第七章 春の光のなかで
冬の名残が街に溶けていく三月の午後。
日差しはやわらかく、風にはまだ少しだけ冷たさが残っていた。
街路樹の枝先には小さな蕾がいくつも並び、
今にも弾けそうに膨らんでいる。
私は、久しぶりに鴨川沿いの道を歩いていた。
少し強めの風が頬を撫でる。
首に巻いた薄手のストールがふわりと揺れ、
その香りが、ほんの一瞬——あの夜の記憶を連れてきた。
「……また、あの人の香り。」
思わず小さく笑ってしまった。
悲しい笑いではなく、
どこか懐かしくて、少しだけ優しい笑い。
——別れの夜から、七日が過ぎた。
桐原悠真の顔を最後に見たあの日、
胸の奥に残ったのは怒りでも悲しみでもなく、
“やっと終わった”という静かな安堵だった。
夜ごと涙が出るかと思っていたけれど、
不思議と泣けなかった。
心のどこかで、ようやく息をしている自分に気づいていた。
「わたし、生きてるんだな……」
声に出して言うと、
川面を渡る風がその言葉を遠くへ運んでいった。
川辺のベンチに腰を下ろし、
スマートフォンを取り出して時間を見る。
時計の針が午後三時を指している。
日差しが傾き始め、対岸のビルの影が川面に長く伸びていた。
そのときだった。
「……やっぱり、ここにいたんですね。」
不意に背後から聞こえた声。
振り返ると、風の中に神谷蓮が立っていた。
黒いロングコート。
マフラーを片手に持ち、少しだけ乱れた髪を風がなでている。
表情には疲れが残っていたが、
その瞳は確かに、あの日のままだった。
「どうして……ここに?」
「なんとなくです。」
蓮は少し笑って、川面を見つめた。
「あなたが春を好きそうな気がしたんです。」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
「たしかに……春は好きです。
でも、今年の春は、少し違う気がします。」
「違う?」
「なんていうか……
今までの春は、“誰かのそばにある季節”だったけど、
今は、“私自身が生きてる季節”みたいで。」
蓮は静かにうなずいた。
「いい言葉ですね。」
ふたりはゆっくりと並んで歩き出した。
川の流れが光を反射してきらきらと輝き、
水面を渡る風が桜の枝を揺らしている。
蕾のいくつかは、すでに花びらを覗かせていた。
「彼とは、終わりました。」
紗季は小さく息を吐きながら言った。
「そうですか。」
それだけ。
彼は追及も慰めもせず、
ただ静かにその言葉を受け止めた。
沈黙が続く。
けれど、その沈黙が心地よい。
言葉を交わさなくても、
心の奥では確かに会話をしているような気がした。
「これから、どうしますか?」
蓮が少し前を見つめながら尋ねた。
「まだわかりません。
でも、嘘のない人生を生きたい。
本当の自分でいられる時間を、
もう一度取り戻したいんです。」
蓮はしばらく黙っていた。
川の向こうの空を見上げ、
ゆっくりと微笑んだ。
「それなら、僕も隣を歩かせてください。」
その声は、春風よりも穏やかだった。
紗季は顔を上げ、彼の横顔を見た。
何も言えなかった。
でも、胸の奥で“ああ、救われた”と感じた。
橋の上で立ち止まり、
ふたりは川面を見下ろした。
水は流れ、風は動き、
季節は確かに巡っていた。
「ねえ、蓮さん。」
「はい。」
「……また、会えますか?」
「ええ。春は、何度でも来ます。」
その言葉が、胸の奥に柔らかく染み込んだ。
太陽が雲間から顔を出し、
ふたりの影を長く伸ばした。
その影が重なり、
川の水面でひとつに揺れた。
風が吹き、
彼のマフラーの端が、そっと私の頬に触れた。
その一瞬、心臓が跳ねる。
微かな香りが胸の奥を満たし、
あの夜の記憶と重なった。
——もう嘘をつかなくていい。
春の光の中で、そう思えた。
> 失ったものよりも、
> これから見つけるものの方が、きっと多い。
> そしてその最初のひとつが、
> この再会だったのだろう。
ふと空を見上げると、
桜の枝の先で、蕾がひとつ、音もなく開いた。
新しい季節の始まりを告げるように。




