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嘘のない人生〜完全版  作者: つなかん


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第八章 夏の旅、七日間

一日目 港町に着く


 夏の光は、海を薄い硝子のようにきらめかせていた。

 駅を出ると、潮の匂いと屋台の甘い匂いが混ざり合う。

 「ようこそ、七日の国へ」

 蓮がふざけた調子で言う。私は笑いながら頷いた。

 宿は白壁の小さなホテル。部屋に入ると、窓一面に港が広がっていた。

 「景色に負けない旅にしよう」

 「負けてもいい。いっそ、景色に甘やかされたい」

 最初の夕食は市場の二階、窓辺のテーブル。氷の上で眠る魚たちが夕焼けを映している。

 会話はまだ慎重で、でも十分にあたたかかった。

 夜、波の音を子守唄にして、私は“考えないこと”を覚えた。


二日目 朝市と坂道


 朝市の通りで、氷水に浮かぶレモンが光る。

 「酸っぱそう」

 「すっぱさは、目を覚まさせる薬です」

 屋台の珈琲は少し薄く、でも海風と一緒に飲むと不思議とおいしかった。

 坂道の途中、古い教会の影で休む。

 蓮は帽子を軽く下げ、私の額に触れない距離で手を差し出した。

 「無理しない」

 「してない。あなたがいると、呼吸が整う」

 初めて、旅らしい汗をかいた。塩と陽の匂いのなかで、心は軽かった。


三日目 灯台まで


 貸自転車で海沿いを走る。風がスカートの裾を翻し、笑い声が潮騒に紛れる。

 灯台の白は雲の白とつながり、世界が一色になった。

 「上まで行く?」

「高いところ、少し怖いけど」

 「怖いのは、落ちることじゃなくて……戻れなくなること」

 螺旋階段を上り切ったところで、風が一気に身体を包む。

 「戻らなくていい、ってこの前あなたが言った」

 「言った。今でも思ってる」

 見下ろす海は青の層を重ね、遠くで漁船が白い軌跡を引いた。

 沈黙は恐れではなく、合図になっていた。


四日目 雨


 朝から細い雨。海は灰色の絹のようで、街は静かに濡れた。

 私たちは商店街の古本屋に逃げ込み、ページの匂いの中で過ごした。

 蓮は小さな詩集を取り出し、指で一行をなぞる。

 「“愛は、互いに似ることではなく、互いに違い続けることだ”」

 「それは慰め? それとも宣言?」

 「どっちも」

 店主に勧められた藍色のしおりを一枚ずつ買う。

 午後、部屋で雨音を聞きながら本を読み、時々、目を合わせて笑った。

 何も起きない一日は、心を静かに満たした。


五日目 路地と映画館


 雨上がりの路地に水たまりが残り、空と傘の色を映している。

 港の外れに小さな映画館を見つけた。古い名画特集。

 「二本立て、いける?」

 「あなたとなら、三本でも」

 暗闇で、スクリーンの光が頬を撫でる。

 途中、蓮が小声で囁く。

 「俳優の顔で生きるの、やめたい時がある」

 「私も、看護師の顔で生きるのを、やめた」

 「それでも、どちらも私たちの中に残る」

 「残しておこう。隠さないで」

 エンドロールの音楽に重なるように波が寄せて、また引いた。


六日目 島へ


 渡し船で小さな島へ。

 港に猫が三匹、陽だまりの形で丸くなっている。

 神社の石段を上がる途中、息が少し切れた。

 蓮が振り向く。

 「大丈夫?」

 「うん。……最近、体のリズムが変わった気がする」

 「旅のせいかもしれないし、季節のせいかもしれない」

 それ以上、彼は問わなかった。

 答えのないものを急がない、それはこの旅の暗黙のルールだった。

 帰りの船で、水平線の端がやさしく滲む。

 指先が触れて、離れて、もう一度そっと重なる。

 約束ではなく、温度でわかることがある。


七日目 出発の朝


 スーツケースにしまう音が、旅の終わりを知らせる。

 窓の外では、港が平日の顔を取り戻し、フォークリフトが箱を運んでいる。

 朝食の席で、蓮が言った。

 「七日の国の感想を、三行で」

 「一行目——よく眠れた。

  二行目——よく笑った。

  三行目——よく生きた」

 「満点だ」

 チェックアウトの時、フロントの女性がポストカードを二枚くれた。

 “また来てください”と印刷された小さな言葉。

 駅までの道、私はポストを見つけて一枚に短い文を書く。

 > いつか、また同じ景色を見られますように。

 宛名は自分自身。未来の私に届けばいい。

 改札で立ち止まると、蓮が真面目な顔で言った。

 「この七日間、嘘がなかった」

 「うん。ひとつも」

 「これからも、できるだけ」

 「できるだけ、じゃなくて」

 私は首を振る。

 「できなかった日は、ちゃんと謝ろう」

 蓮は少し驚いて、それから笑った。

 「それが、いちばん強い約束だ」

 発車のベルが鳴る。

 車窓に流れる港、倉庫、遠ざかる灯台。

 私は胸の高鳴りを数えて、そっと手をあてた。

 ——体のどこかに、新しいリズムが芽生えている。

 それが何なのか、まだ言葉にはしない。

 でも、確かに旅は私たちの中で続いている。

 風がページをめくるみたいに、次の季節へ。


旅の終わりは、始まりの形をしている。

私たちは帰るのではなく、つづきを生きに帰るのだ。


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