの相槌だった。山口さんはどうなのか聞きたかった。職員は二年程で部署異動になるのが慣例だが、山口さんは三年程、今の部署にいる。誰かから聞いた話では、人手が足りない部署に長く引き止められているのだという。
来年はもしかしたら、異動になるかもしれない。そう思うと、なんだか奇妙な気持ちがした。怖い人だと思っていたのに。いなくなるかもしれないと聞いて、どうして寂しいのだろう、と私は自分に問うた。答えは出なかった。
それから、地元の話をした。子供の頃に行った海の話や、もうなくなってしまったショッピングモールの話をした。出身大学の話もした。山口さんは県外の国立大、私は県内の私立大だった。ただそれだけのことが、今日はやけに親しみやすく聞こえた。
「じゃあ、僕こっちなんで」
駅に着くと、山口さんが私とは反対のホームへと歩いていった。迷いのない足取りで、ごく自然に、さも当然のように。
「はい、お疲れさまでした!」
私の声は、少し上ずっていたかもしれない。
山口さんの背中を見送りながら、私は緊張と冷や汗で、立っているのが精一杯だった。膝の裏が、じわりと湿っているのが分かった。
三
電車に乗ってしまえば、もう山口さんの姿は見えなかった。
向かいのホームに、さっきまで山口さんが立っていた場所がある。いつもスマホを弄っている私を、あそこから見ていたのか、と思った。私には見えていなかったのに。
ドアが閉まった。電車が滑り出した。窓の外の景色が、ゆっくりと流れ始めた。
山口さんを『怖い人』だと決めつけていた。
彼と話すのは、私にとって恐怖を伴うことだった。受話器を差し出すたびに感じる、あの微かな緊張。廊下で見かけると、反射的に迂回したくなる、あの感覚。それは本物だった。今も嘘ではない。
なのに、話しかけてくれた。
……話せた。
嘘のようだった。
車内は程よく空いていた。私は窓際の席に座り、流れていく街の灯りをぼんやりと眺めた。
この感情がなんなのか、よく分からなかった。
決して恋愛感情ではない。断言できた。ドラマや小説の中の登場人物たちが経験するような、甘い胸の痛みとは全く違う。
でも心臓のドキドキが止まらなかった。
焦りや恐怖心に近かった。でも、恐怖心とは違う、ドキドキだった。
壁だと思っていたものに、扉があった。そういう感じに近いかもしれない。扉があると知ったからといって、通れるとは限らない。でも、扉があると知っただけで、世界の形が少し変わる。
名前のない感情というものが、この世には、というより自分には、まだまだたくさんある。
そんな気が、私にはした。
電車は走り続けた。車窓には、夜の始まりかけた街が映り、私の顔も薄く映り、二つの景色が重なりながら、流れていった。
──完──




